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【短編小説】親愛なる

作者: 青いひつじ
掲載日:2026/02/25


ここは、M氏のプライベートジェットの中。

上質なフルグレインレザーのチェアー。深い赤色の絨毯を暖色の灯りが照らし、繊細な装飾が散りばめられた棚には、世界各国の高価なウィスキーが並んでいる。無機質な外観からは想像できないモダンで落ち着いた空間は、人通りの少ない路地裏にあるBarのような、大人の隠れ家を彷彿とさせた。

ボタンひとつ押せば、搭載されている高音質のスピーカーを通して、クラッシーなワルツを聴くことも、コージーなジャズミュージックを聴くこともできる。

しかし機内は、しんと静かだった。

光沢のある木製の丸テーブルには、シャンパングラスがぽつんと佇んでいるだけで。



沈んでいく太陽を見ながら、M氏は深くため息をついた。


「国内の取引先に会いに行くだけだろう。プライベートジェットなんて、大袈裟だな」


M氏の側に立つ彼の秘書は、黙ったままだった。


「花火は何時からだ」


『30分後の、18時開始予定でございます』


「K社長との会食は19時半だったか」


『さようでございます』


「今日は昼食を食べていないから、少し腹が減ったな」


『軽食をご用意いたします。本日のメニューはこちらでございます。スモークサーモンのカルパッチョ、熟成ローストビーフ、フレッシュチーズの前菜盛り合わせ、スナックサラミやオリーブ、チョコレートなども』


M氏がいつ乗っても大丈夫なように、機内には彼の好物が常備されている。

M氏はメニューを一読し、指差した。


「今夜は旅館の懐石料理と言っていたな。それじゃあ、カルパッチョとスナックサラミを頼む」


『承知いたしました』


メニューを受け取ると、秘書は機内の奥にいるシェフへ指示を出した。


「ところで、一緒に来たふたりはどこにいるんだ」


『おふたりには、別でエコノミー席を手配しております』


「そんな、一緒に乗ればいいじゃないか。わざわざ別で乗ることないだろ。それにエコノミー席だなんて。せっかくの休息の時間だというのに』


『そういうわけにはまいりません。代表には、リラックスできる空間でお休みいただかないと』


M氏は、大手IT会社の代表取締役を務めている。

20年前、彼が企画した商品は国内で大ヒットを果たし、その後すぐ、海外でも高い評価を得た。その結果に満足することなく、M氏は次々にヒット商品を生み出した。世間からはヒットメーカーとして脚光を浴び、職場の人間からは救世主ともてはやされた。会社の発展に貢献した長年の功績が認められ、50歳になった年、M氏は会社の代表に任命されたのだ。誰もが納得の、ごく自然な結果だった。

しかしそれは、M氏の望んだ成功ではなかった。



M氏はチェアーに深く腰掛け、スナックサラミとカルパッチョを待った。

窓の向こうの太陽は、少し目を離した間に完全に沈んでしまった。

残っているのは、世界を半分に分ける、永遠に続く橙色の横線と、今日の終わりを告げるように幕を下ろす紺色だけだった。



「綺麗な空だな。花火も、きっと綺麗だろうな」


M氏は、仕事用のカバンの中からボールペンと1枚の紙を取り出すと、徐になにか書き始めた。

手紙だった。


"お元気ですか。私は元気に暮らしています。

今日、飛行機の中から夕焼けを見ました。

こんなに綺麗な空を見たのは久しぶりでした。いや、本当はいつでも見ることができたのに、私は今まで、あえてそれを選ばなかったように思います。"



ここまで書くと、スムーズにペンを走らせていたM氏の手がピタリと止まった。それだけではなく、せっかく書いた手紙をぐしゃぐしゃに丸めてしまった。少し苛ついた様子で。

M氏は馬鹿馬鹿しくなったのだ。

M氏には手紙を書くほどの親しい友人も、会いたくてたまらなくなる恋人も、シチューのように温かい家族もいない。

"親愛なる"に続く相手が、彼にはいないのだ。




機内にはなんでもある。ふかふかのベッドにソファにクッションまで。M氏の嗜好品は、機内から無くなればすぐに補充され、満ち足りている状態が保たれる。1ヶ月くらいなら遭難しても問題ない。ワインセラーには1本数百万するワインが保管され、シェフに頼めば和洋折衷のコース料理を堪能することもできる。リクライニングを倒して優雅に読書を嗜むことも、マッサージをうけて疲労を回復させることも、大型スクリーンで最新の映画を楽しむことも、花火を上から見下ろすこともできる。

もう、買えないものも、手に入らないものもない。


「なんでもあるなぁ。本当に、なんでもある」



シェフがスモークサーモンのカルパッチョを丸テーブルに置いた。開花したひまわりのように、丁寧に盛られたサーモン。上には薄くスイラスされた生の玉ねぎが散りばめられている。

それを見た秘書は、顔を青くした。


『おい!生の玉ねぎは抜けと事前に伝えただろ!』


『も、申し訳ございません!!すぐに新しいものをご用意いたします』


ところがM氏は、皿を下げようとするシェフの手を止めた。


「いや、いい。食べるよ。ありがとう」


なんでもある。あれが邪魔だと言えば、急いでそれを取り払ってくれる人もいる。M氏が「ここから飛び降りろと」命じれば、秘書は喜んで飛び降りるかもしれない。

しかしそれも、M氏が望むものではない。



「生の玉ねぎは嫌いだ」と言ったら『いい年して、仕方ないやつだな』と笑ってくれて、映画を観ながら「この監督は年々腕が落ちているな」『あぁ、まったく同感だ』と一緒に評論家気取りをしてくれる。

彼に必要なのは、そんなただひとりの友人だけなのだ。

しかし、そんな人と出会うことがどれだけ大変なことか。


M氏は、なんでもある機内の中からひとり、打ち上がり始めた花火を見た。




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