うさぎ、王都に着く(中)
「《防毒》──《旋風結界》──ついでに《草花生成》!」
とりあえず臭い消しに役立ちそうな魔法を自らに掛けておく。更に魔法で青い薔薇──奇しの薔薇を生み出し、その香りを思い切り吸い込んだ。あー、何かトイレの芳香剤を思い出すなあ。鼻が少しぼんやりして来るのを感じる。
肺を濃厚な花の香りで満たすと、いつでも取り出せるように襟元に仕込む。今着ているローブは偉大なる遺物なので汚れたり匂いが染み込む恐れはないが、念の為下着や荷物と一緒に防護魔法をかけておく。あとは目や口を《水膜結界》を応用したレンズやマスクで覆う。ちなみに、空気は通すので窒息の危険性はない。
よし、準備万端──冒険者ノノ、いざ参るッ!
うおーっ、と勢い勇んで地下下水道へ駆ける私。
うわーっ、と這々の体で地上へ逃げ戻る私。
「げーほげほげほっ! ダメ! 無理! 私の鼻良すぎ!」
くちゃい! くちゃすぎる!
元々鼻が良い獣人の身体能力に、レベルカンスト寸前相応の私の身体能力。それに加えてゲームを踏襲したレーダー能力がそれに輪をかけて性能を上げている。本来ならば成長して行く過程で徐々に慣れて行くはずのその嗅覚に、私は完全に翻弄されていた。
いや、これでも少しは慣れているのだ。この世界で目覚めてしばらくは鋭すぎる感覚に慣れなかった。けれどいつしかある程度鈍らせることを覚えて、ある程度コントロールできるようになっていた。
とはいえここまで濃密な臭いにコントロールも何も無く、潜在していた感覚が無理やり引き摺り出される! 一瞬鼻を通り抜けた臭いだけで、あの場所にどんな汚物があってどんな生き物が住んでいてどんな人がいたのか勝手に分析され、もうひと嗅ぎしただけで知りたくもない汚物の内容を解析し始める始末。最早拷問である。犬は縄張りにかけられた尿を嗅ぐだけでその犬の殆どを知ることができるというが、それを超える性能だ。
無論鼻に届く臭いを抑えようとさっきからいろいろ魔法を試してはいるが、いくらフィルターしても微かな臭いさえ捉えれば以下同文。覚悟を決めて鼻を完全に固めても口で息を吸ってしまうのであまり意味がない。ていうかこの空気に舌を触れさせたくない。大きな水の球を作ってそこに潜り、水中呼吸魔法を使うという手もあるが、かなり神経と魔力を使うし水球の操作で周囲の観察どころじゃないので本末転倒である。
どうしたものか……。
……待てよ、逆に考えるんだ。そもそも私自身が中に入る必要はないのではないだろうか。いや中に興味があったからこの依頼を選んだのだけれど、どうやら今の私では無理らしい。かと言って今更『臭くて入れませんでした』なんて言って断るわけにもいかない。というか初仕事でそれじゃあ評判ガタ落ちである。ヨハンさんは勿論、ジェフリーさんやロゼッタさんたちを失望させる訳にはいかない。
そこで、私自身ではなく使い魔や像兵を送り込むのはどうだろう。感覚を完全に共有できるわけではないが、視覚や聴覚を繋いで外から下水道の中を調査することができる。勿論嗅覚は繋がない。
なんだかいいアイデアな気がしてきた!
……で、何を作ろう?
使い魔を作るには、『使い魔にしたい生物と契約する』『力尽くで従える』『死体などを利用して魔法生物を作る』といういくつかの方法がある。要するに生き物が必要だ。ただ、ある程度魔法で強化できるとはいえスペックは元の生物から大きく変わらないので、用途によって選ぶ生物を考える必要がある。地下下水道に合う生き物と言ったら……ネズミやコウモリ?
像兵の方が手っ取り早いかなあ。ただ、問題は像兵を作る材料だ。無からポンと生み出すのではなくてそこにある素材を人型に固めて動かすので、街中では基本的に使えないのだ。外なら幾らでも材料があるし使ってもあまりうるさく言われないけれど、流石にその辺の道路や壁を像兵に変えてしまうのはまずいよね。
ちなみに精霊を召喚してもあまり役に立たないと思われる。精霊の知覚は生物とはかなり異なり、私の脳では理解できないからだ。一度試したことがあるけど、何か宇宙が見えた。何これ怖い。
うーん、使い魔になりそうな生き物を捕まえてこようか? もしくは外に出て像兵を作って戻ってきて……駄目かなあ。衛兵に怒られそう。下水道に材料があれ……ば……?
あ、そうか。あるじゃん、材料。
◆ ◆ ◆
水の流れる静かな音、時折鳴り響く雫が滴り落ちる音、壁や通路にこびり付いた得体の知れない汚れ、どうしようもなく漂う悪臭──何の変哲もない地下下水道に、一つの胡乱な人影らしきものが蠢いていた。
水路を支障なくざぶざぶと進み、時折立ち止まっては辺りを見回す。頭らしき箇所に爛々と光る目玉があり、その明かりを向けられて壁や通路が淡く照らされる。眩しさに鼠や蝙蝠がきいきいと鳴きながら逃げ出し、足音や羽音を響かせることもあった。しかしそんなことはお構いなしに一通りそれらを眺めると、またざぶざぶと進み出す。
その正体は、ノノが作り出した泥像兵である。
水路に溜まっていた泥を材料としたのだ。ただ、当然溜まっていたのは基本的に汚泥なので、正確に言えば汚泥像兵とでも呼ぶべきだろう。それなりに清掃はされていたために作成した直後はそれほど大きくなかったが、移動したそばから材料を回収して徐々に大きくなりつつある。
また、通常像兵の知覚はぼんやりとした視覚と曖昧な魔法感知くらいのため、ノノによってある程度の改造が施されている。知覚は強化され、明るさを確保するために《明かり》をかけた石ころを顔にいくつか埋め込まれていた。更に、自身のレーダー能力を活用してソナー代わりにするために、口から魔力の波を発する機能が作られている。ノノは出来上がった像兵を見て完全に化け物だな、と冷や汗を流していたが妥協したようだ。
というのも、像兵の作成にも改造にもどうしても下水道に入らざるを得なかったので、短時間ならと覚悟を決めて完全防護状態で挑んだのだ。結果急激に魔力を消耗する羽目になり、一瞬自分が何をしているのか我に返りそうになったがなんとか最後まで作業をすることができていた。
──ノノは後に振り返る。こんな横着をせずに、素直にネズミを探しに行けばよかったと。
地上で新鮮な空気を吸いながら、初めてラジコンを操縦する少年の如く楽しそうに像兵を操るノノ。地下でその命を受け悠々と水路を往く像兵。当然像兵の姿が恐ろしいのはノノも分かっているので、もし管理者などに出くわしても驚かせないように静かに移動させている。人影を見かけたら水路に身を沈め明かりを隠す作戦だ。
問題は、音が聞こえないことだ。像兵から送られてくるのは映像と魔力波を利用したソナーによる情報くらいなのである。聴覚並みに鋭敏なセンサーなので物体の有無などは分かるが、万が一人に遭遇して声をかけられたりしても像兵にもノノにも分からない。
さて、お分かりの通りノノは自分が作った像兵をかなり過小評価していた。それはある一面において正しい。あくまで探査用なので対した戦闘能力は持たないし、強化改造も知覚に特化している。もしそれなりに腕に覚えのある冒険者が倒そうとすれば、容易に討つことができるだろう。そして、作業をしていた場がある程度明かりを確保されていた場所だったのが大きい。明るい場所での像兵は醜いとはいえそれほど恐ろしく見えるものではなかったためだ。
だが、暗闇の中朧げな明かりを顔に貼り付けて揺らめき、生物がいるはずもない水路をざぶざぶと蠢き、時折ぼおおと亡者の呻きのような音を出しながら魔波を放つ存在を見て、誰が只の探査用像兵と分かるだろうか?
ある者は王都の闇に潜む怪物と見た。
ある者は何者かの命を受け活動する使い魔と見た。
ある者は人々の負の感情が生み出した悪魔と見た。
ある者は正義のために身を怪物に堕とし悪人を喰らうダークヒーローと見た。
ある者は。ある者は。またある者は──。
──結論から言おう。
この日、一つの新たな都市伝説が生まれたのだ。
◆ ◆ ◆
自分以外の視界が網膜に映るというのは不思議なもので、テレビのモニターを眺める感覚とは違うし、双眼鏡や望遠鏡を覗いた感じとも違う。強いて言うなら夢を見る感覚に近いだろうか。
自分は歩いていないのに視界は進む。行き先を指示しているだけで実際に動くのは像兵だからだ。自分の目を動かしても視界は動かない。像兵に一応目の役割を果たすものはあるけれど、本物の眼球ではないので動かせないのだ。
ちょっと変な感覚だけど、すごい面白い!
こうなると音が聞こえないのが残念だ。さっきは入れなかったくせに匂いがしないのもなんだか物足りない。ただ、代わりに魔波による探知ができるのでこれもまた面白い。いややろうと思えば私もできるんだろうけれど、像兵と生物ではやはり受け取り方も違うのだ。
像兵を一回鳴かせてみる。目には見えないが薄い魔力波が放たれ、ついでに聞こえないがぼおお、とでも音が出たはずだ。
視界に入っていないのに、辺りのどこに何があるのかが分かる。この感覚はとても言葉には言い表せない。目で見ていないのにまるで目で見ているような……大雑把に言えばそんな感じだ。視界が三百六十度広がったようにも感じる。
面白がってぼうぼうと鳴かせていると、辺りにいた小動物がいつの間にか逃げ去っていた。ちょっと調子に乗ってしまったか。魔力は訓練しないと感知するのは難しいが、野生動物が一切感知できないわけではない。むしろ危機に敏感な小動物の方が感じ取る能力は高いだろう。その上普通に音も出ている。大変驚かせてしまったようだ。
さて、面白がるのはこれくらいにして、いい加減仕事を始めないと。
とはいえそんなに気張ることもない。調査とはいえ見回り中に気になることがあれば報告する程度だ。害獣も今の所見当たらない。もし現れても像兵は戦闘用ではないが野生動物程度なら駆除できるだろう。
それに、流石に王都に広がる地下下水道全てを見回るわけでもない。精々一区域かそこらだ。歩いて見回るには少々辛いが、実際に見回るのは体力の心配のない像兵だ。休まず移動すればかなり早く仕事を終えることができるだろう。……像兵に見回りをさせたと報告して問題ないかなあ。早すぎるとサボったと怪しまれるかもしれない。まあとりあえず見回りを終えてから考えようか。
最初は面白がっていた像兵の操縦も、代わり映えしない視界の中一時間、二時間と続けていると流石に飽きてくる。見落としがないように気張ってじっくりと視界をチェックしていたせいか、精神的にやや疲れてしまった。
像兵の歩行に合わせて動く視界。光を飲んで暗い水底を見せていた水面が、巻き上げられた泥や何かで濁りちゃぷちゃぷと揺れた。それは像兵が照らす明かりを乱反射して、私の目を刺激する。それを避けるように命令すると、像兵は頭を上げて周囲にやった。
どこまで行っても薄暗いけれど、通路も壁も想像していたよりは綺麗だった。清掃に魔法などを使っているのだろうか。歴史のありそうな施設の割には劣化はそれほど激しくない。水路の中も多少の汚泥は沈んでいるが劇的というほどではないし、人間や動物の死体が沈んでいるとかそういうこともない。
なるほど、これは皆嫌がるわけだ。
この施設は十分に管理されていて、殆ど危険性は無いし能力も必要ない。冒険者がやる必要のある仕事ではないのだ。まあ私は肉体的に問題があって臭いに負けたけれど、一般人でも十分に可能な仕事だ。
まあ、予想通りではあったけれど。
像兵を待機状態にして、意識を戻す。地下下水道の入り口近く、木の根元で座り込んでいたので体が固まってしまっていた。立ち上がって背伸びして、軽く体を動かす。やれやれ、傍目から見たら何をしていたように見えたのだろう。辺鄙なところで瞑想していた獣人かな?
「はーっ、疲れた……」
像兵作りから始めてそのまま見回りをしてたから、計三時間くらい集中していたのだろうか。ちょっと休憩しよう。
もうちょっと体をほぐそうと体操をしていると、お腹がくぅと鳴った。そういえばもうお昼過ぎか……。地下に入るつもりだったからお弁当とかは持ってきてないんだよね。どこかに食べに行こうかな。
体に臭いが染み付いていないか注意深く確認する。街中でアレな臭いを漂わせる訳にも行かないしね。念のため魔法で花の香りを振りまいておこう。
像兵は……まあ、待機させておけば唯の泥の塊にしか見えないだろうし、しばらく放っておいてもいいだろう。念の為異常があれば私に信号を送るようにしておく。これでよし。
「よーし、昨日気になっていた串焼きを食べるぞー!」
テンション上がってきた! じゅうじゅう焼ける肉の音、香ばしいソースの香り、何の肉だか分からないけどとっても美味しそうだったのを覚えている。うーん、思い出すとますますお腹が減ってきた。
早く食べ物を寄越せと急かすお腹をなだめながら、若干早足で食べ物屋のある通りへ急ぐ。お腹を満たして休憩したら、また見回りを再開しよう。
それまで地下でしばらく待っててね、像兵くん!
◆ ◆ ◆
──地下下水道。
特に厳重に警備されているわけではないが、基本的に封鎖されており一般人が入ってきて良い場所ではない。鍵を持つ管理者か、仕事のため鍵を借りた清掃人や冒険者くらいしか入ることはできない。その鍵も複製が難しい魔具であり、持ち逃げされても自壊する機能があるために盗むこともできない。通常の手段では入ることは叶わないのだ。
……と、いうのが表の人間たちの認識だった。事実は当然異なる。
王都の隅々まで張り巡らされた地下下水道の出入りを管理することなど不可能なのだ。勝手に作られた隠された出入り口もある。ある場所では貧民が隠れ住み、ある場所では禁制品の取引が行われ、ある場所では異端の魔法使いが違法な研究を行っていることもある。非常に混沌とした場所なのである。
ある程度上の人間や地下下水道の管理者たちはその事態を把握しているが、表立って動こうとはしていないし、根本的な解決が不可能なことも分かっている。そもそも下水道の機能自体が脅かされているわけではないのだ。時折間抜けな輩が騒ぎを起こすが、それらもすぐ鎮圧されている。これ以上金も人員もかけることは出来ない。
そのような理由で、今日の地下下水道の状況は見逃されている。
そんな地下下水道にて、荷物を抱えながらこそこそと動き回る男たちがいるのもまたいつも通りの光景だった。
──『運び屋』だ。
禁制品や盗品、または生物、はたまた誘拐した何者かを運ぶ裏の人間たちである。彼らは金さえ払えば何でも運ぶ。そして運ぶためなら手段を問わない。彼らが王都のどこにでも続いている地下下水道をルートに選んだのも必然だった。
危険が全く無いわけではない。彼らの荷物を狙って襲ってくる者もいる。そのような輩は運び屋と共にいる護衛の傭兵が返り討ちにするが、荷物の破壊を狙われることもある。もしくは精神や肉体を病んだ者が単純に暴力を振るうこともある。
表向きはよく管理されている平和な施設だが、一歩道を踏み外せば王都の闇の一端を覗くことになるだろう。
男たちはなるべく音を立てず、気配を殺して歩いている。今の所怪しい気配はない。この場で一番怪しいのは男たち自身だろう。地下に潜ってから一時間ほど経過しているが、特にトラブルもなく順調だった。とはいえ、それで油断するような生易しい人生を送ってきた者たちではない。いつでも臨戦態勢に入れるよう気を張り詰めながら移動している。
──ぱしゃり。
そんな彼らが、不自然に水が跳ねる音を聞いた瞬間に武器を構えたのも必然だった。荷物を持つ運び屋を囲み、全方位を警戒する。囮の可能性もあるからだ。音の聞こえた方角に視線をやるが、明かりはない。男たちでさえ最低限の明かりを確保するために足元を照らしているが、その残滓すら見つからない。
「……出てこい」
音が聞こえてきたのは十字路の左手である。そこへ、もうバレているぞとばかりに声を掛けるが当然返事はない。単に出くわしただけの同業者ならさっさと出てくればいい。互いの事には干渉をしないという暗黙の了解がある。出て来ないということは、後ろ暗い輩が潜んでいるか単に勘違いだったかである。
そのまましばし待ったが何も起こらない。勘違いだった可能性は高い。どこかで積み上げられたゴミなどが崩れて水路に落ちた場合もある。
だが男たち、特に傭兵たちは嫌な予感が拭いきれなかった。
勘が言っているのだ。選択を間違えれば──死ぬぞ、と。
傭兵のリーダー格の男は一筋の冷や汗を流した。そして手でサインを送り、何人かの部下とともに角の向こう側へ近付いていく。何者が現れようと無事ですますつもりはないと戦闘態勢のまま角に立つ。
全員が配置に着いたのを確認すると、しばし待つ。
一瞬、あるいは十分な時間が流れ、向こう側の動きを誘う。
押し殺した息遣い、ぎちりと軋む筋肉、どくどくと動く心臓の音。
そして天井から水滴が垂れ落ちて、ぴちょりと音を鳴らす──その瞬間、男たちは角の向こうへ躍り出る!
──何もない。
誰かの影も形もない。相変わらず薄汚い下水道が続くのみ。
それに、一瞬安堵してしまう。
『何もない』のに、何故『音が鳴った』のか意識から外してしまう。
「何だ……何もいな──」
それが、間抜けな部下の最期の言葉だった。
──めきり、と何かが握り潰される音が聞こえ、声を出した部下が消える。
「がああああああッッ!?」
何者かに足を掴まれ、水路に引き摺り込まれて行く! 暴れる暇もなく水中に沈むと、ごきんごきんと何かが折れる音が響き、ぶちぶちと引き千切られる音が聞こえてくる。水面は一瞬で真っ赤に染まり、血の匂いが辺りに漂い始める!
傭兵たちは既に撤退に入っていた。仲間がやられたからと言って動揺し、怒りに身を任せるような若輩者ではない。全ては安全を確保してから。臆病な程長生きできるのは裏の人間にとっての常識だった。
先行して逃走していた運び屋と残りの部下の後を追い、敵の正体に辺りをつけるリーダー。何処かの馬鹿が実験体を放流したか? 何者かが荷物を狙って刺客を放ったか? はたまた自然発生した怪物か? 先入観は視野を狭めるが、相手の正体によっては更なる警戒が必要だ。逃げた先にもう一匹が待ち受けていた、など笑い話にもならない。何故ならそこで後に語れるものはいなくなるからだ。闇雲に走らず、細心の注意を払って逃走する。
そこへ、悍ましい絶叫が響き渡る。
『ギャアアアアアアアアアアアアァァァァッッッ!!!』
余りの音量にびりびりと鼓膜が痺れ、意識が一瞬揺らぐ男たち。すぐに気を持ち直したが、背筋が震えて止まらない。幾多の修羅場を潜り抜け、恐怖などとうに克服した傭兵たちが、臓腑を掴まれるような恐ろしさに動揺しかける。
だが、ギリギリのところで踏み止まり足を速める。
地下下水道は男たちにとって庭のようなものだ。適切なルートを通れば捲くことは難しくはない。新手に警戒して安全なところまで逃走すればいいのだ、と己を落ち着かせる。
角を曲がろうとした瞬間、先行していた男は何者かと衝突しそうになる。一瞬体勢が崩れそうになるがギリギリ躱す。
──敵か!?
だが様子がおかしい。待ち構えていたのではなく、向こうから全力疾走してきていたようだ。こちらとぶつかりそうになったことで足がもつれ、転倒していた。
「ば、バカやろぉ……あぶねえじゃ……ねえか……」
ぜいぜいと息を切らして毒づくのは男たちの同類の密売人だった。何かに怯えるようにぶるぶると震えながら慌てて立ち上がろうとしている。
「馬鹿はそっちだろ! あの叫び声が聞こえなかったのか!? 向かって行ってどうする!?」
罵声を飛ばすと、男たちは逃走を再開しようとする。
が、密売人が叫ぶ。
「おい! そっちは行き止まりだ!」
──馬鹿な。何を言っている?
このまま進めば暫くは一本道のはずである。ここの者たちが知らないはずはない。その疑問が伝わったのか、密売人は必死に叫ぶ。
「何が何だかわからねえ! 続いてるはずの道が行き止まりだったり、行き止まりのはずの道が続いてたり、曲がり角が逆になったり一本道が十字路になっちまったりしちまってる! 外に出れねえんだ!」
恐怖で錯乱したか。それとも薬でラリっているのか。そう結論付けて、先を急ぐ。後方から密売人の罵声が聞こえるが無視した。
──だが、その言葉が事実だとすぐに思い知ることになった。
道は確かに続いている。だが、鉄格子で封鎖されていた。
その鉄格子をがしゃがしゃと叩いているまた別の同業者がいた。完全に錯乱している。
「畜生! 出せ! ここから出せえええええッ!!」
しばし呆然とする男たちだったが、すぐ気を取り直すと来た道を引き返す。そして間違っているはずの、知っているはずの、新たな道を行く。
密売人の言葉は事実だった。
完全に下水道の構造が変わっている。知っている道が知らない道になり、知らない道からまた知っている道に続いていたりしている。そしてあちこち封鎖されていた。あるはずの隠し出入り口も見当たらない。男たちは完全に閉じ込められていた。
途中で怪物の雄叫びを聞いて逃げ回っていた連中と合流する。時折はぐれては断末魔の悲鳴が聞こえ、そこから皆で遠ざかる。だがどこへ逃げればいいのか? 下水道は迷宮と化し、番人気取りの怪物が我が物顔で侵入者を捕食する。
徐々に男たちの精神は追い詰められつつあった。もう時間感覚も分からない。自分たちがどこにいるのかも分からない。真っ暗闇の中何人かが持っていた明るいカンテラだけが頼りだった。
だが、それももう終わりだった。とうとう逃げ場を失い、行き止まりに追い詰められてしまう。
狂ったように鉄格子を叩き続ける者。ぶつぶつとうわ言を呟き蹲る者。絶望に笑い出すもの。
彼らに忍び寄る怪物。水路をざぶざぶと進み、無数の目玉を爛々と輝かせている。人間だったものをぼきぼきと食み、くちゃくちゃと咀嚼している。
誰かがカンテラを投げつけて、皆がその正体を目の当たりにする。
怪物は咆哮した。
『ヴォオオオオオオオオオオオオオオオオッッ!!』
「うわあああああああああああっっ!?」
怪物が迫る。
それが、彼らが見た最期の映像──
──には、ならなかった。
ざばあ、と男たちのすぐ側の水路から何かが立ち上がる。
強烈な悪臭が男たちの粘膜を酷く刺激した。その何かもまた怪物のようだった。だが男たちには目もくれず、無機質な複数の目を襲い来る怪物に向けて、突進する。
『ぼおおおおおおお……』
亡者のように低い音が聞こえるが、先程の怪物の咆哮に比べれば子守唄のようなものだ。
新たな怪物は敵の怪物に取り付いて動きを抑えようとしている。だが、そう上手くは行かないようだった。完全に力負けしており、腕をもぎ取られ、腹を砕かれて行く。残念ながら新たな怪物はすぐ退場する運命となるようだった。
「──そう、それでいいの。一瞬気を逸らせればいいの」
どしゅ、と怪物の目玉に串のような何かが突き刺さる。
『ギャアアアアアアアアアッッ!!?』
痛みからか絶叫する怪物。潰れた目玉を抑え蹲る。次々と移り変わる展開について行けない男たちはゆるゆると声が聞こえた方を振り返る。
「《精神安定》──!」
暖かい光が彼らを包み、精神が強制的に安定化される。そしてどういうことか、彼らの行く手を阻んでいた鉄格子が消え去り、周囲の道も見慣れた風景に戻った。戸惑い視線を迷わせる男たち。
「うーん……やっぱり《恐怖の咆哮》だったの? 何もないところで何かを叩く仕草をしてたから幻覚でも見ていたのかと思ったけど……そんなスキルを使える存在がまさか王都のすぐ下にいたなんて……そして調査初日でそれに会っちゃうなんて……もう体質とかそういうのじゃないの! 呪いなの!」
ぶつぶつと呟いていたかと思うと急に憤る少女の声。自分たちはとうとう狂ってしまったのかと男たちは慌てるも、通路の奥で急に明かりがついてそこに居た一人の獣人を照らし出す。
『ギアアアアアアアッッ……!!』
その姿を見て、憎しみに残りの目を歪める怪物。
その姿を見て、更なる混乱に陥る男たち。
──びしっ、と怪物を指差し恰好つけて、高らかに告げる兎人の少女!
「ま、出会ったからには仕方ないの! この冒険者ノノが退治してやるの!」
ちなみに鼻の穴に布切れを詰めて、口元にはソースが付いていた。
格好つけてはいたが、全く格好がついていなかったのだった。




