表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

百の扉と主

作者: 影山 月

 私は赤ん坊の頃、ロックハート家の門前に捨てられていた。

 私は親を知らないが、それでも幸せであった。


 決して贅沢な暮らしなど出来なかったが、住むところがあり、食事にもありつける。

 私は、辛い事があっても、この暮らしから逃げ出すことはしなかった。

 

 そして私が召使いとして、このお屋敷に働き始めて十六年が経つ。

 私の主は七大貴族と呼ばれるうちのひとつ、ロックハート家の御嫡男である。


 主はまだ若く、それでいてとても聡明であった。

 また外貌も美しく、まるで宝石がはめ込まれたような輝かしい緋色の瞳に、少し癖毛の漆黒の髪を風になびかせ歩く様は、数々の浮世話を貴族の間にもたらした事を物語っていた。


 長身の一見華奢に思える体は、日々の訓練を怠らないゆえの産物であり、衣服の下にはたくましい肉体があることを、私は知っている。

 主はこのお屋敷で、ただ本を読み、体を鍛え、世界を見守っている。

 

 

 主に与えられた仕事は「時を守る」ことであった。

  


 そして、主は死ぬまで、このお屋敷を出る事を許されない方なのである。

 それは、主そのものが、時の均衡を守る存在だからであり、それがロックハート家の先祖代々守り続けている運命の螺旋である。


 お屋敷はとても広大で専属の庭師でさえ目の行き届かない場所があった。

 私は屋敷の庭の森の中に、使われていない小さな物置小屋を見つけ、休みをもらえた日は一日中そこで読書をし、仕事の合間を縫っては体を休めに立ち寄っていた。

 その物置小屋は私だけの秘密の場所になっていた。




 そう、あの時までは、私だけの秘密の場所だったのに・・・・




「ここはお前の場所だったのか・・・」

 十日ぶりのお休みに、私は秘密の小屋で自分の作った簡単なベッドに横たわり、読みかけの本を読んでいると、突然扉が開かれ軽装の主が私を見つけると小さく驚いていた。

「ローナン様!」

 私は驚きのあまり、本を見開いたまま硬直してしまっていた。

 普段遠巻きでしか拝見出来ない主の顔を、こんな間近で見られる事は無いに等しい。

「お前・・・たしか召使いの女だな」

 ローナンの緋色の瞳に睨まれ、私はますます動けなくなる。

 ローナンは一瞬だけ背後を気にすると、すぐに扉を閉め小屋に入ってきた。

 そして、物珍しいのか、きょろきょろと辺りを見回した。

「召使いのシムでございます」

 シムは、ばくばくと言っている心臓の音を抑えながら、ベッドからこぼれ落ちた。

「ではシム、ここは今から俺の場所だ。お前は出て行け」

「え!」

 思わず、声に出してしまいシムは慌てて口を押さえたが、口答えは許さんとばかりに、ローナンはギラリと赤い目をこちらに向け黙っていた。

「・・・・・・わかりました、直ぐに出て行きます」

 シムは本を抱え、ベッドにある薄い毛布をすばやく畳み、布のバッグに入れると扉へ向かった。

「待て」

 ローナンに呼び止められ、シムの心臓が再び飛び出しそうになる。

「その本と毛布は置いて行け」

「えっ・・・」

 主の命令は絶対であり、逆らうことなど許されないと、幼い頃から教え込まれてきたシムは、顔に出してはならないと分かっているものの、すぐに「はい」と返事を出来ずにいた。

 読みかけの本はこつこつとお金を貯め、やっと先日買うことの出来た大切な本だったからである。

 そして、薄っぺらな毛布は一つしかない大切な寝具であり、私が捨てられていた時に包まれていた思い出の品なのだ。

 これを取り上げられてしまったら、シムは眠る時、何も掛けるもののないまま、そして、大切な思い出も無くして、今日から眠らなければならないのだ。

「主の命令が聞けないのか」

 ローナンはシムの作ったベッドに腰掛け、長い脚を組んだ。

 きっとこの人の前で逆らう人間はいないのだろう。

 例えほんの些細な反抗心があったとしても、力と権力で封じて来たのだろう、貴族など本来そんなものなのだ。シムがローナンの言う事を聞くのは必然なのである。

 だから、そうなる事が当たり前だと思って、この部屋の中心にローナンはいるのだ。

 シムは哀れな主をじっと見つめ、深く溜息を吐いた。

「おい、お前早く出て行け。ここは今日から俺の場所になった。その本と毛布を置いていけ。聴こえているだろ」

「この物置小屋とてローナン様のものです。その場所に私の所有地はありません。ですから、直ぐにでも出て行きましょう。ですが、例え本を置いて行けたとしても、この毛布は置いてはいけません」

「なんだと?」

 赤い瞳がシムを睨みつけるが、シムは勇気を振り絞って言葉を続ける。

「この毛布は置いて行けません」

 ローナンはシムに近付くと、無理やり毛布の入っている布のバッグと本を奪ってしまった。

「やめて下さい!」

 シムは奪われた品を奪い返そうと手を伸ばすが、背の高いローナンの手に握られた本とバッグはシムの手の届かない位置に掲げられてしまった。

「お前のような召使いが、当主に逆らうとは笑えるぞ」

 蔑む言葉にシムは顔を赤くしながら、それでも必死に自分の手の中の物を掴もうとする姿にローナンは呆れ、腕を下ろすと本とバッグをシムに返した。

「ありがとうございます!」

 シムは喜んで二つの品を抱きしめた。

 すると、ローナンは薄暗い小屋の中で明かりとして置いてあった蝋燭を掴み、胸の中にあるシムのバッグだけを再び取り上げると、そのバッグの手提げ部分から火を当て、燃やした。

「!」

 シムはローナンの理解できない行動に恐怖を感じ、布のバッグが燃えるのをただ見ているしかなかった。

 自分と家族を繋ぐ唯一のものが失われ、シムは頭の中が真っ白になった。

「俺が、素直に返すと思ったのか? 俺の物にならないなら、初めから、存在しなかったことにするだけだ!」

 緋色の瞳が一層輝いて、ローナンは燃えるバッグと毛布を楽しそうに見ていた。

 シムはローナンの姿を見つめていた。

 そして、それは静かに・・・・切れた。

 シムはローナンの元へ近付くと、その綺麗な頬に思いっきり平手打ちをしたのだった。

「うっ!」

 ローナンはよっぽど驚いたのか、瞳をぱちくりさせていた。

「ふざけんじゃないわ! 何が貴族よ! 何が主よ! そんな、人の気持ちもぜんっぜんわかんない、あんたなんかに誰が従うってのよ!」

 シムは鼻息を荒くして、罵声を浴びせた。

「お前、俺に逆らって明日からどう生きていくつもりなんだ」

「知るか! ぼけ」

「ぼ、ぼけ・・・?」

「そんな事を言えば、今までの人達はみんなあんたに従って来たんでしょうけど、私は違う! あんたなんかに、私は思い通りにならないんだから!」

「俺の言う事を聞かない女なんて、ベッドの上以外では初めてだ」

「ばぁか! なにデリカシーのない事言ってんのよ!」

「本当のことだ」

「知るか! ぼけぇ!」

「そのセリフは、さすがに傷付く」

「っ・・・・・・・・・・・・・・・・」

 ローナンはシムの罵声に腹を立てたのか、シムの襟首を掴み宙に浮かせた。

 腕から本が落ちる。

 シムは怒らせたのは自分と解っていながらも、ローナン全ての行動に怒りを覚え、蔑むようにローナンを見下ろした。

 しかし、少しだけ後悔した事にしておきたい。

 シムはもうロックハート家に居られなくなるのを承知で、ローナンに暴言を吐いているのだ。

 捨て子の私を大きくなるまで育ててくれ、仕事も与えてもらい、生かさせてもらったロックハート家へ、最後に恩を返すつもりでいるのだ・・・これでも。

「ローナン様。こんな機会はもう無いでしょうから、言いたいことは今のうちに言っておきます」

「なんだ」

 ローナンは手首を下ろすと、シムを解放してやる。

「そんな横暴な振る舞いでは、誰も従ってくれませんよ。例え従っているとしても、それは心からの服従では無いのです。血の繋がっていない私たちだからこそ、意のままに動かしたいのなら、そこには『思い』がなければならないのです」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

「分かりますか? ローナン様」

「わからない」

「本気で言ってるんですか!」

「本気だ。力で服従させ、平安をもたらしているのなら、問題などない」

「だから、違うって言ってんの!」

「何が違うのだ」

 ローナンの顔を見ていると、嘘を付いているようには見えなかった。

 床に落ちた燃えたバッグに目を落としながら、シムはローナンに人としての温かさを知ってもらいたくて、言葉を捜した。

 しかし、なかなかいい言葉が思い浮かばす、シムは黙り込んでしまった。

 すると、ローナンの胸元から柔らかなベルの音が聞こえ、ローナンは首に掛けていた懐中時計を手に取る。

「時間だ。俺はもう行かせてもらう」

「ちょっと、まだ話の途中です!」

「お前の話は面白いが、俺には抗えない仕事がある」

「・・・・・・・『時を守る』ことですか?」

 シムにもその仕事がどれだけ大事か理解している。

 

 このロックハート家の嫡男は「時を守る」ことを宿命として生きなければならない。

 そして、それを怠ると時の均衡が乱れ、この世界に災いが訪れると言われているのだ。そして、主となるとロックハート家の敷地から一歩も外に出る事が許されない。

 その為、ロックハート家の広大な敷地には飢饉などが起こっても生き残れるよう、山はもちろんの事、湖や畑などあり、敷地の外に出なくても生活は十分出来るようになっていると、聞かされている。

「そうだ、お前に馬鹿にされたままも癪だ。このまま、お前を『百の扉』に連れて行こう」

「『百の扉』?」

「お前みたいな、我慢の足りない奴に丁度いい場所だ」

 ローナンは薄く笑うと、首から掛けていた懐中時計に手をかざし、呪文を唱え始めた。

【空舞う風、その名を光陰と呼び、今、詠唱を望む。導きの標、その名を勇気と呼び、今扉を開かせよ。我が命に一片の偽りは無し、天秤に掛けるは刻・・・・・・】

 ローナンの低く甘い囁きが、小さな部屋に響くと、手に持っていた懐中時計の時を刻む秒針の音が、次第にゆっくりとしている事にシムは気が付いた。

 そして、同時にローナンの体の周りに瞳と同じ緋色の陽炎のようなものが覆い、燃えているように見えた。

 その光景が先程バッグを燃やした時の炎と重なり、シムは思わず後ずさりをしてしまう。

 小屋の扉に背中が触れ逃げ場を失うと、シムは思わず目を閉じる。

 鼻腔をかすめる甘い匂いに再びシムが目を開けた時、ローナンがシムを抱きしめるように体を寄せて来たので、驚いてシムは小さく悲鳴を上げた。だが、緋色の瞳とそれを取り巻く赤い熱気に、シムは捕らえられ動けなくなった。

「では、参ろうとするか」

 ローナンはシムの呆けた顔を見て満足すると、そのままシムを左腕に招き入れ、反対の手で小屋の扉を開いた。

 そこは、見慣れた薄暗い森のはずだった・・・・

 しかし、目の前に現われた景色はそんなものじゃなく、明るい、突き抜けるような青空だった。

 それもそのはず、小屋から出て来たシムたちは、その青空の真っ只中にいたからだった。

 シムが足を踏み出そうと地面を蹴っても、足が空を泳ぐだけだ。

「ぎゃーっ!」

 シムはローナンに抱きしめられている事など忘れ、手足をばたばたさせた。

 小屋にいた時は軽装だったローナンは、いつの間にかロックハート家の家紋が刻印された黒の正装着に着替え、そして肩からは長いマントを風になびかせていた。

「動くな、黙れ、出来ないのなら、その首を飛ばすぞ」

 ローナンの冷ややかな声に、自分を取り戻したシムは、改めて自分の状況を理解した。

「ぎゃーーーーっ! ちょ、ちょっと! どどどど、どこ触ってるんですか!」

 ローナンのたくましい腕の先がシムの小さな胸を覆っていたのだ。

「あぁ、すまん。気が付かなかった」

 その声はまるで反省しているようには聴こえなかったが、ローナンはシムの胸から手を離した。

 すると、今まで支えていたものが無くなり、シムは真っ逆さまに落ちた。

 そして、シムはそのまま直ぐに気を失ってしまったのだった。



 それは、とてもおいしそうな匂いだった。

 これは、チキンを炙った時の匂いだ。そして、その肉汁が火に落ちた時、パチパチと火力を大きくさせる音も聴こえる。

 あぁ、お屋敷にいた時は、たまにだけど食べる事が出来たっけ・・・・・・

『ぐぅ~・・・・・・・』

 その時盛大にお腹の音が鳴り、シムは目が覚めた。

「ここは・・・・・・・?」

 まず目に飛び込んできたのは満天の星空だった。

 そして、その中の星が、一つ、また一つと流れた。

「流れ星たくさん! 素敵!」

 シムは上半身だけ起き上がり、たくさんの流れ星を眺めた。

「起きたのか」

 シムは声のあったほうに目をやると、ローナンが何の肉だが判らないが、焚き火の周りを囲むように、木の枝に突き刺し焼いていた。

 チキンかと思ったが、どうやら違うようだ。

 それでも、その肉が焼ける匂いはとても魅力的で、シムはローナンの元へ歩みよると肉を物欲しげに見つめた。

「お前の分は無い」

 ローナンはそう言って、肉を口に運ぶ。

「・・・・・・・・・・・私が、たくさん失礼な事を言ったからですか」

「あぁ」

 短く返事をするローナンにシムは何も言えなかった。でも、お腹はもう限界を超えていた。

 目の前の肉が食べたくてしょうがない。

「あの、少しだけでも、頂けませんか・・・・」

 シムはローナンに懇願したが、ローナンが数々の暴言を許すわけ無いと、肉を美味しそうに食べるローナンを横目にシムは脚を折りたたみうずくまった。

 耳を澄ませば炎の弾ける音に紛れて、聞いたことの無い獣の遠吠えが聴こえてくる。

 シムはびくりと肩を震わせるとローナンを見た。

 しかし、そんな事は気が付かない様子でローナンは次の肉を手に取り、口に運んでいた。

 食す姿でさえ美しいローナンが、何を考えているのかシムは全く見当もつかなかった。

「ローナン様、ここどこですか」

 シムは空腹に耐えかねて、質問を投げかけてみた。

ここが先程までいた世界と違う事は、いくらなんでも理解している。それでも、扉を開けた先にあった、 この世界がどこなのかは解らない。

「扉の中だ」

 食事中に話し掛けられたのが、気に食わないのかぶっきらぼうに答える。

「・・・・・・・・・・・・・ここで、何をするんですか」

 シムはめげずに質問を続けた。

時珠じぎょくを回収する」

「じぎょく・・・・? それが時を守る仕事ですか?」

「あぁ」

「どうして、私を連れてきちゃったんですか」

 立て続けに質問するも、ローナンの答えは端的だった。

「お前が、気に食わないからだ」

 ローナンは鼻を鳴らすと答えた。

「普通、気に食わなければ連れて来ないと思うけど・・・」

 ローナンに聴こえないようにシムは小さな声で言った。

 ローナンは最後の一本の肉を掴むと口に運んだ。

「いいか、この扉の中で俺の足手まといになったら、置いて行くからな」

「えっ!」

 そんな事を言われても、この世界の勝手が解らない自分に「足手まといになるな」とは出来ない事に決まっている。

「早速、敵のお出ましだ」

 ローナンは食べかけの肉を焚き火に放り込むと立ち上がった。

 シムはその肉を恨めしそうに見つめたが、炎の中の肉には手を付けられず、早々に諦めたのだった。

 ローナンは腰ベルトに刺さっている剣を抜き取ると、霧の濃くなった森の中へ走って行った。

「ローナン様! ちょ、どこに行くんです!」

 叫んだシムに耳を貸すわけも無く、ローナンは風のように走り去ってしまった。

「もう!」

 シムは焚き火とローナンの影を交互に見たが、結局ローナンを追い掛けるしか無かった。



 夜空はおとぎ話の中のように美しく星を降らせているのに、瞳を前に向ければ、真っ暗な森が広がっているだけだった。

 ローナンはどこに行ったのか検討も付かない。

 自分ではローナンに着いてきたつもりなのに、そこには影も形も無かった。

「ローナン様ぁ」

 シムが暗い森に声を張っても、森は何も答えてはくれなかった。

 むしろ、聴いた事の無い獣の叫び声が遠くで聴こえて来るだけで、シムの心を不安にさせる。

「ローナン様ぁ!」

 もっと大きな声で、ローナンを呼んでみたが、結果は同じだった。

 シムはなんだか、腹が立ってきて別の言葉を言ってみることにした。

「ロックハート家の主は、とっても性格が悪いですー! 名前はローナンと言いますー!」

 恨みを込めて、シムは叫んだ。

『お前、ロックハート家を知っているのかぁ~』

 森の奥から、がらがら声が聴こえ、シムは叫ぶのを止める。

 声のした方へ顔を向けると、急に地面が揺れ立っていられなくなった。

「きゃ! 地震!」

 シムは地面にしゃがむと手を付いて、辺りをきょろきょろと見回した。

 森の木々たちが大きく揺れている。

 揺れは益々酷くなり、シムは地面にしがみつくしかなかった。

「こんなとこで、死にたくない!」

 シムは思わず叫んでいた。

『大丈夫さぁ、ロックハート家を知ってるなら、殺したりしないから~』

 目の前の木が大きく倒れると声の持ち主が現われた。がらがら声の持ち主は、巨大な蛙であった。

 そしてこの地震の正体は蛙が移動していた時に起こっていたものだった。

「ななな、ななななななな、なんでこんなでっかい蛙がここここ、ここに!」

 シムは巨大な蛙に腰を抜かし、身動きが出来なくなっていた。

『ロックハート家のローナンはどこだ~?』

 巨大な蛙が言葉を吐き出すたび、鼻が曲がりそうな匂いがした。

 蛙の体には透明な粘液が絶えず出ているようで、倒れた木々にべっとりと粘液がへばり付いていた。

「大きな蛙さん。えっと、実は私もローナンを探しているの」

『ローナン、知らないのか。お前必要ないな~』

 巨大蛙はシムの存在に必要性を感じなくなったのか、シムを濁った眼で、じっと見ると大きな口を開けた。

「ちょ、ちょちょちょちょっと! 待ったぁ!」

『なんだ~ もうお前要らないから、食べる~』

「大きな蛙さん! 私食べると大変なこと起きちゃうの!」

『大変なこと~?』

「爆発しちゃうの! もうね、すっごい爆発! 大きな蛙さんも木っ端微塵になっちゃうくらいの! だから、食べちゃ駄目なの!」

 シムは頑張ってどうにか逃げたかったが、一度抜けてしまった腰は、そう容易くは治らない。

 何とかこの場をしのごうと、口から出任せを言ってみた。

『嘘付いた~ 人間食べても爆発しないの知ってる~』

「し、知ってる・・・って。まさか蛙さん・・・・・・」

『腹減ったから、もう何人か食べてきた~』

 シムは恐怖のあまり声を失った。

 のろまそうな蛙だけど、やっぱり凶暴な怪物なんだと思い知らされる。

「もう、もう、もう! ローナンのばかぁ!」

 シムはこのまま蛙に食われてしまうと思ったら、ここに来る元凶となった人物の名を叫び、怒りの言葉をぶつけずにはいられなかった。

「なかなか、面白いものを見せてもらった。お前、すごいな」

 失笑しながらローナンが直ぐ近くの木の陰から出て来た。

 漆黒のゆるい癖毛が風になびく。

「ローナン様!」

『ローナン~ 会えた~』

 ローナンは蛙に目もくれずシムの前に立つ。

 手を貸す事も、立ち上がる手助けもしてくれない。

「ローナン様! いつからそこに?」

「お前が、俺を探している時から」

「そ、それって始めからじゃないですか! なんで直ぐに助けてくれなかったんです!」

「なぜ、俺がお前を助けないとならない?」

「それが普通です! 一般的良識です! それが男ってもんです!」

 シムは息巻いて怒鳴った。

「俺は、俺だ。やりたいようにするだけだ」

『ローナン~ お前食って、褒められる~』

 再び大地が揺れると、巨大蛙がローナン目掛けて飛び掛って来た。

「お前のような、うすのろに俺が食われるわけあるまい!」

 ローナンは剣をかざし、巨大蛙に向かっていった。

 シムもローナンがこんな蛙に食べられるわけ無いと思っていた。

 そんな姿、想像も出来ない。

 しかし、次の瞬間思いもよらぬ光景が目に飛び込み、シムは目を疑った。

 ローナンが巨大蛙の右腕に剣を突き刺すと、切り付けた場所から紫色の液体が飛び散り、それがローナンの足首に掛かると、顔を歪めてローナンは地面へと転がったのだ。

「ローナン様!」

 見ると、ローナンの足首の布が溶け、焼きただれた肉が見えていた。

「ぐぁっ!」

 苦しむ姿を、なんとかしてあげたいとローナンの傍へ近付きたかったが、腰の抜けたシムはただその様子を見ているしかなかった。

『俺の汁を浴びたら~ しびれて動けなくなる~』

 巨大蛙が大きくジャンプすると、転がっているローナンの目の前へ着地した。

 大きな揺れが起こったが、シムはもうそれには驚かなかった。

 ローナンは朦朧とした意識の中で、胸元の懐中時計を掴むとおぼつか無い手で、チェーンから時計を外した。

 シムはローナンが何かをしようとしているのだと思い、蛙の気を惹こうと声を掛けた。

「大きな蛙さん! ねぇ! ちょっと!」

『なんだ~ 今忙しい~ ローナン食ったらでいいか~』

 巨大蛙は口をあんぐりと開け、ローナンを丸ごと食べようとしていた。

「あ~ぁ、いいこと教えようと思ったのに! 今すぐがいいと思ったんだけど・・・」

『いいこと~? なんだ~』

 巨大蛙はシムの方へ向き直ると、目を爛々とさせ言葉を待った。

 シムは、一度自分を食べたら爆発すると言って嘘を付いたので、いい加減な事は言えないと思い、慎重に言葉を選んだ。

「ローナンを食べる前に、私を食べない? ローナンはメインディッシュで、ほら、私は前菜って事で・・・」

 シムは言った後、深く後悔した。

 それは、その言葉を言った途端、巨大な蛙が眼下に舞い降りてきたからだ。

 姿が大きいから、のろまだと勘違いしていたが、本当は素早く動けるのだと今更思い知らされた。

『女、うまい~ 食っていいのか~』

 臭い息を振りまいて蛙は私を見つめながら、大量の唾液を吐き出していた。

「ひぃっ! え、えっとえっと、うん・・・」

 シムの言葉に巨大蛙は大きな口を開ける。

「あー! その前に聴いておきたいことがあるの!」

『なんだ~ 早くしろ~』

「大きな蛙さんはどうしてそんなに体が大きいの?」

『ん~? 大きいのは~ 大きいのは~ なぜだ~』

 巨大蛙がここまで真剣に考えると思わなかったが、予想外に悩んでくれたのでシムはホッと胸を撫で下ろした。

『大きいの~ なぜだ~』

「俺に斬られる為だろ!」

 シムの頭上に大きな影が現われると、目の前の蛙は真っ二つに斬られていた。

 巨大な肉片からエメラルド色した輝かしい小さな珠が浮き上がってくると、ローナンは素早く掴んだ。 叫び声を立てる間も無く事切れた蛙から大量の紫の液体が飛び散る、そして目の前にいたシムは頭からそれを被り、液体が体に染み付くと皮膚が焼け、裂けるように痛んだ。

 シムはのた打ち回り、呼吸をするのも苦しいのか、口をぱくぱくしてたくさんの酸素を体に運ぼうとする。

 しかし、それもむなしく、シムの意識は消えそうになっていた。

 最期の力を振り絞り目を開けると、シムを見つめるローナンの姿があった。

「(ローナン様・・・無事だったんですね・・・良かった・・・これで、私のロックハート家へのご恩はお返ししました・・・)」

 溢れてきた涙にローナンの姿が滲んで見えなくなる。

 ローナンが、唇をかみ締め寂しそうに、そして目を逸らし切なそうにシムを見つめていた気がして、シム一瞬は目を疑ったが、そんな事あるはず無いと小さく笑った。

「(ローナン様・・・今のままでは駄目です・・・もっと・・・あなたなら・・・素敵な・・・あ・・・るじに・・・)」

 やがて考える思考までも痺れが回ってきたのか、シムは記憶を途絶えさせた。



【光陰の門番よ、我が従属の鎖の輪を、この者に・・・・・・・・・】

 暖かな光を感じ、シムは目を開ける。

 するとそこには懐中時計に向かって詠唱するローナンの姿があった。

「っく! ローナン様!」

 急に起き上がったら、体中が痛かった。

 ローナンはシムが目覚めた事に驚いたのか、詠唱を止めた。

「気が付いたか・・・・・・」

 シムは目を疑った。ローナンが今まで見たことも無い優しい表情をしていたからだ。

「ローナン様・・・助けてくれたんですね」

「役に立ったからな・・・」

 ローナンの言葉にシムはがっかりした。

 何を期待していたのか解らないが、シムは素直に喜べなかった。

「もう、皮膚は綺麗に治った。後は向こうに戻ったら、養生しろ」

 ローナンは懐中時計をチェーンに繋ぐと身支度を整えた。

「ここは、まだ扉の中ですか?」

「あぁ」

「ここ、宿屋・・・ですよね」

「あぁ」

「扉の中にも宿屋があるんですね」

「?」

 ローナンが不思議そうにシムを見つめた。

「え、えっと、扉の中に向こうの世界と同じ宿屋があるなんて思わなくて・・・」

「あぁ・・・そう言うことか」

「もしかして、この世界も向こうの世界と同じようになっている・・・とか?」

「・・・・・・・・・・・・・・・・そうだが」

「え! ほんとですか! 凄い!」

 シムは歓喜の声を上げて窓際に、足をもつれさせながら飛び込んだ。

「わぁ! 人が! 人がたくさん! 凄い!」

 窓から覗く暖かな日差しの下には、綺麗な街並みが存在し、大通りから小さな路地裏まで人が動き、生活している様子がうかがえたのだ。

「何が凄いんだ」

「えっ!」

 ローナンがシムの背後から体を合わすようにして外を眺めた。

 シムはローナンの息が掛かった首筋から血が逆流している感覚に陥り、思わず顔を背ける。

 ローナンは上半身には何もまとっておらず、美しい体から甘い匂いがしていた。

「そ、その、扉の中にも向こうと同じ世界があるのだと思ったら、凄いと思って・・・」

「そう思うものなのか」

 シムの言葉に納得出来ないのか、ローナンは窓から離れると身支度の続きを始めた。

「なんだか、私が馬鹿みたい・・・」

 小さな声で呟くとシムは眼下に広がる街並みを眺めていた。

「シム、お前も身支度をしろ」

 シムはローナンに言われ、改めて自分の身にまとっていた服を眺める。

 シムは素肌にシャツを羽織っているだけの状態だった。

 男性ものであろう大きなシャツは、仕立ての良さから上等なものだと直ぐにわかった。

「これ・・・・・・ローナン様のシャツ・・・?」

 襟元にロックハート家の家紋が刺繍させており、それを着ることが許された者は世界中探しても、たった一人しかいない。

「あの蛙の体液で、殆んど溶けてしまったからな」

「くぅっ~!」

 これを着せたという事は、ローナンはシムの体をすべて見てしまったということになる。

 シムはあまりの恥ずかしさに、言葉を失った。

「どうしたのだ」

「なんでもありません!」

 シムは自分の体を片方の手で抱きしめると、もう一方の手で足元の生地を伸ばし隠した。

「大丈夫だ、欲情はしていない」

「っ!」

 ローナンの言葉に、ほんの少しの自尊心が音を立てて崩れていくのをシムは感じた。

「ばかーーーーーーーっ!」

 シムは大声で叫んだ。

「な、なぜだ・・・・・・なぜ、お前に馬鹿と言われなければならない」

「よよよおよ、よく、よよ、欲情しないとか、ほんとでも言うなぁ!」

 シムは駆け出すと、ベッドの中に潜り込む。

 足元がすーすーして、恥ずかしくてローナンの前に出る勇気はもう無かった。

「もう、向こうへ帰れるんだぞ。早く支度を」

「し、支度って言ったって、服は溶けちゃって無くなってしまったんです! 何も身支度するような事ありません! それに、下着とスカートが無ければ、帰れません!」

 こんな格好のまま、お屋敷に戻ったら皆からどんな風に思われるか、考えただけでぞっとする。

 騒ぎになっても、ローナンのことだ、きっと自分になど何の計らいもしてはくれないだろう。

「俺に買いに行けと言うのか」

「私に買いに行けと言うんですかっ!」

 シムは毛布から顔も出さずに、叫んだ。

「お前、俺を誰だと思っている」

 ローナンの苛立った声が頭上から聴こえると、シムは毛布に包まったまま抱かかえられた。

「え! な、なにするんですか!」

「そんなに恥ずかしいなら、毛布に包まったまま連れて行くだけだ」

 シムは蓑虫みたいに動いてローナンの腕から抜け出そうともがいた。

「俺は早く向こうに帰って、ゆっくり風呂に入りたいのだ」

 心底疲れた様子で言われたら、シムは何も言えなくなってしまった。

 何はともあれ自分を介抱してくれたのは他ならぬローナンであり、助けてくれなければ、自分は死んでいたかもしれないのだ。

「わがままが過ぎました・・・・お許しください」

 シムは、謝ると暴れるのを止めた。

「・・・・・・・・・・・・・・・」

「ローナン様?」

 何も言わないローナンにシムは話し掛ける。

「あ、あぁ、いやなんでもない。では、帰るぞ」

 ローナンは首から下がった懐中時計を手に取ると、詠唱を始めた。

 すると、不思議な事にベルが鳴り始めた。

「何てことだ」

「どうしたのです?」

 シムは毛布の隙間からローナンの顔を覗く。

「帰れないぞ」

「え?」

「仕事だ」

「えーーーーーーーーーーっ!」

 すぐに元居た世界に戻れると思ったのに、またあの変な怪物とかに出会わなければならないと思うと、シムは恐怖におののいた。

「まぁ、仕方あるまい。ここ三日仕事を休んでいたのだからな」

「・・・・・・・・・?」

「お前のせいだ」

「え?」

 シムは巨大蛙に出会ったのは昨日の事だと思っていたが、実際のところすでにあれから三日が経とうとしていた。

「俺の回復詠唱は扉の中でしか通用しないのだ。だから、お前の時間を封じた後、街を探し回復詠唱を数回行ったのだ。そうしたら、三日経っていた」

「ローナン様・・・・・・・」

 シムはローナンの優しさに驚いた。そして、素直に喜んだ。

 扉の中に来て直ぐに「足手まといになったら、置いていく」と言われ、その言葉を本気にしていた自分がいたからだ。

 ローナンは詠唱を始める為に一度シムをベッドに置くと、懐中時計に手をかざし詠唱を始めた。

【空舞う風、その名を光陰と呼び、今、詠唱を望む。導きの標、その名を勇気と呼び、今扉を開かせよ。我が命に一片の偽りは無し、天秤に掛けるは刻・・・・・・】

 ローナンの緋色の瞳が一層輝いて、瞳と同じ色の陽炎がローナンを包み込む。

 シムはその姿をうっとりと眺めていた。

 詠唱の終わったローナンは再びシムを毛布ごと抱かかえると、部屋の扉を開けた。

 そこは、宿屋の廊下ではなく、広大な砂漠が広がっていた。

「ここは・・・・・・」

「また、体が汚れるのか」

 ローナンは溜息を吐くと、シムを無造作に落とした。

「痛っ!」

 シムを置いてローナンは歩いて行ってしまう。

 シムは毛布を腰に巻くと、慌ててローナンを追いかけた。

 

 

 砂漠の中にオアシスがあった。そこは当然のように小さいが街が出来、人がいた。

 シムには全てが物珍しく、視線がいろいろな所を彷徨った。

「ローナン様、ここにも怪物がいるんですか?」

「さぁな」

 ローナンとの会話はいつも進まない。と言うより、それを嫌っているように思えてならない。

 始めは数歩先を行っていたローナンだったが、脚の長いローナンはシムとの距離をどんどん開かせてしまった。

 そして、少しだけローナンの事を見直した自分をシムは後悔した。

 なんとか置いて行かれまいと必死で着いて来た先にはマーケットが立ち並んでいた。

「ローナン様、追いつきました・・・・はぁっ・・・」

 シムの口の中は水分が残っていない状態だった。

 よく考えれば、もう何日もまともに食事をしていないのだ。

「お前に靴を買う」

「え!」

 砂漠の砂に違和感を覚えなかったのだが、巨大蛙に溶かされて裸足のままだったのだ。

「好きなものを選ぶといい」

 ローナンは店主に金を渡すと「しばらくしたら戻って来る」と言い残し、店から消えていった。

 シムは靴を選べる嬉しさに心躍った。

「素敵なお兄様ですね。羨ましい。私も兄妹がいますが、こんな事したことありませんよ」

 店主が満面の笑みでシムに話し掛けた。

 ローナンが何を言ったのか解らないが、店主はローナンの事を自分の兄だと思っているようだった。

「えぇ、まぁ・・・あんなのでもいた方がいいですよね。あの、お勧めはありますか?」

「お嬢さん! あんな素敵なお兄様にそんな、つれない態度、いけませんよ・・・」

 シムは店主がなぜこんなにもローナンの味方をするのか謎だったが、シムはそんな事より靴を選ぶ事に夢中になっていた。

「あ、これ、これがいい!」

 シムは散々悩んだ揚句、小花が肩押しされた皮のサンダルを選んだ。

「お似合いです。さ、次はこちらへどうぞ」

 店主はシムにサンダルを履かせると、奥の部屋に案内された。

「いらっしゃい」

 部屋から現われたのは一人の女性だった。

「妹のサルーです。こっちは衣料品の店ですから、お嬢さんのお好きな服を選んで下さいね」

 店主はサルーを紹介すると、自分の店へ戻ってしまった。

「さぁ、好きな服を選ぶといいわ」

 サルーはにっこり微笑んでシムを招き入れた。

 その部屋には通りの皆が着ていた、布をたっぷり使った民族衣装が並んでいた。

「あの、でも私お金が・・・・」

 靴はローナンが買ってくれると言っていたが、服は買ってくれるとは言っていない。

 無断で買うことに気が引けたのだ。

「あらあら、聴いていないのね。お兄様には洋服代も頂いているのよ。そんな心配はしなくていいの。お金もたくさん頂いているし!」

「そうなんですか?」

 サルーはシムの背中を押すと、色とりどりの衣服が並ぶ棚の前に立たせた。

「そうよ。それにしても、あなた、変わった服着てるのね」

「えぇ・・・まぁ・・・成り行きで着ているんですけど・・・・・」

 シムは棚から気に入ったものを何点か選ぶと試着をする為に試着室に入った。

「ぎゃー!」

 すると、直ぐに試着室から叫び声が聴こえ、サルーが駆けつけて来た。

「どうしたの! なに? 毒虫でもいた!」

 試着室を遮るカーテンの外で、サルーは心配そうに中の様子をうかがっている。

 すると、カーテンの隙間から顔だけ出すとシムは言いづらそうにサルーに言った。

「あの、下着って売ってますか・・・・・・」

 シムは恥ずかしさのあまり、サルーの顔を直視出来なかった。



「遅いぞ」

 サルーの店を出たら、向かいの店でローナンが何かを飲みながら、不機嫌そうな顔をして待っていた。

「申し訳ありません・・・・・・」

 下着はサルーの店には置いていなくて、別の店を案内され買いに行って来たのだから仕方ないと思うのだが、その件はローナンには言えずにいた。

 シムは結局、サルーの店で巻きスカートを購入し、ローナンに着せてもらったシャツはそのまま着る事にしたのだった。

「あの、ローナン様・・・・ありがとうございました」

「なんの事だ」

 紅茶のいい香りが鼻を付く。

 どうやら、この店は紅茶専門店のようだ。

 ローナンは静かに紅茶を飲むと、立ち上がった。

「ローナン様・・・・あの、私も紅茶飲みたいです」

 紅茶の香りを嗅いだら、一度治まった空腹が、再び蘇って来てしまったのだ。

「飲むのか」

 ローナンは飲みかけの紅茶が入った銀のカップをシムに渡した。

「えぇ! これ・・・・・・」

 渡された紅茶にはミルクがたくさん入っていて、ゆらゆらと水面が揺れていた。

「飲まないなら、置いておけ」

「(そうじゃなくて! これは、ローナン様が口を付けたもので、それを躊躇いも無く飲めるわけ無いっていう恥じらいなの! もう、乙女心全然、解らないんだから!)」

 シムは膨れ顔で、渡された紅茶を一気に飲み干すと、鼻息を荒くして「ごちそうさまでした!」と言った。飲んだ紅茶はもう冷め切っていて、それはローナンが長いこと、この場所で待っていた証である事にシムは気付いたが、それを言ったとしても、また素っ気無い態度を取られると思い、口にする事はなかった。

 ローナンはマントをはためかせながら、シムの前を颯爽と歩いていた。

 ただでさえ、脚の長さが違うのに、ローナンは体力もある。

 いくらシムがお屋敷で一日中歩いていても、それはローナンの体力とはまるで比べ物にならない。

「一緒に歩いてくれたっていいのに」

 シムは頑張ってもまったく追いつかないローナンからはぐれない様に、ただただ着いて行くしか無かった。

 


 やがて、ローナンは一軒の宿屋に入った。

 ローナンは宿屋の主人に金を払うと、二階に案内された。

 通された部屋は、とても狭くベッドは一つしか無かった。

 煌びやかな装飾品など一切無く、本当にただ眠るだけの部屋だった。

 部屋に入ると、ローナンはマントを脱ぎ、黒の正装着を上半身だけ脱いだ。

「あ、ローナン様、シャツを新調したのですね」

 それもそのはずだ、本来身にまとうべきものは、シムが着ているのだ。

「あの、これ、お返しした方が良かったですか・・・・・」

 シムはロックハート家のシャツが気に入ってしまい、わざわざこのシャツに合うスカートを選んだくらいなのだ。

「そのシャツは、お前にくれてやる。それに、今返せと言ったら、お前はまた人格が変わったように怒るのだろう」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 そんな性格にしたのはローナン様です! と言ってやりたがったが、シムは我慢した。

「俺は、水浴びをしてくる。お前も今のうちに入っておけ」

「はい」

 シムは頷くと、とりあえず椅子に腰掛けた。

「それから、これをお前に」

 ローナンは正装着の内ポケットから、見たことの無いコインを数枚差し出した。

「お金・・・・?」

 手のひらのコインは見たことも無かったが、お金だということは解った。

「これで、好きなものを食べるといい」

「ローナン様! ありがとうございます」

「一階に食堂があると聞いた」

 ローナンはそう言うと、部屋を出て行った。

「よし! 食べるぞぉーーーーーーー!」

 嬉しくて乱舞しているシムの声を、廊下でしっかり聴いていたローナンは、誰にも見せた事の無い柔らかな表情で小さく笑うと、そのまま水浴びの出来る一階へ降りて行った。


 

 食堂の料理は今まで味わった事のない料理ばかりだった。

 香辛料をたくさん使うのがこの国の特徴らしい。

 私は、お腹が膨れるまで様々な料理を貪った。あまりの食欲に、お店の人が驚いていたくらいだ。

 お腹がいっぱいになると、シムは甘いものが食べたくなり、デザートをお願いする。

 出されたお菓子は一見焼き菓子のようで、安心して食べてみたら、驚くほど甘く全部食べきる事が出来なかった。シムは余ったお菓子をお店の人に頼んで、部屋に持って行けるよう、紙の皿に移し変えてもらった。

 部屋をノックするとローナンが「誰だ」と返事をする。

「シムです」

 答えてから部屋に入れば、ローナンが出窓に腰を掛け月明かりの下、本を読んでいた。

「ローナン様、目を悪くしますよ。ランプを点けましょうか」

 シムは部屋の隅に置いてある、ランプを手に取った。

「やめろ」

 冷たい声に、シムは手を止める。

「でも・・・・・・・」

 月は確かに明るく照らしてくれるが、小さな文字を読むには光が足りなかった。

「そんな事より、食事はうまかったか」

 ローナンは本を読みながら、シムに質問してきた。

「はい! それはそれは珍しい食べ物をたくさん頂きました」

 シムは先程食べた食事の味を思い出し、思わず笑みが零れる。

「それは、良かったな」

 出窓に座ったローナンはそのまま絵画になりそうなほど、美しく輝いて見えた。

 本から目を離さず、読みふけっているローナンをシムは振り向かせたくて、話し掛ける。

「ローナン様、何か飲みますか? 私食堂で何かもらって来ますけど」

「いらない」

「・・・・・・ローナン様、あの、聴いてもいいですか?」

「なんだ」

 ローナンが、ページを捲る。

「あの、お金のことなんですけど」

「・・・・・・・・・・・・・」

「あれって、どういう仕組みになっているんです?」

 ローナンは読んでいた本を閉じると、シムを見た。

「仕組み?」

「そうです、だってあんな大金、いったいどこから湧いて来たのです? 私はこの世界のお金など見たこともありません。まして、お屋敷の外に出られないローナン様が、この国のお金を持っているなんて不思議ではありませんか」

「あぁ、そのことか。金は扉を通るたび、その世界の通貨に変化する」

「凄い! ではまた別の扉を開けたら、その世界の通過になるんですね!」

 シムはロックハート家の召使いではあったが、召使い風情には詳しい事を誰も教えてはくれないのだ。「時を守る」のがロックハート家の定められた責務である事以外は何も知らない。

「そんな事より、お前、体は洗ってないよな?」

 ローナンがシムの体を上から下まで見ている。

 途端にシムは恥ずかしくなって、急いで扉の外に出る。

 ローナンのあの緋色の瞳に見つめられると、シムは心臓のどきどきが止まらなく。

「(おさまれー 私の心臓ー)」

 心臓に手を当て、シムは大きく息を吸った。

 すると、もたれていたドアが開き、ローナンがタオルを差し出してきた。

「水浴び場に行っても拭くものはないぞ。これを持って行け」

 シムはタオルを受け取ると、足早に階段を駆け下りたのだった。

「(あー、もう! 私、ひょっとして臭い? 臭かった? 体の汚れより空腹の方が勝っていたんだもん! 気がつかなかったよ・・・・)」

 涙目になりながら、シムは水浴び場に着くと、急いで体を洗い水の中に飛び込んだ。

 水面に浮かべば、大きな月が見える。

 きっと今頃、ローナンはこの月の明かりで読書の続きをしているのだろう。

「いつになったら、向こうへ帰れるんだろう・・・・・」

 そんな言葉を言ってみても、それは本心でない事をシムはとっくに理解していた。

 向こうへもどったら、ローナンと口を利くことなど、もう無くなるであろう。

「ローナン様のこと、もっと知りたいなぁ・・・・・」

 自分の口から出た言葉にシムは慌てて口を塞ぐ。

「(何言ってんのよ! ローナン様には散々な目に合わされて来たじゃない! 忘れちゃったの?)」

 巨大な蛙に紫の液体を掛けられ、死にそうになったし、シムの大切な毛布を奪ったのもローナンなのだ。

 失ったものはもう戻らない。

 その事もシムはちゃんと解っている。

 それでも、こんなにローナンのことを気になるのはなぜなんだろう・・・・? 

 シムは自分の体をよく見る。

 痕は綺麗に消えている。

 これはローナンが治してくれたのだ。

 ローナンは私の溶けた皮膚を見てどう思ったんだろう。

 かわいそうな事をしたなんて思ったのかな。

 それとも間抜けな女って思われたのかな。

「わからないや・・・・・」

 シムは思いっきり伸びをすると、水浴びを終わらせた。



 部屋をノックしても返事が無いので、そっと覗くとベッドでローナンが寝息を立てていた。

 小さいベッドには、もちろんシムの寝る場所など無い。

 シムは仕方なく扉の世界から持ってきてしまった毛布を床に敷く。

 床は固いけど、眠れなくは無さそうだ。

「おやすみなさい」

 聴いているはずはないと思ったが、シムはローナンに向かって囁いた。

 程無くすると、シムから規則正しい寝息が聴こえて来た。

 ベッドで寝ていたはずのローナンは起き上がると、シムの寝顔を眺めた。

「萎える顔をしているな」

 深い眠りに入ったシムは、口の端からよだれを垂らしながら眠っていたのだ。

 ローナンはシムの顔を優しく撫でると、ロックハート家の黒の正装着に着替え、やがて、身支度を終わらせると、部屋を出て行ったのだった。

 


 シムは肌に何か触れた気がして、重い瞼を持ち上げた。

「ん・・・・? なに・・・・・・・?」

 ぼやけた視界が定まると腕に大きな蜘蛛が這っている事に気が付き悲鳴を上げる。

「で、ででででっかい、でっかい蜘蛛ー!」

 シムは思わずベッドに飛び乗った。

 そして、そのベッドに居るはずのローナンがいない事に気が付く。

 冷たくなったベッドは、ローナンが居なくなってから、しばらく経っている事を知らせていた。

「ローナン様、どこに・・・」

 辺りを見渡すと、ローナンの正装着と、立掛けてあった剣が消えている事に気が付いた。

「も、もしかして、私を置いて帰っちゃった・・・・・・!」

 シムは扉に入ってから直ぐにローナンに言われたことを思い出していた。

『足手まといになったら、置いていく』

 確かに、ローナンは言っていた。

「どうしよう! 本当に置いて行かれちゃった! そりゃ、私は役に立っていないと思うけど・・・・でも、ここに来たのは私の意思じゃない! あぁ、でも、私が怒らせたからここに連れて来られちゃったんだっけ・・・・」

 シムは半べそをかきながら、身支度を整えると急いで宿屋を出たのだった。



 ローナンは昼に来たマーケット街に来ていた。

 今は真夜中なので全ての店が閉まっている。

 ローナンは腰ベルトから剣を抜くと、砂地に突き刺した。

 砂漠の砂がさらさらと風になびく。首から掛けた懐中時計を掴むと、ローナンは秒針が動くのを眺めていた。

『ロックハート家の、ローナンだな』

 暗闇から女の声が聴こえた。こちらの様子をうかがってなのか、なかなかその姿を見せない。

「そうだ」

 ローナンは懐中時計の蓋を閉じると、剣を引き抜いた。

『昼は世話になったね。お譲ちゃんは元気かい?』

 月明かりに照らされ、現われたのは昼間シムが世話になった、サルーであった。

「今頃は、楽しい夢でも見ているだろ」

 ローナンは驚く様子も無く剣をサルーに向ける。

『じゃぁ、その隣であんたも、お寝んね、するんだねっ!』

 サルーは二本のナイフを懐からすばやく抜き出すと、ローナンに投げ打ってきた。 

 ローナンは剣でナイフを弾くと、体を回転させ、落ちたナイフを拾うとサルーに投げ返した。

 サルーは宙返りをして、それを避けると、今度は数え切れないほどの、ナイフをローナンの頭上に降らせた。

 ローナンは、すばやく体をひねり、砂の上に転がりながら、ナイフをかわした。

『さすが、ロックハート家は一味違うね』

「・・・・・・・・・・・・」

 ローナンは立ち上がると、体中に付いた砂を払う。

『でも、私はどんな事をしても、お前を殺さないとね』

 サルーは四つん這いになると唸り始めた。

 体からは人間のものとは思えないほどの、濃い体毛が生え始め、脇腹から奇妙な音が聴こえると、そこから勢いよく二本の脚が皮膚を突き破りが出て来た。

 だがその脚は人間のそれとは違い、節足動物特有の折れ曲がったものであった。

 サルーは体中の関節を鳴らし、人間から別のものへ変化を遂げようとしていた。

 やがて、音が無くなると、頭の部分だけわずかにサルーの面影を残して、他の部分は完全に蜘蛛の姿になっていた。

 蜘蛛になったサルーは砂の上を水を得た魚のように、八本の脚を動かすとローナンの方へ突進してきた。

 ローナンは剣を砂に深く刺すと、それを軸にして突進してきたサルーを蹴り倒す。

 しかし、蜘蛛に変態したサルーの表皮は硬く、深手を負わせる事は出来なかった。

 気を良くしたサルーは、ゆっくりローナンに向かって体を方向転換させると、再びローナンに突進して来た。

 ローナンはサルーの脚を切り落とそうと剣で狙うが、サルーの動きが瞬間的に早くなり、向けられた剣は空をかすめた。

 ますます気を良くしたサルーは、ローナンの近くまで寄ってくると、顔をニヤニヤさせ笑った。

「・・・・・・・・・・・気に食わない」

『私の素早さに人間が着いて来れるわけないのさ。ローナン坊ちゃん?』

 体は蜘蛛で顔だけは人間のままのグロテスクなサルーは、目の端に見覚えのある顔が見えたことで、気分は最高潮に達していた。

『ねぇ、ローナン。あの、お譲ちゃん。美味しそうに眠っていたね』

「・・・・・・・・・・・・・・・・・」

『私にはねぇ、かわいい、かわいい子がいるの。その子たちの中の一匹がね。お譲ちゃんのところに忍び込んでいたんだけど。それはかわいい寝顔だったそうだよ・・・』

「あの顔がか?」

『あの、お譲ちゃんなら子宝に恵まれそうだよ。このあたしみたいにねっ!』

 サルーは腹部をローナンに見せる。

 体毛に覆われた腹の中には、小さな蜘蛛が零れ落ちないように、無数にしがみ付いていた。

「・・・・・・!」

 シムは、目の前の光景に目を疑った。ローナンの目の前にいるのが、巨大な蜘蛛だったからである。

 さきほど部屋に来ていた蜘蛛など、塵のように感じさせた。

 そして、ローナンが散って来た子蜘蛛を剣で次々に斬り殺していくと、丁度シムの位置から蜘蛛の頭部が目に入った。

「あ、ああああああ、ああ、あれは・・・・・!」

 昼間、自分の服を一緒に選んでくれ、そして、下着屋を紹介してくれたサルーなのだ。

 おぞましい姿になっても、それをかわいそうに思えないのは、やはりサルーの今の姿が本来のものなんだと感じさせるほど、狂喜乱舞しローナンと戦っているからだ。

『私の子を殺したから、私もあんたのかわいい娘を殺さないとね!』

 サルーは恍惚とした表情で、ローナンを見つめると、長い脚でローナンに砂を撒き散らした。

 ローナンは長いマントで砂を防ぐと、砂塵の及ばないところへ体を移した。

「ぎゃーーーーーーーーっ!」

 ローナンは叫び声で直ぐにシムだと解り、声のするほうへ目を凝らす。

 砂煙が落ち着くと、サルーの体の下に押さえ込まれた状態のシムが、泣きそうな顔でサルーの腹部を見ていた。

 サルーの子蜘蛛たちが、シムの体に次々に飛び乗って体をさまよっているのだ。

『お譲ちゃん、すまないね。お譲ちゃんは何にも悪くないんだけどねぇ・・・大丈夫、子蜘蛛たちが優しくしてくれるから。そのうち、恐怖ごと消えてなくなるからね・・・』

 逃げたくても体を長い脚で押さえ込まれ、シムは子蜘蛛が体をさまよう感触を生き地獄のように感じ、涙がとめどなく溢れてきた。

 子蜘蛛が体を這うのを可能な限り振り解こうとするが、手足を完全に押さえ込まれ、小さな揺れを起こすことしか出来なかった。子蜘蛛が時々噛むのか、ちくりと痛みを感じる。

『さぁ、召し上がれ』

 サルーの一言で、子蜘蛛たちが一斉にシムの体に噛み付いた。

「あーーーーーーーーーーーーーーーーっ」

 シムはあまりの激痛に、体中を痙攣させると意識を失ってしまった。

「シム!」

 呼び掛けに答えないのを確認すると、ローナンは懐中時計に触れ短く詠唱をした。

【我が主、我が時を天秤に掛けよ】

 懐中時計に触れた指先がエメラルド色に光ると、ローナンは剣の刃にその指先を当てる。

 刃がローナンの血で赤く染まると、今度はその血の部分からエメラルドの光が炎のように燃え上がった。

『おや、おや、おや、おや、おや? こんな娘ごときに天秤を使っちまうのかい? ロックハート家のローナン様が聞いて呆れる!』

 サルーは動かなくなったシムをいたぶるように、八本の脚で転がしながら叫んだ。

 シムの周りにいた子蜘蛛が、そのたびに潰れたがサルーは全く気にしていない様子だった。

『私の動きに着いて来れない、お前など、扉の中でくたばっちまいな!』

 サルーは足元のシムを脚でぞんざいに弾くと、砂漠の砂を撒き散らしながら、もの凄い勢いで突進して来た。そして、あっという間にローナンを組み敷いた。

『お前、ほんとにロックハート家の者か? 弱い、弱すぎる。それとも、前の管理者が強すぎたのか?』

「くっ・・・・」

 ローナンは緑の炎に包まれた剣を押さえ込まれ、振り解こうと何度も試みたが、ローナンが力を入れれば入れるほど、サルーの力は大きくなり、ローナンの腕は徐々に砂に埋もれていた。

 漆黒の髪にうっすらと汗をかく端整な顔を眺めながら、サルーは顔をローナンに近付け囁く。

『綺麗な顔してるねぇ。それに、いい体・・・』

 サルーはこれから殺す男の最期を上から下まで、舐めまわすように、じっくりと眺めていた。

『最期にあんたと交われればよかったねぇ、だけど、あいにくこの体じゃ無理ねぇ』

サルーはそう言って、更に顔を近付けた。

「感じないのか・・・」

『何がだい?』

 うっとりとローナンを眺めるサルーの口から唾液が垂れる。

「俺は、とっくにお前の中に入れている」

『あら、何をだい?』

 ローナンが薄く笑うのと、サルーの悲鳴が上がるのは、ほぼ同時であった。

 サルーの頭胸部と腹部の間のくびれにロックハート家の家紋が刻印された短剣が深く突き刺さっていたのだ。

『き、貴様・・・・いつの間に・・・・』

 サルーの口から、今度は唾液では無く、どす黒い血がこぼれる。

 ローナンはサルーの血を浴びながらも、刺さった短剣をさらに深くまで突き刺した。

「余所見をしているから、こうなるっ!」

 サルーは奇声を上げると、ローナンの自由を奪っていた脚を浮かせた。

 その瞬間を見逃さなかったローナンは、エメラルド色の炎をまとった剣を短剣にクロスさせるように差し込んだ。

 サルーのくびれ部分は二つの剣が刺さる事により真っ二つに割れ、砂の上に転がった。

 割れた体からエメラルド色の時珠が静かに浮き上がって来ると、ローナンは掴み取った。

 


 目を開けると、シムはベッドに寝かされていた。

 体が鉛の様に重く感じ、寝返りを打つ事さえ躊躇われた。

 しかし、本のページを捲る音が聴こえ、シムは音のする方へ顔を向けた。

 すると、そこにはすぐ隣でローナンが上半身だけ起こし本を読んでいる姿が飛び込んで来て、シムは驚いて声を上げてしまった。

「起きたか」

 ローナンはシムの声に読んでいた本を閉じる。

「はい・・・・・」

 シムは起き上がろうと試みたが、手足の状態が悪く、うまく起き上がれなかった。

「まだ、動かさないほうがいい。昨日一晩、回復詠唱したのだが、まだ完全ではない。俺の体力が戻ったら、もう一度回復詠唱する」

 シムは起き上がるのを止め、窓を見上げた。

 大きな月が出ている、ローナンが一晩回復詠唱したのなら、もう二日も経ってしまった事になる。

 シムは前回の扉での一件といい、今回もローナンに命を救われ、遣り切れない気持ちに覆われた。

 無理やり扉の中に連れて来られ憤慨していた以前の自分が嘘のようであった。

「ローナン様・・・もう帰りたいです・・・向こうの世界に・・・」

 シムは振り絞るように言うと、不意に溢れてきた涙を見せまいと、ローナンを背にして丸まった。

 すると、再びページを捲る音が聴こえ、ローナンが本を読み始めたのだと知ったシムは、悲しくなって目を閉じた。

「お前をちゃんと治してからでなければ、向こうには帰れないだろう」

 ローナンはそう言うと無理やりにシムを自分の方へ体を向けさせた。

「ローナン様は、ずるいです・・・」

 涙に溢れた瞳をローナンに向け、シムは小さく叫んだ。

「なぜだ」

「・・・・・・別に・・・・・もう・・・いい・・・です」

 シムはローナンの緋色の瞳に吸い込まれそうになって、慌てて顔を背けた。

 しかし、ローナンはその態度が気に食わなかったのか、シムの両肩を押さえ込むとベッドに沈めた。

「女は、これだから困る」

 ローナンは呟くと、唇を寄せシムのものと合わせた。

「うぐっ」

 今、シムの目の前に漆黒の髪が揺れ、自分の唇を奪っている。

 シムの頭の中は、真っ白になり、何も考えられなくなってしまった。

 やがて、長い口付けが終わると、閉じていたローナンの瞳が静かに開かれた。

 緋色の瞳と目が合うとシムはローナンを突き飛ばした。

「初めてか」

 薄く笑うローナンにシムは、再び・・・・切れてしまった。

「けだもの! な、なん、なんて事すんのよ! けだもの、けだもの、けだものーーーー!」

「怒る元気が戻ったな」

 ローナンが嬉しそうに微笑んだので、その姿を見て思わずどきどきしてしまい、怒るのを忘れそうになったが、ローナンから譲ってもらった、ロックハート家の家紋の入ったシャツの胸ボタンにローナンの手が掛けられると、シムはその綺麗な顔に平手打ちを食らわした。

「ぎゃーーーーーーー! なに、しようとしてるの! 触んじゃねぇ! ぼけが!」

「ぼ、ぼけとまた言ったな・・・」

 シムの平手打ちより、言葉のほうがローナンは傷付いたらしい。

 そして、シムが暴れても依然として押し倒された状態であった二人だが、ローナンはそれ以上の事は決してしてこなかった。

 そして、顔を真っ赤にするシムの顔をまじまじと見つめると、ローナンは噴出して笑った。

「俺の回復詠唱も、こういう使い方があったのだな!」

 ローナンは見たことも無い笑顔を向けると、シムから体を離した。

「え? 回復詠唱?」

 ローナンの言葉に耳を疑う。

「外から詠唱するのと中から詠唱するのだと回復速度が、違うという事だ。だが、これは女にしか使えないな」

 ローナンの口付けは、シムの傷を治す為のものだったと、やっと気付いたシムは言葉を失った。

 ローナンはベッドから降りると、黒の正装着に着替え始める。

 その姿をぼんやり見つめていたら、ローナンが思い出したように言った。

「扉の中で使った金だが、向こうに返ったら、全額返してもらう」

「えっ!」

「あぁ・・・・・良い提案を思い付いた。借金が終わるまで、俺と一緒に扉の中を旅するのはどうだ?」

 ローナンはシムに顔も向けず聞いてきたので、シムはローナンがこちらに向くまで、ずっと黙っていた。

 すると、しばらくしてローナンが少し苛立った声で振り向き「どうなんだ?」と再び聞いてきたのだが、シムは、そんなローナンにいじわるをしたくて何も言わずにいた。

 するとローナンが、ベッドの上のシムの前まで近付くと、腰をかがめ、ひざまずいた。

「!」

 シムは目の前の光景が信じられず、目を見開いた。

 ローナンの漆黒の髪がさらりと風に揺れた。

「ローナン・バリジェ・ロックハートは今、目の前の女性を、時の均衡を守るべく百の扉の友とし、己が宿命を共にする事を契約する」

 ローナンが胸元の懐中時計に触れると、エメラルド色の輝かしい光が広がり、ローナンを包んだ。

「シム、どうかこの時計に、手を触れて」

 ローナンの優しい仕草にシムはベッドから遠慮がちに降りると、魔法が掛かったように右手を差し、懐中時計に触れた。ローナンをまとっていた光が、今度はシムとローナン二人を優しく包んでいた。

「契約成立だ。これで、俺の退屈な旅も終わりそうだ」

「ローナン様・・・・・!」 

 ローナンはシムを両腕で抱えると、詠唱を始めた。

 シムは間近で聴こえるローナンの声を聴きながら、気まぐれで、わがままな主に従うことを心に決めたのだった。

 そして、宿屋の扉を抜ければ、そこは元の世界・・・・・

 いつもの日常に戻れる嬉しさの影には、ちょっぴり寂しさが見え隠れしているけど、また「百の扉」に出掛ける時は、少しは役に立てるようになりたい・・・・と心から思った。

 ローナンが扉に脚を向け、一歩脚を踏み出したところへ、聞き覚えのある柔らかなベルの音が聴こえてきた。

「ま、まさか!」

 シムはローナンの首に回した腕に力を込めた。音の正体はもちろん懐中時計である。

「なんてことだ・・・・・・また、帰れないとは」

 ローナンは深く溜息を吐く。

「また、次の扉に行くんですか・・・・・?」

 シムが、おずおずとローナンに問いかけた。

「あぁ、そうだ。それが俺の仕事だからな」

 シムはローナンの首筋に軽くキスをすると、ローナンは少しだけ驚いた顔をして、直ぐに詠唱を始めた。

 

 シムはローナンの驚いた顔が愛しく思い、首に回した腕に力を入れるのだった。

                                        


                                          おわり


ずいぶん前に書いたものです。

テスト作品としてUPさせて頂きました。

原稿用紙の投稿と違うので、いろいろ不安なところがあります。

私の文は趣味の範囲なので、楽しんで頂けたらそれだけで嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ