第5話 真潤は信じない
五月上旬の金曜夜、二十時ちょうど。商店街の入口にある赤い提灯が、風に揺れて小さく鳴った。閉店前の店が出す湯気と、川のほうから来る湿った匂いが混ざり、歩く人の肩をそっと押す。
先に来ていた舜爾は、街灯の真下でスマホ用の小さな三脚を組み立てていた。ネジを締める音が、やけに真面目だ。資料の束は今日はない。代わりに、紙で作ったチェック表がクリップで留められている。
「二十時、集合。撮影一回目。遅れなし。……まおは?」
「提供:まだ」
快が言うと、舜爾が顔を上げる。
「その“提供”やめろ。尺が伸びる」
「尺は、後で縮めます」
「縮めるな。今日のルールは『意味を勝手に変えない』だ」
そこへ、足音が駆けてきた。
「ごめん! ごめんなさい! ……じゃない、遅れてない! ほら、二十時!」
まおが、息を切らしながら現れた。ジャケットは相変わらず大人っぽいのに、襟元が少しだけ曲がっている。手には、例の小さな箱。角がつぶれないように、両手で抱えていた。
「遅れてないって言いながら走るの、説得力あるな」
舜爾が言うと、まおが胸を張った。
「走っても、大人。……って言いたいけど、苦しい」
「協力:肺」
「やめろって!」
笑い声に混ざって、別の足音が近づいた。腕章をつけた真潤が、いつもの速さで歩いてくる。目だけで三脚とスマホと通行人の流れをチェックし、舜爾に指を一本立てた。
「通路、半分ふさがってる。三脚、ここじゃなくて、店の前の柱の内側」
「映りが——」
「映りより通行。今日の撮影許可、私が取って回ったんだよね?」
真潤の声は低い。舜爾が一度だけ口を開けて、閉じた。
快が三脚を持ち上げ、真潤の言う位置へ移した。柱の影に収めると、通る人の肩が三脚に当たらない。舜爾が黙って頷く。負けを認めたときの頷きだ。
「じゃあ、最初は、たい焼き屋さん。店主さん、紙、入れてくれた」
まおが小さく言う。指先が箱の角を撫でる。落としたくないときの癖だ。
たい焼き屋の前には、大きな“ありがとう箱”が置かれていた。段ボールに色紙を貼って、上に穴を開けただけの簡単な箱。なのに、その穴の周りがやけに丁寧に補強されている。誰かが何度も触った跡だ。
店主が、鉄板の前から顔を出した。腕に粉がついている。
「撮るんだっけ。まあ、いいよ。通る人の邪魔にならないなら」
「ありがとうございます!」
まおが深く頭を下げ、すぐに顔を上げた。笑顔を作ろうとして、口角がうまく上がらない。
舜爾がスマホの画面を見て、まおに指示を出す。
「立ち位置、ここ。箱は胸の高さ。メモは、本人が許可したやつだけ。読む前に一言、『誰に向けたありがとうか』を言う」
「わかった。……わかったけど、言うと、急に恥ずかしい」
「恥ずかしいのは映る。映るのは強い」
「演出しないで」
真潤が小さく刺す。舜爾が眉をひそめる。
「演出じゃない。順番だ」
「順番はいい。気持ちを急かすな」
快は二人の間に、さりげなくたい焼きの紙袋を置いた。店主が焼き上げたばかりの一個を、試しに、と差し出してくれたのだ。
「提供:たい焼き」
快が言うと、店主が笑った。
「それ、うちの看板に書いとく?」
「書いたら、まおが泣きます」
「泣かない! ……たぶん!」
舜爾が、笑いそうになる口元を押さえ、手を上げた。
「撮る。三、二、一」
まおが息を吸って、箱の前に立つ。大人っぽいジャケットの肩が、すこしだけ震えた。真潤が少し後ろで腕を組み、通行人の流れを見ている。快はカメラの外で、音の波形を頭の中に浮かべた。息が途切れる場所。言葉が詰まる場所。そこを切らないように。
「えっと……商店街のたい焼き屋さんの前から、です。今日は、ここに入ってた“ありがとう”を、一つだけ読ませてもらいます」
まおは、箱から折りたたまれた紙を取り出した。手のひらに載せると、紙が意外と温かい。鉄板の熱が移っているのかもしれない。
「『いつも、学校の帰りに迎えに来てくれて、ありがとう。ぼくは、ランドセルが重くても平気なふりをしてたけど、ほんとは助かってた』」
読み終えた瞬間、たい焼き屋の鉄板の音が一拍遅れて聞こえた。通行人の足音も、同じく一拍遅れる。
快の胸の奥に、行末の余白がひとつ浮かび上がった。重いふり。平気なふり。——誰かに頼らないまま、いちばん大事なところだけ隠すやつだ。
まおが続ける。
「『迎えに来るの、たぶん、大変なのに。ぼくのこと、置いていかないでくれて、ありがとう』」
声が少しだけ揺れた。敬語も崩れた。
「……以上です。書いてくれた子と、迎えに行った人が、今日もちゃんと会えますように」
舜爾が手を下げた。「カット」。短く言う。真潤が、腕を組んだまま、視線だけでまおを見た。止める顔じゃない。見守る顔だ。
店主が、鉄板の前からぽつりと漏らす。
「……ああ。あれ、うちの常連の子かもな。迎えは、じいちゃんだ」
まおが目を丸くして、快のほうを見る。快は小さく頷いた。勝手に変えない。切らない。残す。
「もう一回、撮れる?」
まおが言った。
「じいちゃんって言っていい? 店主さん、許可……」
「いいよ。本人は名前出すの嫌がるだろうけど、じいちゃんなら、たぶん照れて終わりだ」
「照れて終わり……」
まおが笑って、すぐに鼻をすすった。泣かないと言った口だ。
舜爾が言う。
「二回目、行ける。今の涙、使える」
「使うな」
真潤が即答した。
快はたい焼きの紙袋を半分に割って、まおの手に渡した。熱くて持ち替える。その動きで、涙が一つだけ落ちる前に止まった。
「甘いの、今。口に入れると、声が戻る」
「……快さん、たまに、急に頼もしい」
「提供:たい焼きの効果」
「だから!」
二回目の撮影は、もっと短くて、もっと素直だった。舜爾は終わったあと、画面を確認してから、真潤に小さく頭を下げた。
「……邪魔になってない?」
「なってない。……今のは、ちゃんと届きそう」
真潤の言い方が、ほんの少しだけ柔らかい。まおがそれを聞き逃さず、目尻を上げた。
片付けに入るころ、まおは小さな箱を開けて、メモ用紙を一枚取り出した。ペンの先が止まり、また動く。書き終えると、紙を丁寧に折った。
「それ、入れるの?」
快が聞くと、まおは首を振った。
「まだ。……“誰に向けたありがとうか”って言うの、今日やってみたら、思ったより重かった。だから、これ、次の金曜まで持つ」
「中身、何」
「内緒。試作だから」
まおは、箱を抱えて笑った。見た目だけは大人のジャケットの下で、胸がちゃんと上下している。焦ってない呼吸だ。
舜爾が時計を見て言う。
「次は、一週間後の金曜夜。二十時。次は、魚屋。……まお、来れる?」
「来る。遅れない。走らない」
「提供:宣言」
「快まで言うな!」
笑いが商店街の天井に吸い込まれていく。快は、たい焼きの甘さを舌の奥で確かめながら、カメラの外に残った一行の余白に、今夜の字を足した。
――提供:たい焼き。協力:迎えに来る人。
その字が、いつもより少しだけ大きく見えた。




