うさぎ、王都に着く(下)
夕暮れ時。《詠う旅鳥亭》の食堂は多くの冒険者や客で賑わっていた。料理に舌鼓を打つ者たち。酒盛りを始める者たち。手柄を自慢し合う者たち。多いに飲み食い騒ぐ者もいれば、片隅で静かに過ごす者もいる。
「はあ……疲れた……」
カウンター席の端で、草臥れたように項垂れる冒険者が一人。珍しい光景ではない。仕事に失敗した者、賭博や商売で損をした者、将来に不安を抱える者など、陰鬱な表情を抱えて酒に逃げようとするのはよくあることだ。
だが、彼女はどれにも当てはまらない。仕事は成功したし、損もしていない。将来は不安かもしれないが、酒は飲めないので水を飲んでいる。なのに何故ここまで陰鬱な表情を抱えているのかというと、単に疲れたのとどうしても分からないことがあるからだった。
「はい、ノノちゃん」
名を呼ばれ、顔を上げる獣人の少女──ノノ。宿の主人であるヨハンが料理を持ってきてくれていた。ノノは礼を言うと、ゆるゆると鈍い動作でそれを受け取り、暫し手を合わせて祈るような仕草を見せてから食べ始める。
ちなみにこの時ノノは心の内で『いただきます』と言っている。日本の文化であるその挨拶は当然この世界の住民達には奇異に映るので、毎回あれこれ聞かれるのも煩わしいので口には出さなくなったのだった。祈る程度の仕草なら地方によっては存在するので特に何か言われることもないようだ。
ヨハンは特に何も聞くことなくその場を離れ、他の客の相手をしていた。今のノノには安らかな時間が必要なのだと理解しているからだ。宿屋の主人として当然身に付けているスキルである。
カウンターの片隅で、ノノは黙々と食事を続ける。トマトソースが添えられた鶏胸肉のソテーに、人参たっぷりのサラダだ。詳しくはないが、疲労回復によいものを頼んだらこれらが出てきたので疲れに効くのだろうと結論付けるノノ。
肉にナイフを当てると、するりと刃が入った。するりするりとあっという間に切り分けると、ソースを零さぬよう慎重に口に運ぶ。噛むとじわりと肉汁が溢れてソースと絡み合い、旨味と酸味が共に体に染み渡るのを感じるノノ。目を輝かせるとペースを上げてはぐはぐと口に運び、次々と数を減らしてしまった。一気に食べ尽くすのは勿体無いとようやくブレーキがかかり、サラダに取り掛かり始める。ささがきにした人参に多少の菜っ葉、それらにレモン汁を掛けただけのシンプルなサラダだった。だがそれがいい、と通ぶって思うノノ。しゃきしゃき感とレモンの酸味の中に人参の甘さを感じるのだ。この体になって一番良かったのは、人参が美味しく食べられることだなあとノノは呑気なことを思いつつ、食事を続ける。
獣人とはいえ、冒険者の宿で少女が一人食事をしていれば絡まれそうなものだが、元銀級の冒険者が経営しているだけあって客たちも空気が読める者が揃っていた。時折新参がそれを知らずに無体を働くが、現役を引いたとはいえ、並みの冒険者は軽く捻ることのできるその実力を身を持って知ることとなる。
ようやく食事を終えるノノ。再び祈るような仕草を見せ、ナプキンで口を拭う。現代社会では特に珍しくもない仕草だが、冒険者の一般的な出自からすればかなり育ちがいい方だった。興味を持ってこっそり眺めている者の中には生まれを推測し始めている者もいる。
そんな若干注目されている少女の元に、横からずいとコップが突き出された。
「あちらのお客様から」
あちらというか隣に座ったメアリー本人からだった。
コップには柑橘類のジュースがなみなみと注がれている。疲れた様子のノノを気遣ってくれたのかもしれないし、単に自分も飲みたかっただけかもしれない。もう片手にも同じ中身のコップを持っていた。
「ありがとうなの」
受け取ると、両手で抱えてくぴくぴと飲み始める。それを見て、メアリーもちびちびと飲み始める。半分くらい飲むと、口を離してぷはっと息を吐くノノ。一息つく彼女を横目に見つつ、コップを傾けながらメアリーは声をかける。
「どうだった? 王都の初仕事」
問われたノノは眉を下げて呟く。
「疲れたの……」
くいとまた一口飲むと、続ける。
「見回りしてたら変な怪物が人を襲ってて……何とか追っ払おうとしたの。だけどかなりしつこくて……その上空気が淀んでて気持ち悪くなっちゃったの。最終的には撒いたけど、自分がどこにいるのか分からなくなっちゃって……助けた人たちが教えてくれなかったらまだ地下にいたかもしれないの。感謝なの」
静かに、しかし捲し立てるように話すノノ。愚痴を聞いて欲しかったのかもしれない。かと言ってそこらの人間に愚痴を吐くようなタイプではない。だが先日会ったばかりのメアリーに話すようなことでもない。不思議なことに、二人はお互い他人のような気がしなかった。友情に時間は関係ないというが、急激すぎて奇妙ではあった。
「そう。お疲れ様」
メアリーは労うようにノノの頭を撫でる。少し照れ臭そうにそれを享受するノノだったが、やがてため息を着く。不思議そうに首を傾げて促すメアリー。
「……違うの。本当に疲れたのはここからなの」
ぐったりしながらノノは語り始める。内容が内容だけにギルドに直接報告することになったが、当然いろいろ怪しまれて突っ込まれまくったらしい。何故像兵を送り込んだのか。何故怪物の場所が分かったのか。どうやって追い払ったのか。などなど。
何度も同じ説明をさせられ、曖昧なところは細かく聞かれ、やっと最後まで話し切ったと思ったら最初からまた説明させられてを繰り返し、ノノの精神力は完全に擦り切れたようだった。
ギルドからすれば、王都の地下にそんな存在がいれば大問題に繋がるのだから深く追求されるのは仕方がない。とはいえ、まだまだ駆け出しの冒険者であるノノには荷が重かったようだった。しかし、ノノがした報告により上位の冒険者が動き出すだろう。場合によっては協力を求められる可能性もある。本当に疲れるのはこれからだ。頑張れノノ。
そんなメアリーの生暖かい視線を受けて首を傾げるノノ。しかし疲れていて頭が回らないのか、すぐに諦めてジュースの続きを飲むことにしたようだった。
その後、軽い雑談を続けるノノとメアリー。鬱憤は晴れてノノも笑顔を取り戻したようだった。しかし今度は体が疲労に負け始め、こっくりこっくりと船を漕ぎ始める。そろそろ部屋に戻るとノノが告げると、メアリーは懐から地図が描かれた羊皮紙を取り出した。ノノの小さな掌にそっと手渡す。
「私の店。気が向いたら来て」
「ありがとうなの! それじゃあ明日覗きに行くの」
「待ってる」
別れの挨拶を交わし、ノノは部屋へ戻った。
部屋へ戻ると、服を脱ぎ捨てて下着姿でベッドに寝転がるノノ。行儀が悪いがそれを咎めるものは誰も居らず、体を投げ出すように横たえてぼんやりと天井を眺めている。
ノノは今日の出来事を思い返していた。
◆ ◆ ◆
注意を引くためにちょっと格好つけてみたけど思ったより恥ずかしい……。というか、鼻には悪臭対策に薔薇の匂いたっぷり付けた布切れを詰めてあるし、串焼きを食べてる途中で慌てて飛んできたから口元汚れてるだろうし、あーうー……みっともないかも……。
くるりと後ろを向いてソースを拭う。鼻はしょうがないので布でマスクにして隠そう。えーと、こんなものでいいかな……。
「──おい! 危ないぞ!」
いや、分かってるんだけどね。像兵側の視界もあるので背後に怪物が迫っているのは見えているのだ。というわけで振り向きながら下がって、再生した像兵を再度ぶつける。
『ぼおおおお……』
『ギャアアアアアアアアッ!』
しかしやはり押され気味な像兵。これは像兵が弱いというよりは敵が強過ぎるのだろう。少なくとも王都の地下に居ていいレベルの怪物ではない。戦うにしても追い払うにしても、まずは逃げていた人達を逃がさないと。
「あなた達にかかっていた幻覚系の効果は解いたから、早く逃げるの!」
促すと、何人かはすぐさま逃げ出した。残りは逃げ出す気力が残っていないのかよろよろと少し離れ、一部は武器を抜いて怪物に向かって構える。……ところで、どういう人たちなんだろう。一般人には見えないし、別件で依頼を受けていた冒険者かな? でもそんな感じにも見えないような……。
まあ、それは後でもいいか。まずは敵の正体を見極めないと。
とはいえ、分かることはあまり多くない。灰色の大男に無数の目玉が顔に張り付いて、大きな口に鋭い牙が多数並んでいる。その口元にべっとりと付いた血糊やこびり付いた肉片が、少なくない犠牲者を出してしまったことを物語っていた。最早私でも、もう蘇生はできないだろう。何故なら、恐らく奴は鬼族だからだ。
──鬼族。
偽りの生命を持ち、虚ろな魂と醜悪な肉体を抱えて彷徨う者たち。奴らは時と共に朽ち果てて行く己の魂を満たすために、命あるものを襲う。ある時は肉を切り裂き魂を喰らい、ある時は血液を飲み干し魂を啜り、ある時は躰を犯し魂を吸い取る。奪われたものはもう還らない。魂亡き者を蘇らせることはできない。私たち命ある者たちの不倶戴天の大敵なのだ。
当然、そんな存在が広いとはいえ王都の地下にいていい筈がない。出来ればここで斃してしまいたい。だが場所が悪かった。薄暗く狭い地下下水道では動きがかなり制限されるし、大規模な魔法は使えない。それに、逃げていない人たちもいる。人手があるといえば聞こえはいいが、会ったばかりの見知らぬ人々とそう簡単に連携が取れるわけがない。そして何より悪臭! できるだけの対策はしてきたけれど、そんなに持つものでもないし。早めに決着を付けないと王都の地下に沈むことになりそう。何それ怖い。
そんな中、武器を構えていた一人の男がじりじりと怪物に詰め寄って行く。
「どうしたの!? 早く逃げないと──」
「仲間がやられてよぉ。はいそうですかと逃げられるわけがねえんだなあこれが……!」
「気持ちは分かるけど、せめて一旦退いて──」
「悪りいな嬢ちゃん。せめて一太刀浴びせてやらねえと気が済まねえの──さッ!」
──刃が疾走る。
像兵に足止めされ、動きが鈍っていた怪物の腕に裂傷を与えた。ぱっくりと裂ける肉、飛び散る黄土色の体液。だがその程度は痛くも痒くもないと、みるみるうちに傷口の肉が盛り上がり再生してしまう。……再生能力が高い。これはますます厳しいかもしれない。
でも今の太刀筋からすると結構な力量だ。何故逃げ回っていたのか分からないくらい。この人が力になってくれるなら少しは楽に──
「……よし一太刀浴びせた! それじゃあ後は任せたぜ!」
「え、ちょっと!?」
「悪りいな嬢ちゃん。一太刀浴びせたから気が済んだのさ!」
そう言って全速力で駆け出す男。……長生きしそうな人だなあ。
それに触発されたのか、敵の再生能力を見てなのか、後に続いて逃げて行く残りの人たち。……そうか。確かに仲間が殺されたなら、みんな冷静ではいられなかったのだろう。そんな中彼は先陣を切って敵を攻撃し、それが無意味でないにしろ効果が薄いことを知らしめたのだ。お陰で頭に血が上っていた人たちは少し冷静になれたのだろう。そう考えると、さっきのおちゃらけた言動も狙っていたように思えてくる。
──よし、任された。
彼らが逃げ切るまで私がこいつを足止めしよう。任されたからにはそれくらいしなければ、格好がつかない。むしろここで倒すくらいの勢いでいこう!
「さあ、ここは通さないの! ここを通りたかったらこの私を倒していきなさい!」
『ギャアアアアアアアッッ!!』
──吼える。
それは、弱者を恐慌させるための攻撃ではなく、抑えきれぬ憎悪を込めた叫びだった。メキメキと全身の筋肉を隆起させ、戦闘態勢に入ろうとしている。
……あれ? 今回は流石に恨みを買うようなことはしてないよね? いや大人しく生活してたって訳じゃないけど、旅の途中で王都の地下に潜む鬼族の恨みを買うような真似はちょっと難しい。というかこの世界に来て初めて遭遇したし……。一体どういうことなんだろう?
それに、ずっと気になっていることがある。
──どうしてこの鬼族は私が作り出した像兵とそっくりの造形をしているのだろう?
像兵の改造は何も参考にせず、あくまで適当に私のセンスで行った。結果的に顔面に光る目玉がいくつもあるし、魔波を放つための口は大きめになって化け物染みてはいたけれど、化け物を模したわけではない。
よく見れば目の配置から口の大きさ、体格まで一緒なのである。流石に強さは一緒ではないけれど、偶然にしては類似点が多すぎる。
──もしかして、こいつも改造されている?
何の根拠もないが、何故かそう思った。そして、それは正しいのだと何故か直感が告げている。
そして、それ以上の思考は許されなかった。
「一体どういう──うわっと!?」
『ギギギギギギギィィィィッッ!!』
咄嗟に下がると怪物の剛腕が元いた場所を薙ぎ払う。慌てて距離を取り、足止めの魔法を思い浮かべ始める。
「ええい、考えるのは後! まずはこいつをどうにかしなくちゃ!」
◆ ◆ ◆
その後の顛末は、メアリーに語った通りである。
あまり派手な魔法が使えずにじわじわと足止めをしていたのだが、相手は全く怯むことなく襲ってくるので、とうとう逃げ出す羽目になったのだ。そして悪臭に体調を崩し、途中で見かけた人に道を聞いてなんとか地上に出られた。あの後教えてもらった出入り口が塞がってしまったのだけれど、あれは緊急用の出入り口だったのだろうか。今となっては分からない。
結局、あの怪物は一体なんだったのだろうか。
あれからずっと考えているが、やはり今までの行動からあの怪物に繋がる線が見えてこない。妖狼の時とは少し違う。あの時は私が原因なので咆哮から恨み辛みが感じ取れたが、奴の咆哮からは何らかの恨みとかそういうものではなく、変な話だけれど純粋に私が憎いという意思が感じ取れたような気がする。
……思い違いかもしれない。考えすぎかもしれない。それでも何とか答えが欲しくて、枕を抱えてうーうー唸りながらベッドの上を転がる。
それとも、とうとう来てしまったのだろうか。記憶を失う前の私との因縁が……。
同じ家に生まれながら異なる魔法の才能を示した二人の兎人。一方は人を癒す白魔術師の道へ。もう一方は人を壊す黒魔術師の道へ。道を違えた二人は幾度となくぶつかり合い、殺し合い、そしてその果てにお互い死の一歩手前まで追い詰める。その代償に白魔術師の兎人は記憶を失い、黒魔術師も傷を癒すため潜伏せざるを得なかった。記憶を失ったまま彷徨い歩き、やがて王都にたどり着いた兎人。しかし王都には潜伏する黒魔術師の兎人がいた。記憶を失い弱っているところに付け込み刺客を放つが、上手く逃げられ歯痒い思いをするのだった……つづく!
なんてね。
全くあり得ないとは言わないけれど、ちょっとドラマチックすぎるかな。現実的ならもっとこう……元恋人や元夫を巻き込む昼ドラみたいなドロドロの三角関係とかだったら嫌だなあ。まあ、体は清いからそういう線は無いと分かってはいるけどね。キスくらいはした事あるかもしれないけど、今の記憶にないのだからノーカンである。あと酒の席でのこともノーカンである。ロゼッタさんなら大歓迎なのだけれど、記憶にないのでしてないも同然である。くっ、なんて勿体無い……!
結局今の段階で分かることは精々、何者かが私を狙っているかもしれないという事くらいだ。この先王都で過ごすなら、気を張って過ごさないといけないだろう。もしくは、王都を離れるか。案外王都を離れれば追ってこないかもしれない。楽観的かもしれないが王都に来た途端の出来事なので、ないとも言い切れない。
ころころ転げるのを止めて、また天井を見上げてため息をつく。
ただまあ、逃げていたら何も解決しない。事態が動き出したということは、何かしらのヒントが王都にあるかもしれないということでもある。それならばどんどん来るといいさ。逆にそこから手繰って相手の正体を掴んでやるもんね。けどまあ程々にしてくれるとありがたいのだけれど。
「ふぁ……」
決意を新たにしたところで欠伸が出た。さて、流石にもう眠い。細かいことは明日考えることにして、今日はもう寝よう。
階下から人々の喧騒が聞こえてくる。けれど襲い来る眠気には敵わず、そのざわめきを子守唄に眠りに沈んで行く。
……あー、自分に関係がある体で進めたけれど、単に人違いとか野生の怪物とかで全く関係ないトラブルだったらどうしよう……。眠る直前に嫌な考えが浮かんじゃったなあ……。
◆ ◆ ◆
ノノが眠り、幾許かの時間が経過する。
すると、何処からかかさかさと何かが這いずる回る音が聞こえ始めた。その音は壁を走り、天井を走り、ノノの真上に辿り着くとぴたりと静止する。暫しそこで静止していたが、やがてきちきちと何かが噛み合う音がしたかと思うと、カチリという音と共に天井で一対の赤い小さな光が灯った。
そこには小さな何かがいた。
一見すると野生でよく見かけるような甲虫の一種のようだ。だがその光る目は無機質で、生物らしさが感じられない。
それもそのはずだ。これは生物ではない。魔具の一種である。その外骨格は木製で、見事な彫刻と塗装でまるで生き物のように生き生きとしている。だがその隙間からきらきらと覗くのは、魔力を帯びた宝石や鉱石による複雑なパーツだった。特殊なインクによって線密な魔法陣が描かれ、配線され、ある機能を動かすためにきちきちと蠢き続けている。
そんな事も知らず、全く気付く様子もなく、ノノは呑気にすぴょすぴょと寝息を立てて深い眠りについている。その様子を魔具の甲虫は目をチカチカと点滅させながらじっと見つめているようにも見える。
ノノが眠る部屋、その窓から覗ける路地裏に小柄な人影があった。
暗色のローブを着込み、フードを深く被っている。その人影は俯いて両手に持った何かを覗き込んでいた。
──水晶玉に、ノノの寝姿が映っている。
淡い輝きを放ちながら、水晶玉は甲虫の視界を映し出している。甲虫と対になり映像を映す魔具だ。水晶玉の輝きを受け、微かに見えるその口元はにたりにたりと笑っている。
それからかなりの時間、人影は水晶玉を覗き込んでいた。時折映像は移動し、ノノをあらゆる方向から映し出す。その度に人影は頭をゆらゆらと揺らし、そして笑い続ける。
やがて満足したのか、人影は水晶玉に手を翳すと一言二言何かを呟いた。
すると水晶玉の映像は途切れ、輝きを無くす。しばらくするとぶうん、と羽音が届き人影が開いた手の上に先程の甲虫が止まった。人影は懐を探り、小瓶を取り出すと甲虫をその上に持ってくる。指先に僅かな魔力が走り、甲虫は命令に従って体内に格納していた『それ』を小瓶の中に落とした。
──動物のような体毛だ。
経緯を考えればノノの体毛だというのは想像に難くない。人影はそれを見てにっこりと微笑むと、優しく蓋をして月の明かりに翳す。
特になんの変哲もない毛だ。月明かりに反射してきらきら輝くようなロマンチックな事もない。しかし人影はまるで宝物を手に入れたかのように目を輝かせ、しばしの間それに見惚れていた。
最後に人影は小瓶をきゅっと抱えて、慎重に懐にしまいこむ。そしてゆっくりと歩き出す。
「……ふふっ……ふふふふ……」
堪えきれない笑いがこぼれ始め、人影──少女はくすくすと笑いながらその場を後にした。
全ては動き始める。
この王都にてノノは多くの物を手にいれ、多くの物を失うことになる。
それを知らず、今はまだ穏やかに眠り続けるノノ。
最初の試練が、今まさに始まろうとしていた。




