うさぎ、森に響く声を聞く(下)
場は混沌としていた。
『ゲーロゲロゲロゲロゲロゲロゲロゲローッ!!』
「いやああああっ! カエルいやああああああっ!?」
「怯むなーっ! そこで乙女のキッスなの! 変身の呪いには乙女のキスと相場が決まってるの! それキース! キース!」
盛大に鳴き声を上げる人蛙。恐怖に泣き叫ぶカレンさん。無責任に囃し立てる私。恐らく客観的にみると私が酷く鬼畜に見えるのだろう。だがこれも彼女ら夫婦のためなのだ。心を鬼にしてキスを促す。決して面白がってはいない。
ランスさんを襲ったのは人蛙だった。その名の通り人が変化したカエルで、簡単に言えば人狼のカエル版である。目の前で愛する夫が巨大なカエルに変わったカレンさんのその心境は推して知るべし。特に彼女はカエルが大層嫌いなそうなので、この状況はもはや地獄と言っていいだろう。
『ゲロゲロゲロゲロゲロゲロゲロゲロゲロゲローッ!』
「やだああああああっ! わたしもう乙女じゃないもん! もう2Xだもん! もう清い体じゃないもん!」
「いや乙女は言葉の綾なの。要は愛する人のキスを受ければ……って2Xがカエルを嫌がって泣かないの!」
錯乱し洗いざらい叫ぶ2X歳。言わなくてもいい事まで言っているがもはや自分が何を言っているのかも分かっていないのだろう。
『ゲーロゲロゲロゲーロゲロゲロ!』
「ダメなものはダメだもん! こんな大きなカエルにキスなんかできないもん!」
「旦那さんが人間に戻れなくなってもいいの!? 旦那さんを助けられるのは貴女しかいないの! それを思えば身長二メートル強の二足歩行する大カエルにキスくらい……」
更に全身にイボが生えており、月明かりと謎の粘液でてらてらと光っている。地面には粘液が垂れて糸を引き、尋常でないぬめりっぷりを感じさせる。そしてドブの腐ったような匂いが立ち込めて目や鼻に突き刺さり、体は防衛本能により涙や鼻水を分泌しようとしていた。要約するとツーンと来る。
「……女は度胸!」
「他人事だと思ってえええええっ!」
他人事だし……。
しかし困った。キスをしてくれないと話が進まない。タイムリミットは夜が明けるまでなのだ。それを過ぎればランスさんは完全に人蛙と化し、森で毎日ゲロゲロと鳴くだろう。私はもちろん去るが、毎日カエルの鳴き声が響き渡る村では村人たちも耐えられまい。もはやこれはこの二人だけの問題ではない。村の運命を左右する問題なのだ。
仕方ない、ベストは難しいがベターを目指していくしかない。
「《束縛》──動きを止めるから襲われる心配はないの! さあ今のうちに!」
『ゲロオオオオオオオオオッ!?』
魔法の鎖が人蛙をぎりぎりと締め付け、ぼたぼたぼたと何かが垂れる。
「きゃーっ!? 待って待って締めすぎ締めすぎ! 何か絞り出されてる目が飛び出てる!?」
縛り付けて動けないようにしてしまえば安心してキスが出来るだろうとの配慮だったが、どうも逆効果だったらしい。というかこの魔法、意外と加減が難しいな……。
何とか動きを拘束する程度まで緩め、改めてカレンさんに向き直る。
「カレンさん……どうしてもダメなの?」
「うう……そ、それは……」
顔は青褪め脂汗に濡れ、体は震えている。カエルが嫌いどころではなく恐怖症の域なのかもしれない。だとすればこれ以上は逆効果だ。
「……分かった、一旦撤退なの」
カレンさんの手を取り人蛙から離れることにする。手はすっかり冷え切り、歩く足は覚束ない。少々追い込みすぎただろうか。
「い……いいの?」
「まだ時間はあるの。とりあえず一度遭遇したわけだし、今度は覚悟決めてからまた立ち向かうの」
出来れば初回で方をつけたかったが、やはり女性にカエルへのキスを強要するのは厳しかったようだ。ていうか誰でも嫌か。おとぎ話のようにはいかないらしい。今度は心を落ち着けて、いろいろ話をしたり魔法を使って支援しよう。こればかりは私がやるわけには行かないので、カレンさんが頑張るしかないのだ。
「あー、いや、そうじゃなくて……」
『ゲロロロロロロ……』
人蛙が恨めしそうに鳴いている。もちろん縛られたままである。
「さて、昼間見つけた河原に行くの」
『ゲロロッ!?』
途中で乱入されても困るので、ここで縛られていてもらおう。こんな森で人蛙に手を出すような生き物はいないし、《束縛》の魔法が若干の防護を兼ねてくれている。命の危険はないだろう。
「ラ、ランス……ごめんよ、もうちょっと待ってておくれ……」
『ゲロロロロ〜ッ!』
一旦撤退ということで落ち着きを取り戻し始めているのか、ランスさんに謝りつつ歩き続けるカレンさん。そして切なげに鳴く人蛙。悪いけど全然可愛くない。
初戦は撤退。作戦を練ることとする。
◆ ◆ ◆
「うう……面目ない……」
「いいの、私がちょっと無理を言いすぎたの」
風が強くなってきた。昼間とは打って変わって木々はざわめき立ち、虫や鳥の鳴き声がそれに紛れて聞こえてくる。水面は真っ黒に染まり月明かりで僅かながら煌めいて、光と水流による模様が作り出されていた。
昼間の河原に到着し、手頃な石を椅子代わりにカレンさんを座らせる。既に落ち着きを取り戻したのか、自らの醜態を反省していた。とはいえ一般人に無茶を言ったこちらも悪い。今度はできる限りの支援をしようと思っている。
「でもさ……」
「いいから! ランスさんだってカレンさんがカエルがダメなの知ってるんでしょう? それならこれまでのこともきっと許してくれるの。気になるっていうなら治療が終わってからいっぱい謝ればいいの。そうでしょう?」
反省は最低限にさせ、希望的観測で押して行く。できるだけ気は強く持って欲しいのだ。自己嫌悪や罪悪感で心が萎れては呪いに立ち向かうことはできない。呪いを打ち破るのは正の感情、強い意思、そして愛なのである。
「今度は魔法で支援してあげるの」
手のひらをカレンさんへ向け呪文を唱えると、淡い光が舞い彼女を包み込む。
「《活力》に《精神力増大》──あくまで一時的なものだけど、これで立ち向かう気力が湧くはずなの」
病は気から、というわけではないが体の調子が良ければ気分も良くなる。先程消耗していた活力を魔法で補充した。また、精神力を増大させることによりカエル嫌いにも立ち向かえるようになるはずだ。魔法によるものなので根本的な解決にはならないが、一度乗り越えれば次も容易いだろう。
「すごい……何だかできそうな気がしてきたよ! けれど、魔法を使ってもらって悪いんだけれど、どうして最初にこうしなかったんだい?」
「うーん、まあ最初はこのままいけるかな、と思ってなかったと言うと嘘になるの。できればカレンさんが自分の意思だけで乗り越えられたらなって思っただけで……」
今思えば難しい要求だった。人の強さを信じるのはいいが、信ずることがいい結果を生むとは限らない。弱き故に困難に立ち向かえない人々を助けるのも白魔術師の務めだからだ。
「それと、実は強引に治療する手がないわけでもないの。カレンさんを気絶させて無理やりキスさせるとか、催眠術をかけてカエル以外のものに見せるとか、魔法で操ってキスさせるとか……けれど、それで本当に解決するのかなって。私が全部やってしまったら、カレンさんとランスさんが何の蟠りもなく元の夫婦に戻れるのかなって、そう思ったの」
案外強引にやってしまっても何の問題もないかもしれない。しかし怖がらせたり村を追い出したりと、お互いいろいろ負い目ができてしまっているはず。そこで、愛する者を助けるために恐怖を堪えてだとか嫌悪感を抑えてだとかして、事態の解決に携われば蟠りも無くなるのではないかと思ったのだ。ちょっと意味合いが違うかもしれないが、通過儀礼というやつである。
「そっか……いろいろ考えてくれていたんだね……ありがとう」
「いや、考えすぎでもあったみたいだし……まだ何も解決してないの」
その言葉を受け取るには、全てが終わってからだ。
『ゲロゲロゲロゲロゲロゲロゲロゲロゲロゲロッ!』
森に響く人蛙の鳴き声。私たちが姿を消したために再び鳴き始めたようだ。
「……あいつはどうして鳴くんだろう。落ち着いて考えてみれば、あいつは誰かを恨むようなやつじゃないし……それに、あいつはまだあいつなのかな? 人蛙になっちまってもまだあいつの心は残っているのかな?」
「カエルが鳴く理由なんて、いや人蛙に変えられた人が鳴く理由なんて決まり切ってるの」
心配する必要はない。
「求愛音──愛する貴女を呼ぶ声に他ならないの」
姿形は変わってしまっても、まだ僅かに理性が残されている。その僅かな理性が愛する妻を呼んでいたのだろう。
「そうなんだ、あいつ……」
胸に手を当て、暖かい何かを感じ取ったような、満たされた笑顔だった。
「まあ、事情を知らないとただの求愛音だし、他の大カエルのメスとかが集まってきちゃうかも──」
そこまで言ってしまって、ぴしりと、空気が固まる。
そういえば、今まではどうしていたのだろう。僅かな理性で逃げ回っていたのだろうか。しかし今回、人蛙は魔法で縛り付けて放置してきた。つまり逃げようがない。
そして現在春真っ盛り。絶好の繁殖シーズンである。
「…………」
「…………」
嫌な予感がする。
「あの……人蛙ってさ、その……」
「まあ……人獣はどちらかというと獣よりだから……」
皆までは言わないが、モデルとなった獣と子作り可能である。
「い、いやああああああああああっ!?」
脱兎の如く駆け出し、ランスさんの元へ向かうカレンさん。先程魔法で活力を与えたおかげでフルスロットル。パワー全開である。私も慌ててそれを追う。
「早まるなランスウウウウウウウッ! お前は人間なんだぞおおおおおおっ!?」
「お、落ち着いて! 縛り付けてるから事には及べない筈なの!」
事には及べないが全力で誘惑されているはずである。下手に拘束を解けば人間サイズのカエルたちの交尾シーンを拝む羽目になるだろう。いろいろと最悪だ。
「いやだあああああああっ! カエルに乗っかるくらいならわたしに乗っかるんだランス! わたしなら大丈夫だから!」
「それだけはだめええええええええっ!?」
なんてことを言うんだこの人は! あらゆる意味でそれだけはマズイ!
「『カエルに夫を寝取られた女』というレッテルを貼られるくらいならわたしは……わたしは……!」
「お願いだから落ち着いて! 『人蛙の妻になった女』もいろいろと問題があるからっ!」
特に後者のルートは破滅への道である。具体的には私の旅が王都に着く前に強制的に終わるような破滅である。
「だ、大丈夫! 鳴き始めてそれほど経ってないから、集まり始めていたとしても追い払えばいいの!」
もちろん大丈夫じゃなかった。
元の場所に戻ってみるとゲロゲロと大合唱中。大勢のカエルたちが集まり、正に世は大繁殖時代! あの人蛙の姿はカエルにとってはイケメンなのだろうか。それとも声が美声とか? どうやらこれが本当の異世界チートハーレムというものらしい。さ、参考になるなー。
「だ、旦那さんおモテになるんですね……」
「それは慰めの言葉のつもりなのかい!?」
こちらも混乱気味なので許して欲しい。
そのランスさんはというと、その人ごみ……いやカエルごみの中心でまだ縛られたままだった。だが背を向けるメスカエルに視線は釘付けである。悲しいかな変異した肉体の本能に負けつつあるらしい。急がなくては本当に子作りが始まってしまう!
「えーと、とりあえず《恐怖》!」
『ゲロッ!?』
『ゲロゲローッ!?』
「怖い思いをしたくなかったら、さっさとあっちに行くの!」
範囲内の生物の精神に無理やり恐怖を刻み込み、追い払う魔法である。特に生存本能が強い野生の生物には有効だ。
『ゲロゲロゲロゲロゲローッ!?』
もちろんランスさんも有効範囲内だが、どうせ逃げられないので気にしない。カレンさんの目が怖いので一応解除呪文で正気に戻しておくが。
「ふう、一安心なの」
人蛙はいろんな汁に濡れて息も絶え絶えだが命に別条はないだろう。あと、そもそもカエルは交尾をせずに体外受精のためそんなに心配することもなかったかもしれない。まああの場でメスが卵を産んでしまう可能性はあったけれど。
さて、愛する妻のキッス、テイクツーである。
こちらも魔法を待機状態に起き、いつでも始められるようにしておく。
「さて、準備はいいの?」
「……ああ、いつでもいいよ」
人蛙に改めて向かい合うが、支援魔法のお陰か少々顔色が悪くて脂汗が流れ、震えが止まらない程度で済んでいる。
……全然変わってないやないかい!
「ちょ、ちょっとちょっと。支援魔法の効果はまだ切れてない筈だけど……まだダメなの? もう少し何かかけようか?」
「い、いや改めて向き直ったらなんかよく見えちゃって……」
恐怖のあまり視点が定まらずよく見えなかったのが、落ち着いたことにより焦点が合い、人蛙のディテールが詳細に目に飛び込んできたのだろう。これはかえって恐怖心を煽ってしまったことになるかもしれない。
「だ、大丈夫だよ。魔法のお陰か心は落ち着いてる。ゆっくり行けば大丈夫なはずさ」
一歩一歩、歩を進め人蛙に近づいて行くカレンさん。一気に行った方がすぐに済むような気もしたがそこまでの勇気は無いらしい。しかし、そもそもスタート地点が結構離れているので時間がかかりそうだ。だがカレンさんが大丈夫というなら任せてみよう。固唾を飲んで見守る。
風が吹き、草木がざわざわと揺れる中、ゆっくりと歩を進めていく。しかしだんだんと歩みは速くなり始めている。人蛙の外見に慣れてきたのだろうか。とうとう二歩続けて歩みを進めた。
『ゲロロッ……』
そして三歩下がった。人蛙が身動ぎしたのだ。
「落ち着いて! 無理しないでいいから確実に一歩づつ歩いて行くの!」
やはりもう一押し必要なのだろうか? このまま辿り着いてもキスできる未来が見えない。もう無理にでも引っ張って行って後ろからドーンと……。
──がさり。
背後で茂みが揺れる音がした。
「ひっ! な、なんだい!?」
「……やれやれ、まさかこのタイミングで現れるなんて……!」
『ゲロロロロッ……!』
現れたのは新たな人蛙だった。最初にカレンさんに襲いかかり、それを庇ったランスさんを獣化病に感染させた個体だろう。そして、恐らくは昼間の河原で見た影もこいつだ。満月の夜でもないのに人蛙の姿だったことから、完全に人間ではなくなってしまっていると思われる。
「だ、大丈夫なんだろうね!?」
「……今私は解呪の魔法を待機している状態なの。その間他の魔法は使えないけど……何とか足止めするの。その間に貴女はランスさんの元へ」
杖を構え、闖入者を睨みつける。久々の近接戦闘だが、人蛙を足止めする程度ならできるはずだ。
『ゲロロッ! ゲロロッ!』
何を怒っているのかぴょんぴょん跳ねて鳴き声をあげている。だがここは通すまい。呪いさえ解いてしまえばこちらの勝ちなのだ。魔法が使えるようになって二人を下げればこのような人蛙など何の問題もない。
ゆっくりと足音が聞こえ、カレンさんはちゃんとランスさんに近づいて行っているようだ。しかし苦手なカエルが二体もいる場で、いつまでも冷静ではいられないだろう。支援魔法もずっとかかっているわけでもない。できれば早くして欲しいが、急かすわけにも……。
『ゲロロロロッ!』
私がカレンさんに気を取られたのを察したのか、だん、と地を蹴る音とばお、と風が唸る音がして、人蛙は目の前から消えた。しまった、ジャンプされた!? 慌てて振り向くと、ずしんと音を立てて着地したのはカレンさんから数メートル後方だった。まずい、あの距離では容易に詰められる! 慌ててこちらも駆け出すが、もちろん向こうが動き出す方が早い。
『ゲロロロロロロロオオオオッ!』
「ひっ──!?」
カレンさんに襲いかかる人蛙。振り返り、声にならない叫び声をあげるカレンさん。ここからでは間に合わない。このままではカレンさんも獣化病に感染させられてしまう!
『──ゲロロッ!』
だが、間に合うものがいた。
「ラ、ランス!?」
襲われたカレンさんを庇ったのは当然ランスさんだった。私自身は間に合わないと判断して、魔法の拘束を解いたのだ。ランスさんなら攻撃を受けても、既に獣化病に感染しているのだから問題ない。
「愛する者を守る本能と理性が合わされば、迷いなく行動してくれると思っていたの」
『ゲロッ……ゲロロロロッ……!?』
相手の人蛙は何故かショックを受けたようによろめいた。ふらふらと下がり、庇われたカレンさんと庇ったランスさんを交互に見つめている。その見つめられている二人はというと、二人だけの世界に突入していた。
「ランス……ランスなんだね!? どんなに姿は変わってしまっても、ランスはランスなんだね……!?」
『ゲロロロロッ……』
当然のように自分を庇ってくれたランスさんに感動し、涙潤ませるカレンさん。ランスさんもそれに応えるように鳴き声をあげる。
「ああ……ごめんよランス……追い出したりなんかして……いつも通りカッコ良かったよ……」
『ゲロゲロゲロロン!』
抱きしめ合う二人。人蛙特有の粘液で濡れるがそれを気にしてもいない。
「ランス……」
『ゲロロ……』
見つめ合う二人、そして……って見入ってどうする。この時を待っていたのだった。
「よくやったの二人とも! 《解呪》──!」
ランスさんが光に包まれる。陽光のような暖かい光は辺りを昼間のように明るく照らした。人蛙のシルエットが完全に光に包まれると、それは徐々に小さくなり始め、人の形をしたシルエットになると光は収まって行く。
完全に光が収まりそこに現れたのは、金髪の優しい顔立ちをした青年だった。
「ああ、ランス……!」
「カレン……ありがとう……!」
ランスさんは人の姿に戻り、二人は抱きしめ合う。呪いは完全に解除された。二人を引き離す要因はもう無いのだ。
『ゲロロロロッ……!』
何かに怯えるように、何かから目をそらすように森の奥へ逃げ出す人蛙。このまま逃がせばまた新たな犠牲者が現れるかもしれない。早急に追いかけなくては。
「さて、呪いも解けたことだし二人はこのまままっすぐ村に戻るの」
「ありがとう、白魔術師のお方……なんてお礼を言ったらいいか……」
「ノノでいいの。お礼はあとでゆっくり受け取るの。私は人蛙を追撃しないと……冒険者として、人に仇なす存在は見捨てておけないの」
「そうですか……ノノさん、どうか……」
「……大丈夫、分かっているから任せておくの」
ランスさんの服はもうぼろきれ同然なので、魔法の布を生成して纏わせる。二人を村の方角へ向かわせると、私はゆっくりと振り返った。
「──止まれ。ここから先は通さないの」
がさがさと茂みが揺れて、再び人蛙が現れる。その目つきは憎悪に歪み、こちらを睨みつけている。
『ゲロロロロロロロ……!』
「……普通に喋ったらどうなの? 完全体なら多少なりとも喋ることができるはずなの」
『…………』
「ランスさんを同類にして一緒に暮らそうとでも考えたの? でもどちらにせよ完全に人蛙になってしまえば徐々に理性は戻ってくる。普通に考えれば自分を化け物に変えたやつと一緒に暮らす訳がないの」
『…………』
「それとも二人を引き裂きたかっただけなの? カレンさんのカエル嫌いを知っているなら確かにそれは効果的だったの。私が訪れていなければ手遅れだったわけだし、呪いを解くにしてもかなり危ういところだったの」
『……煩い』
「でもまあ、何とか呪いは解けたし、共に困難を乗り越えたことで二人の絆は一層強固になったの。それを思えばあなたのおかげと言えなくも……」
『煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩いッ……!』
一方的に話し続け、挑発も挟むと人蛙はそれを遮り喚き始めた。やはり聞いていたとおり、挑発に弱いらしい。
「あなたのことは同情しないでもないけど……彼らに襲いかかったのならもう同情の余地はない。冒険者として人蛙は始末する」
『お前さえ……お前さえ現れなければ……!』
こちらは杖を構え、向こうも戦闘体制に入る。
「二人の幼馴染なら──祝福してあげなさい、ジェーンさん」
『煩い! 黙れえええええええぇぇッ!!』
◆ ◆ ◆
どうしてこうなってしまったのか。ジェーンはあの日のことを思い返していた。
村からの引っ越しの当日。離れ離れになっても友達だと約束した。気が弱くて体も弱いくせに、ここぞとばかりに勇気を出せるランス。凛々しい顔立ちにはすっぱな性格の割に、意外と女の子らしいカレン。彼女がランスに惚れていたことは知っていたし、ジェーン自身もランスに惚れていた。離れ離れになって不利にはなるが、それでも恋のライバルだと誓い合ったものだった。
けれど隣町までの道中、人蛙に襲われた。母親は殺され、父親は人蛙と相打ちになった。残されたジェーンは傷口から獣化病に感染し、人蛙に変貌した。
一日で全ては崩壊した。人としての人生は失われ、女としての幸せはもう望めない。獣化病に感染したものが村に逃げ帰ればどのような仕打ちを受けることか。カレンはカエル嫌いだから本気で泣き喚くかもしれない。ランスはきっと拒絶しないだろうが、醜い姿となった自身を見られるのは耐え難い恐怖だった。
森に隠れ住み、満月の度に変身していると一年が経過し、完全体の人蛙となっていた。その頃には諦めが心を支配し、落ち着きを取り戻し始めていた。だからそんなことを考えてしまったのだろう。彼らの様子を覗きに行こうなどと。
月明かりのほとんどない新月の夜を選んだ。風の強い日だったので多少の物音は紛れてくれた。最初にカレンの家を窓から覗き込んだが、既に寝入っているか留守のようだった。次のランスの家に向かった。思えばここでやめておけば良かったのだ。少し考えればこの先に何が待っているのか分かっていただろうに。
ランスの家の窓から覗くと、薄明かりだけがついていた。ベッドには人影が二人。獣と化したジェーンの感覚器官には二人の息遣いや声が鋭敏に聞こえた。絡み合うランスとカレンの二人がよく見えた。
──二人は愛し合っていた。
ジェーンは全力で逃げた。先程の光景が目に焼きつき、声や音が耳に張り付いて離れない。ジェーンたちが襲われたことは村に伝わり、全員死んだことになったのだろう。それを聞いた二人は悲しんだだろうが、一年も経てばその悲しみも癒える。仲の良い年頃の男女がくっ付くには十分すぎる時間だった。
だが、ジェーンは許せなかった。自分が消えたことでやすやすとランスを手にいれたカレンがとんでもない悪女に思えた。自分が消えたからといって簡単にカレンとくっついたランスがとんでもない薄情者に思えた。一人きりで森に住まうジェーンにそれを否定できる根拠は見つからなかった。憎悪は募り、二人に復讐することだけを考えて生きるようになる。
そして、ジェーンが襲われたあの道で二人を見かけた日、ジェーンは思うがままに行動した。まずはカレンを同類にして同じ目に合わせようと思った。
──だが、ランスがそれを庇う。
それを知っていたはずだった。自分だって庇われたことがあった。その時の彼の顔はとてもカッコ良かったことを覚えている。だから決して──このような恐ろしい表情ではなかったはずだ。
優しい青年といえど、敵に見せる表情が優しいはずもない。ジェーンはそれ以上その場にいることができず、逃げるように去った。
その後ランスが同類になったことを知った。いずれ人間に戻れなくなり、カレンとはもう会えなくなるだろう。そして自分と共に暮らすしかないのだ。何かから目を逸らしながら、その時を待っていた。
──そして、現れたのがノノだった。
カレンを焚きつけランスに対面させ、挙げ句の果てに呪いまで解いてしまった。ノノが現れなければ全てはうまく行った、その筈なのだ。
『それなのに……がふっ……なんで……なんでなのよ……』
先程のようにジャンプで翻弄させてやろうと身を屈めた途端、一瞬で近付いてきたノノに杖で横殴りにされた。殴りつけてやろうと襲いかかるも躱されて、魔法で強風を起こされ、吹き飛ばされて木に叩きつけられた。まるで動きが違う。完全に見切られて反撃されていた。
「元村娘にやられるほど弱くはないの。カレンさんの時のはランスさんに庇わせるための演技。ああでもしないとキスしてくれないと思ったの」
『くそ……! なんで……なんであたしがこんな目に……!』
騙されていた惨めさに、何もかもがうまくいかない自分の不運に涙するジェーン。
「襲われたのも、人蛙になってしまったのも、ただ貴女の運が悪かっただけ。けれど、二人を襲った代償は支払ってもらう」
歩み寄るノノ。慌てて逃げようとするジェーンだったが、すかさずノノが《束縛》を唱えて縛り付ける。
『い……いや……いや……! 殺さないで……!』
「獣化病は極めて危険な病なの。冒険者として人蛙は始末しなければならない」
ノノは杖の先をジェーンに向け、魔力を込め始める。杖の先に魔力が渦巻き光り輝き始めた。
『いやああああああっ! 死にたくない! 死にたくないよおおおおおっ!』
「……最後に教えてあげるの」
死の恐怖に怯え、泣き叫ぶジェーン。それを前にしてノノは杖を向けながら語りかける。
「カレンさんに告白したのはランスさんで、カレンさんにプロポーズしたのもランスさんなの。カレンさんはむしろジェーンさんのことを思って独り身でいる気だったらしいけれど……ランスさんはそれを放っておけなかったの。二人はずっと前から愛し合っていたから……」
まるで罪を告白するかのような語り口に、ジェーンは全てを悟った。
『そっか、あたしは最初からお邪魔虫だったんだ……』
それ以上語る気はないのか、口をつぐみ杖を振り上げるノノ。ジェーンはゆっくりと目を瞑り、体の力を抜いた。
『ごめんね……カレン、ランス……』
太陽のような輝きが炸裂し、森の中を照らした。
◆ ◆ ◆
「うーん、ちゃんとした下着をつけると、こうまで動きやすいとは思わなかったの」
「そりゃあそうだよ。それにあんたの体に合わせてあるんだから、動き辛かったら困る。けど、本当に報酬はそれだけでいいのかい? そりゃあうちはそんなに裕福ってわけじゃないけど、解呪の代金くらい支払えるんだよ?」
夜が明けてお昼前。仕事前から頼んでおいた下着が完成し、早速着けてみた。かなり動きやすく、着けていて心地よい。丈夫な素材だし、予備もそれなりに用意してもらったので、当分は持つだろう。
「いいのいいの。カレンさんには大分無理をさせたし、危険に晒したし、これくらいで十分なの」
「それにしたって安すぎると思うんだがねえ……」
「あはは……ノノさんは無欲なんだねえ」
カレンさんはため息をつき、ランスさんは朗らかに笑っている。事件は解決してハッピーエンド。この夫婦には末長く幸せに暮らしてもらいたい。
隣町へ向かうために村の出口へ向かう。
「もう出発するなんて、だいぶ旅を急いでいるんだね?」
「いや、単に仕事があるの。隣町に送り届けなくちゃいけない人がいるの」
「仕事熱心だねえ。もう少しゆっくりしてもいいと思うけれど……」
出口に差し掛かると、そこにはローブを見に纏う人影があった。フードを深く被っているため、その顔は見えない。ランスは目を丸くしてそれを見つめ、やがて息を吐き出した。
「ど、どうしたんだいランス?」
「ああいや、何でもないよカレン。……ノノさん、そういえば人蛙はどうしたんでしたっけ?」
「始末したの。もう森に人蛙が現れることはないの」
「なるほど……そういうことですか……」
そういうことなので、そろそろ旅立つこととしよう。
「本当にありがとう。また村に来る事があったらうちに寄っていってくれるかい? 今度はいい服を揃えておくよ!」
「僕もカレンは、身も心も君に救われた。それに……いや、これ以上は言わないでおこう。あの人をよろしく頼むよ」
ローブの人影をちらりと見て、後半はこっそりと言うランスさん。言われるまでもない。無事に送り届けるつもりだ。
「それじゃあ二人とも、お幸せになの!」
そうしてローブの人と合流し、私は村を旅立った。
◆ ◆ ◆
「……もしジェーンが今の僕たちを見たら、何て言うかな?」
「なんだい急に? ……うーんそうだねえ。あの子のことだから、めちゃくちゃ怒って私たちに散々嫌がらせをして、終いには何か事件を起こすとかかねえ」
「お、おいおい……随分遠慮がないんだね?」
「まあジェーンだからねえ……けど最後には後悔して泣いて謝ってきて、それで仲直りっていうのがいつものあの子だったじゃないか。すぐカーっとなる癖に根は優しいというか、素直というか」
「あっはっは、そうだね。そうだったね……」
「……どうかしたのかい?」
「いや、何でもないんだ……何でも」
二人並んで森を見つめる夫婦を、葉っぱの上の小さなカエルが眺めていた。
やがてケロロと鳴くと池に飛び込み、泳ぎ始める。
少し泳いだ先には二匹のカエルがいて、合流した三匹は共にどこかへ泳いで行った。




