魔人
──暗闇。
全ては閉め切られ、一切の光のない部屋の中、そこには夥しい量の書物が積み上げられていた。紙を作るのも、内容を書き記すのも、書物を作ることそのものも、膨大な労力と金がかかるこの世界において、この書物の量は尋常ではなかった。
また、書物の内容はどれもこれも普通ではない。黒魔術の深淵──暗黒呪文の、更に禁じられた領域。錬金術における究極の目的、賢者の石の作成──どころか、それを利用した術や兵器の運用。この世界に生きとし生けるものならば、絶対に手を出してはならない領域──混沌の一端に触れる禁呪。
一冊でもこの世に流出し、悪しきものの手に渡れば、世界の命運を揺るがす事態になりうるであろう恐るべき魔導書。それがこの場に無数とあった。
何故、積み上げられるという杜撰な管理をされているのか。本棚にすら入れられておらず──そもそも本棚は一杯であったが──床に直に置かれ、埃をかぶり、崩れ落ちたのか書物が山のようになっている箇所さえあった。愛書狂が見れば卒倒しかけた挙句、持ち主に詰めかけ殺害しようとする程であろう。
その部屋の中央は、書物は少なかった。書物卓があり、その周囲はおろか机の上にも本が積み重なっているが、その数は部屋中に佇む書物の塔程ではない。
本を読んでいる者がいるのだ。
一切の光はないというのに、この闇の中見えているのか──それとも視認に光を必要としない種族なのか。微かながらぺらり、ぺらりと紙を捲る音が聞こえる。
読み進める速度は一切収まらない。急ぐでもなく、遅くでもなく。読み終えたかと思うとそれを適当に積み上げ、何処からともなく新たな書物を取り出して読み始める。
書物が変わっても、読み進める速度は一切変わらない。取り出した書物もまた、禁断の知識を齎す危険な魔導書だというのに。学生が参考書を読み耽るが如く、その頁を捲る手付きは軽い。
その手には、室内だというのに手袋がはめられていた。手袋と言ってもただの衣類ではなく、魔法使いが魔力を高めたり、術の補助をするために装備する魔具の類だ。それも偉大なる遺物──書物のことを思えば当然だが、やはり装備も尋常のものではない。
そして、その身を包むのはフードのついた黒装束。暗闇の中でフードを被り、書物を読み耽る黒装束など黒すぎて闇に溶けてしまいそうだが──フードの中身ほど昏くはあるまい。
──暗黒の渦。闇よりも昏く、黒よりもなお黒い。ガスのようなそれが渦巻き黒装束の中に収まっているのだ。そして果て無き闇が裂けたかのような青白い光が三つ──この存在の瞳と言うべき部位だった。
その正体は──魔人。
魔法人。生ける魔法。魔法の真髄に到達し、自らの肉体を捨て自らを魔法そのものと化した、魔法使いの極地。それが魔人族。
最早生きるためには魔力さえあればいい。いや、そもそも命ある存在なのかどうかも疑わしい。寿命無き彼らは、その無限の時間を魔人と化した後も魔法の探求に費やす。定命を捨て、肉体を捨て、心さえも擦り切らせる永劫の探求の果て──彼らが何を手にいれたのか、誰も語りはしない。
この個体もまた、探求のために本を読み続けているのだ。一体いつから読み続けているのか、部屋は書物で埋まり、埃が積もり、それ自身も埃まみれだった。しかしそんなことは気にもとめず、ただ一心不乱に本を読み続けている。ただ知識を求めて──ただただ探求し続ける。
──ふと、それは貌を上げて三つの目を細める。
足音が響く。どたどたと喧しく床を叩くそれは、足音の主の感情をつぶさに伝えてくる。その音は真っ直ぐこの部屋を目指しており、あと数秒でここに到達するであろう。
それは気にしないことにしたのか、再び本に視線を落とし読み始めた。
「くおらああああああぁぁぁぁっっ!!」
ばたんと部屋の扉が勢いよく開かれて、中の淀んだ空気と共に埃を吐き出す。廊下の窓から光が差し込み、扉を開いた主を逆光で影にする。だが、部屋の中にいた魔人にはその姿がしっかり見えていた。
『──どうした』
暗黒の果てより怪物が問いかけるような声だった。すぐ目の前で発声しているというのに狭い洞窟の中のように奇妙に響き、鼓膜に到達する頃には不快なノイズが混じったかのような悍ましき声。
だが、問いかけられた人物はそんなことを全く気にもせず怒鳴り返す。
「どうした!? どうしただって!? 私は言ったはずだよな! 少しは部屋を片付けろと!」
そう言われ、遠くを見ながら思い出す。
『確かに言ったな』
「全然片付いていないどころかまた散らかしてるじゃないか! また本を読んでいたんだろう!」
影は完全に激昂し唾を飛ばしながら叫んでいる。
『切りのいい所まで読み進めてからするつもりだったのだが……案外早く戻ってきたな』
その姿が恐ろしいのか、少し視線を逸らしながら答える魔人。
「……まさかとは思うがあなた、私が部屋を出てからどれくらい経ったと思ってる?」
ふら、と影は頭を抱えてよろめき、やがてぶるぶると震え出す。魔人はさして考えもせず口にする。
『……ついさっきじゃなかったか?』
「一年だ!! 私が出発してから一年経っているんだッ!」
『それはまた……早かったな』
「ああ早いだろうな私たち寿命なき種族には短すぎる時間だなははははは!」
怒りすぎて笑いがこみ上げてきたのか高笑いを始める影。魔人は心なしか逃げたそうに体を引いている。
『……そんなに怒ることもあるまい』
「怒るわッ! 一体これが何度目のやり取りだと思っている!?」
ギヌロ、と睨まれる魔人。
「もう放っておくと世界の終わりが来るまでやらなさそうだ! さあ今やれ今すぐやれほら早く!」
腰に手を当て事を見張ることにしたらしい。魔人は少し考え込み、逆らえば実力行使されるとでも考えたのか、ゆるゆると立ち上がると魔力を畝らせ魔法を行使した。
その瞬間、部屋の空気が動き出す。
淀んでいた空気は一定の流れを持って走りだし、乱雑に積まれていた書物や崩れ落ちた書物が浮き上がり、動く空気に叩かれて埃を吐き出す。それらと部屋に溜まった埃は一箇所に集められた挙句に圧縮され、どこからともなくやってきた袋に詰め込まれてまたどこかへ去って行く。宙を舞う書物は大きさや素材を考慮して整列して並べられ、床や机にまた綺麗に並べられて行く。
やがて空気が落ち着くと、書物で埋まっているとはいえ埃もなく整頓された、先ほどより大分マシな光景となった。
「全く、魔法を使えばあっという間なのだからすぐやればいいものを」
その結果にとりあえず満足したのか、腕を組んで頷いている。
『魔法の化身である私にとっては、魔法を使うということは自ら掃除するも同然なのだよ……魔人化による弊害とも言えるだろうな』
しみじみと語る。
「あなたは魔人になる前からこうだったよ。あなたのそれはただのめんどくさがりだろう」
『そう解釈することもできるな』
嘯く魔人を睨みつける影。
やがて諦めたのかはぁ、とため息をつくと、つかつかと部屋に入りカーテンを開いた。陽光がその影の顔を照らす。
輝くような美貌だった。
真っ白で無垢な、少年少女のような穏やかな顔立ちの中に、長い年月により積み重ねられた叡智と苦悩が垣間見える。男とも女ともつかない中性的な顔立ちながら、男も女も等しくその美しさに見惚れるであろう。絹のようなプラチナブロンドの長髪が、こちらに振り向く動きに合わせて流水のように流れた。
「少しは日の光に当たらないと、人族であることを忘れてしまうよ」
落ち着いたのかその声色は、まるで少女のように涼やかで、賢者のように穏やかだった。
貴人。神が最初にこの世にもたらした、最初の人族。この世のものとは思えない美しさに、心身共に強靭さと繊細さを兼ね備えた最高の能力。病気にかからず老いることもなく、無限の時を生き続ける究極の生命。その貴人が、この場にいた。
『……忘れはしないよ。それを忘れてしまっては私がここにいる意味もない』
「それはわかっているけれど……どうも私のいうことはすぐにすっぽりと抜け落ちるようだからね」
悪戯っぽく睨みつける。しかし悪びれもせず魔人は言う。
『忘れてはいない。緊急性のある内容ではないから優先度を下げていただけだ』
その結果が埃まみれなのだが、まるで反省していないようだった。
「やれやれ、あなたはいつもそうだな。自分や身の回りのことはまるで頓着しない。昔から苦労させられるよ」
これもまたいつも通りなのか、苦笑する。
魔人となってますますそのような傾向は強まり、放っておけば化石と化してしまうのではないかと不安になる。そのようなことを心配する必要があるような尋常の存在ではないのだが、長きに渡る付き合いで、家族とも言える存在を心配しないではいられないのだ。
『……それより、帰ってきたということは頼んでおいたものは見つかったのかな』
昔の話をされるのは苦手なのか、立ち上がりながら話をそらす魔人。二メートル近いだろうか。それなりの高さである。心なしか貴人がやって来た方向をうずうずと見つめている。
「ああ、まだ半分くらいだ。とはいえ入手が面倒なものはだいたい集まったから、残りはそう苦労せずに手に入るだろうな」
『そうか、では早速運び入れるとするか』
いそいそと廊下へ飛び出す魔人。まるでプレゼントを待ちきれぬ少年のようなその態度に、くすりと笑いが漏れた。
ところが廊下へ飛び出したその魔人は、思い出したかのようにぴたりと止まり、くるりと貴人の方へ振り向いた。
『おっと忘れていた──』
闇を裂く三つの光が、笑顔のように細められる。
『おかえり、ゼノビア』
対する貴人も、笑顔で返す。
「──ただいま、■■」
それはまるで、恋する乙女のような笑みだった。
◆ ◆ ◆
『ふむ、確かに目的の品のようだ』
ロビーに運び込まれた荷物を魔人が見聞する。本をぱらぱらと捲り、期待できる内容だと確信して頷いている。気軽に取り扱っているが、並の魔法使いならば中身を見ただけで発狂死するか、呪われて怪物に変貌するような代物だ。貴人であるゼノビアや、魔人のような規格外でなければ到底取り扱えない品なのである。
「苦労したよ。とっくに途絶えた黒魔術師の系譜を追いかけて、とっくに滅んだ街の家捜しをして、ようやく発掘した代物なのだからな」
心なしか誇らしく胸を張って答える。
当然だが、奇跡や禁呪を扱うような資料がそう簡単に手に入るはずもない。大抵は存在すら秘匿され、はたまた伝説にのみその名が知られ、その在処など眉唾もののことが多いのだ。
今軽く答えた以上の苦労をしているはずなのだが、おくびにも出していなかった。無闇に心配させたくないし、そもそもそんなこととっくに見抜かれていると確信してのやり取りだった。
『ああ、ありがとう。よくやってくれた』
そういってぽむぽむとゼノビアの頭を撫でる魔人。そうされた彼女はちょっと恥ずかしいのか、少年のように照れて笑う。
『──それで、報告することがあるのだな?』
だが、魔人にはお見通しだった。
「……ああ」
お互い時間は無限にある。目的の品を集めるまでいくら時間をかけても──もちろん時間をかけすぎて失われる品もあるが──よいのだ。それが一年ほどで切り上げ、集めた品も半分ほど。直接報告しなければならないほどの報告があったため、中断せざるを得なかったのは明白だった。
それは最重要内容だった。彼らがこうしている目的の一つでもあった。報告しないことはあり得ないのだが、躊躇しているゼノビア。だが、いつまでも口籠ってもいられない。やがて意を決したのか、一呼吸してそれを報告した。
「ヒルダの街に、兎人の冒険者が現れた。名前はノノ」
三つ目を細める魔人。
『……間違いないのだな?』
「私も直接向かって確かめた。偉大なる遺物──癒し手の聖衣を持つ兎人がこの世にもう一人いるのなら、人違いということもあるのだろうな」
そんなことがあるはずがないとわかっていて嘯く。あの品は、この世に二つとない代物なのだ。
『そうか……現れたか』
どこか遠くを見つめる魔人。まるで待ち侘びていたかのように、まるで恐れていたかのように、その声は心底複雑だった。
『いよいよ事態は動き出すということだな』
「……………………」
何を言っていいのか分からず、黙り込むゼノビア。
『……前から何度も言っているが、お前は好きに動いて良いのだぞ? もちろん資料集めは続けてもらうが……あれに着いて旅してもらっても構わない。私の計画はその程度で影響はないし、最悪計画が無駄になっても構わん。あくまでもできることはやっておき、最善の手を打ちたいというだけなのだからな……』
まるで子供に言い聞かせるかのような優しい声だった。その言葉を受けて、こみ上げてくるものを誤魔化すように拳を握るゼノビア。
「……いや、私は下手には動くつもりはないよ。あなたの邪魔にはなりたくない」
悲しみにくれるような、諦めが支配したような、弱々しい声色だった。
『お前がそう決めたのなら口は出さないよ』
くるりとゼノビアから背を向ける魔人。決別ではなく、本当にそれでいいのかと問い掛けてくれているのだ。だが、それに答える声はなかった。
魔人は呼吸が必要がないくせにふう、とため息をついたふりをすると、解いた荷物をまとめ始める。
『まあ、この話はいつでもいい。まずはこれらを運び入れるとしよう』
いつまでもロビーに置いておく訳にはいかない。
「……そうだな、まだ部屋は余っているのだろう?」
『そうだが、いい加減図書館でも作るべきかもしれんな……いくらそれなりに広い館を買い取ったとはいえ、部屋の数にも限度がある。ちゃんとした書庫でなければ本が痛む可能性もある』
確かにそうだが、あんな管理の仕方をしている魔人が言えたことではない。
「だから城を買えと言ったんだ……金は十分にあるはずだろう」
『あまり目立つつもりはなかったのだ。書庫があんなに狭いとも思わなかったしな』
「……書庫が埋まり始めたら考えよう、とか言っていた気がするが」
『仕方ない、幾つかの部屋を書庫に改造しよう』
聞こえなかったふりをする魔人。
「それにそろそろ使用人の一人でも必要だよ。君が一つの部屋にいつも篭り切りなせいで、館の手入れが一切されていない。このままでは館が朽ち果ててしまうぞ?」
ゼノビアが帰ってくるたびに軽く掃除はするが、それではとても追いつかないくらい汚れが溜まっているのだ。
『だが普通の使用人では、我々の正体や取り扱う品々に耐えられないだろう』
魔人、貴人、禁断の魔導書。一般人を雇うには余りに危険な場所だった。
もちろん、安全が保証されても館で見聞きしたものを他所で吹聴されては困る。かと言って金を握らせたりしても信用がならないし、洗脳や記憶の消去では不自然さが残ったり、何かがきっかけで我を取り戻す可能性がある。
「まあ……奴隷が妥当だろうな。あまり気は進まないだろうが……我々に関して口を閉ざすように制約し、あまり表に出さないようにすればいいだろう」
完全に身元を買い取ってしまい、こちら側に引き込んでしまえばいいのだ。魔導書の影響を受けないよう魔具を装備させれば書庫の管理もできる。人権を無視した考えだが、この世界に人権という概念はまだまだ新しすぎるため、気にする者はあまりいない。
『ふむ……そうだな……』
言い淀む魔人。こう見えて意外と優しい性格なので、奴隷を買うということにやはり抵抗があるのかもしれない。
「ああいや、あなたが嫌ならいいんだ。何だったらしばらく私が滞在してもいいんだし」
慌てて撤回するゼノビア。
『ああ、そういうことではないよ。ただ……』
「ただ?」
『……奴隷とはどこで買えるものなのだ?』
「……………………」
単なる世間知らずだった。今まで買う機会がなかったのもあるが、そもそも魔人になる前から必要がないことに興味を持たないし、興味のないことは調べようともしない性格だったのだ。
「……私が代わりに行こうか?」
『いや、疲れているだろうし場所を教えてくれれば構わない。それにできれば相性の良い奴隷が欲しいからな』
魔法の才能があれば手解きするつもりなのだろう。掃除の効率も上がることだし異論はないのだが、心なしか嫉妬している自分に気がつくゼノビアだった。
「……わかった。どうせ荷物を運び入れなくてはいけないし、ある程度の掃除は必要だから、館に残るが……本当に大丈夫か?」
別に今日でなくてもいいのだが、気が乗らないと何年も動かないことを知っているので、下手に口出しはしない。だが、言い知れない不安に襲われるのも確かだった。
『大丈夫だ、問題ない。きっといい奴隷を買ってきてみせよう』
もちろん大丈夫じゃなかった。
◆ ◆ ◆
「……………………」
早速買ってきた奴隷に使用人服を着せ、いろいろ説明している魔人。もちろん買う際には人間に変身して行ったのだが、戻ってきてその正体を現しても奴隷にそれを気にした様子がなかった。言いつけにも素直に頷き、言いつけを果たそうと覚えようとしている努力が見て取れる。
それ自体は問題ない。どころか現状では理想的な人材だ。だが……。
「……ちょっといいかな」
『どうした? 何か問題があったか?』
「聞きたいことがあってね」
そういうと、奴隷──いや、使用人に視線を合わせる。羊や山羊系の獣人なのか二本の角が生えており、褐色の肌をしている。緊張しているのかその視線は震え、背筋を伸ばしてこちらを見据えている。
「きみ、名前は?」
「りんだ!」
舌足らずな返事だった。
「……きみ、年は?」
頭痛を堪えながら問いかける。
「五さい!」
「……そうか、ありがとう」
ゆっくりと立ち上がり、静かに振り向く。
『……ど、どうした? 確かにちょっと若いかもしれんが、求めている能力は十分と判断した。何故か妙に安かったしな! それにこう見えてこやつはな──』
肉体はもう無いというのに言い知れない悪寒を感じて慌てて弁解する魔人。だが言い訳を聞くたびに、貴人の美しい額に荒々しい青筋が増えて行くような気がしてならない。
『だからその悪い買い物では無くてだな──』
「──こ」
『……こ?」
「このロリコン変態魔人があああああああぁぁぁぁっっ!!」
とある街のその外れの山の中。
数年に一度、この世のものとは思えないほど美しいけどなんか怒ってる声が聞こえてくるとか。
真実を知るのは館の住民である彼ら二人と──新たなる一員となった少女ひとりであった。




