第8話 遊園地で反射する心
五月下旬の日曜、昼の一時。都内から電車で四十分の遊園地は、甘い綿あめの匂いと、子どもの笑い声で満ちていた。改札を出たまおは、歩く前から小走りで、入口の看板を見上げて両手を上げる。ジャケットの袖が、照り返しの光で白くきらりとした。
「今日、撮れ高ある。絶対ある。だって、ほら——あれ!」
指さす先のジェットコースターが、空に向けて音を立てて登っていく。まおの声は店のカウンターにいるときより三段高い。
快は、胸の前でカメラのストラップを整えた。会社の機材室から借りた小型のカメラ。レンズのガラスに人混みが映り込み、空の青も映る。——映るものは多いのに、映したいものだけが、いつも一秒遅れる。
「提供:日焼け止め。協力:帽子」
つい癖が出ると、まおが即座に振り返った。
「それ、締めに使うやつ。まだ始まってない」
「始まる前に言っておくと、あとが楽でしょ」
「楽して勝つ気?」
まおが笑って、すぐ舌を出す。言い方は軽いのに、目だけがどこか急いでいる。
今日は「散歩でありがとう一言」を、遊園地版で撮る約束だった。店員さんや係員さん、並んでいる人に許可をもらい、短い感謝の一言を集める。小箱は快のショルダーバッグに入っている。ふたの「ありがとう」を指でなぞるたび、まおの声が近くにある気がした。
最初の撮影は、メリーゴーラウンドの前だった。まおはカメラに向かって、白い歯を見せる。
「こんにちは。今日は……えっと、歩かない散歩!」
自分で言って、笑って崩れた。
「違う、違う。遊ぶ散歩!」
言い直してまた噛む。快は無言で手を挙げて「もう一回」を示す。まおは深呼吸して、頬を叩いてから、今度はきっちり言った。
「こんにちは。今日は遊園地で、“ありがとう一言”を集めます」
成功した瞬間、まおは小さくガッツポーズをした。見た目だけは大人、喜び方はわりと子どもだ。
係員さんに声をかけ、撮影の許可を取り、感謝の一言をもらう。帽子の角度を直してくれた母親、落としたチケットを拾ってくれた高校生、笑顔で案内してくれた係員さん。短い言葉が、まおのスマホの中に溜まっていく。
「最後、エンディングロール入れよ。『協力:観覧車』とか」
「観覧車は協力してない」
「動いてくれてる」
「それは機械の仕事」
まおのツッコミが軽快で、快の肩の力が少し抜ける。
問題は、絶叫系だった。
「行こ、あれ! 映える!」
まおは列に並びながら、既に両手を握りしめている。口元は笑っているのに、指先が細かく動く。快はその動きを見て、言いたい言葉を飲み込んだ。怖いなら、やめてもいい——と言うのは簡単だ。まおは「チャンス」を逃さない人だから、止めたら余計に走る。
発車。登る。止まる。落ちる。
まおの声が、空に抜けた。
「うわぁぁぁぁ! ——あ、これ、楽しい! いや、怖い! 楽しい!」
人格が一往復する。隣で快は、声を出す代わりに目を閉じた。胃がふわっと浮いて、頭が軽くなる。下を見ると、まおの髪が風にほどけて、頬が赤い。笑っている。泣いていない。——それだけで安心した自分が、少し悔しい。
降りた直後、まおはよろよろしながら、快の腕にしがみついた。
「今の、撮った? 私、顔、どうだった?」
「最高に、崩れてた」
「編集で盛って」
「編集は魔法じゃない」
「じゃあ、魔法みたいにして」
まおは笑いながら、腕を離さない。快の心臓が一拍、編集点を飛ばしたみたいに跳ねた。
午後三時。観覧車の列に並び、ゆっくりと空へ上がる。外の喧騒が、ガラス越しに遠くなる。二人きりの箱の中は、空調の音だけが一定だった。
まおは窓の外を見て、息を整えた。さっきまでの高い声が、少し低くなる。
「ね、快くん。さ……」
その声の続きが、まおの喉の奥で揺れているのが分かった。快は、目線をまおの指先に落とす。膝の上で、スマホをぎゅっと握っている。爪の先が白い。
快は、手を伸ばしかけた。触れたら、言葉が出る気がした。
「……まお」
名前を呼ぶだけで、胸が熱い。
その瞬間、快のスマホが震えた。画面に「舜爾:今どこ?」の通知。続けて電話が鳴る。まおのスマホも同時に震えた。まおが反射的に画面を見て、目が丸くなる。
「え、舜爾さん、近くにいるって……」
まおは言いながら、慌てて通話ボタンを押した。観覧車の静けさに、舜爾の声が入り込む。
『ちょうど撮影の確認したくてさ。今から合流できる? 今日の素材、次の投稿の設計に使いたい』
「設計」
まおの目が、またさっきの速度になる。早い。速い。置いていかれたくない目だ。
観覧車が地上に戻るころ、舜爾は出口の横で待っていた。手にはタブレット。画面には、投稿予定の表が並んでいる。まおは、その表に吸い寄せられるみたいに近づいた。
「これ、今日の遊園地の動画を、三本に分ける。一本目は“絶叫の顔”で引く。二本目は“ありがとう一言”で温度を入れる。三本目で屋外上映会につなげる」
舜爾の指が、スワイプで未来を作っていく。
快は、その横に立ちながら、自分の影が薄くなるのを感じた。まおの耳は、舜爾の言葉に向いている。快のほうは、まおの視界の端にいるだけ。
まおが振り返った。
「快くん、ね。これ、すごくない? 私、こういうの、できない」
頼ってくれる言葉なのに、胸が痛い。快は笑って頷いた。
「すごいよ。……君のやりたいこと、ちゃんと形になる」
いつもの逃げ道。応援、という便利な言葉。まおの目が、ほんの一瞬だけ曇った。
舜爾が、まおの肩越しに快を見る。
「編集は任せたい。だけど、今日からは“勝つ手順”で動きたい。まお、いけるよな?」
「いける。……いける、はず」
まおは言い切った。言い切ることで、自分の怖さを置いていくみたいに。
夕方、遊園地の出口。帰りの駅へ向かう人波の中で、まおは舜爾の隣を歩いていた。快は半歩後ろ。まおのスマホには、次の撮影予定が次々と送られてくる。通知音が、まるで背中を押す足音みたいだ。
快のバッグの中で、小箱が軽く揺れた。ふたの「ありがとう」が、暗くなる前の光を受けて、ぼんやり白い。
まおが振り返って、早口で言った。
「快くん、今週、商店街で“十店ありがとう一言”撮ろう。昼の一時から二時間で回る。舜爾さんが許可取りの導線も作ってくれるって」
具体的な時間と数が並ぶ。まおの声は弾んでいる。快の胸の奥は、ついていけずに重い。
「うん。……できる範囲で、やろう」
快がそう言うと、まおは「できる範囲」を聞き逃したふりをして笑った。笑いながら、舜爾に顔を向ける。
「じゃあ、次は“勝つ形”で!」
その言葉が、快の耳にだけ、少し尖って刺さった。
駅のホームで電車を待つ間、ガラス窓に三人の影が並ぶ。まおの影は明るく、舜爾の影はまっすぐで、快の影だけが端に寄る。窓に映る空は夕焼けで、観覧車の輪郭が遠くに薄い。
「提供:置いていかれる速度」
快は小さく呟き、すぐに口を閉じた。隣にいたい、と言える距離は、まだ箱のふた一枚ぶん、開かなかった。




