第7話 エンディングロールに載せたい名前
五月中旬の火曜、二十時すぎ。商店街のカフェはシャッターを半分下ろし、客席の椅子が机の上に逆さで並んでいた。裏の小さな休憩室だけ、電気がついている。まおはエプロンを外し、鏡の前で髪を整えた。口角を上げて「大丈夫、私は大人」と自分に言い聞かせる。……次の瞬間、スマホの通知が鳴って、顔がすぐ速くなる。
「ねえ、快さん! 見て、コメント! 『編集の人、誰?』って!」
まおは椅子から立ち上がり、スマホを快の鼻先へ突き出した。快は指で画面を受け止め、視線だけで内容を追う。
「『編集の人、気が利いてる』……ありがとう、だね」
「でしょ? だからさ、次はもっと、ドーンって出そうよ。最後の黒い画面、文字が小さすぎるの。『編集:快』じゃなくて——」
まおはホワイトボード用のマーカーを取り、紙に太い字で書いた。
編集:快 (特大)
「こんな感じ! これなら一発で覚える!」
快は紙を見て、喉を鳴らした。
「……提供:照れる」
「そこでクレジットに逃げるな!」
まおが机を軽く叩くと、隣の棚の上で、例の小箱がコトンと鳴った。ふたの「ありがとう」が、休憩室の蛍光灯を反射する。快は箱を見てから、ゆっくり言葉を探した。
「出すのは、君の名前でいい。君が前に出るから、見てくれる人が増える」
「快さんも、前に出ればいいじゃん」
「俺は、後ろで——」
「後ろって、どこまで後ろ?」
まおは、紙の「特大」を指でなぞりながら、少しだけ眉を寄せた。
「私、快さんの“後ろでいい”って言い方、たまに怖い。……消えるみたいで」
快は反射的に笑おうとして、笑えなかった。代わりに、いつもの癖で理屈を並べた。
「裏の作業は、目立たないほうが……映像って、見てほしいものが一つのほうが……視線誘導が……」
「長い。寝る」
まおは椅子にもたれ、わざとあくびをしてみせた。大人っぽい仕草のつもりが、声だけ子どもっぽい。
「寝ないで。……協力:まおのまぶた」
「やめて、余計眠くなる」
そのとき、休憩室のドアがノックされた。返事を待たずに開き、真潤が紙袋を片手に入ってくる。無表情のまま、机に紙の束を置いた。
「これ。許可」
「え、なにそれ?」
まおが束をめくると、商店街の店名とサインが並んだメモが何枚も出てきた。魚屋、豆腐屋、駄菓子屋、古本屋——「撮影と掲載、可」。日付も、時間も、ちゃんと書いてある。
「真潤……これ、いつ集めたの」
「昨日、昼。まおが休憩してる間」
「私、何してたっけ」
「カフェラテの泡で、ハート描く練習してた」
「見てたの!?」
真潤は首を傾げもしない。
「撮るなら、先に聞け。相手の都合も、時間も。善意は、タダじゃない」
快が小さく息を吐いた。真潤の紙には、余計な飾りがない。だから、重い。
「……助かった。ありがとう」
快が言うと、真潤は目を合わせずに紙袋の中身を取り出した。温かい飲み物が二つ。ひとつをまおへ押しつける。
「飲め。声、枯れてる」
「え、私、枯れてないし」
言い終わる前に、まおは一口すすってむせた。
「……っ、あつ! あつい!」
「ほら」
真潤の「ほら」は、勝ち誇りじゃなく、点検の合格みたいだった。
束の一番下に、手書きのメモが挟まっていた。まおが引き抜くと、そこには小さく一行。
『エンディングロールに載せる店名、読み仮名つけといた』
添えられたふりがなは丁寧で、まおの字よりずっと落ち着いている。
「……真潤、あんた、ほんとは優しいじゃん」
「違う。面倒が減る」
真潤は言い切って、視線で快を刺した。
「で。編集の人は、名前消すの?」
快は一瞬、唇を結んだ。まおも、真潤も、逃げ道を塞ぐ目をしている。
「消さない。……ただ、大きくは、しない」
「なんで」
「……見てる人に、俺の名前を覚えさせなくていい」
まおは椅子から立ち上がり、机の上の小箱を抱えた。箱の側面の薄い印字に、親指を当てる。
「『エンディングロールに載せたい人へ』って書いてある。……ならさ、載せたい名前、入れてもいいよね」
まおは紙を一枚ちぎり、ペンで書いた。字は少し揺れている。勢いで書いているのに、間違えたくなくて、呼吸だけ慎重だった。
快
まおはその紙を、箱のふたの隙間から滑り込ませた。紙が中でひらりと落ちる音がした。快は止めようとして、手を止めた。
「ね。私が載せたい名前。……だから、消えないで」
まおの声は、早口じゃなかった。焦恋のときの速さじゃない。怖がっているときの、真ん中の速度だ。
快は箱を受け取り、ふたをそっと押さえた。まおの指先がかすかに震えているのが、箱越しに伝わる。
そこへ、カフェの表のシャッターがガタッと鳴った。外から声。
「まおー! いる? 今から話せる?」
舜爾の声だった。いつもより明るく、いつもより急いでいる。
まおがドアへ向かいかけて、振り返る。快の手の中にある箱を見る。次に、快の顔を見る。
「……舜爾さん、たぶん“勝つ方法”持ってる。上映会で、いい順番の枠、取りたい」
言い方だけは丁寧なのに、語尾がすでに走っていた。
快は頷いた。止めなかった。止めたら、まおの怖さがまた膨らむ気がしたからだ。
「行って。……帰り、散歩で話そう」
「うん。散歩は、する」
まおは箱を快に預けたまま、上着を掴んで走り出した。見た目だけは大人のジャケットの裾が、子どもみたいに跳ねる。
休憩室に残った快は、箱を机の上に置き、ふたを指で撫でた。中の紙が、まだ温かい気がする。
「協力:置いていかれる怖さ」
声にして、すぐ後悔した。蛍光灯の下で、ふたの「ありがとう」だけが、白く静かに光っている。




