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散歩で拾った「箱」—エンディングロールは、ふたりで  作者: 輝


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第3話 焦恋って何ですか

 平日の夕方、快は会社のデスクで、編集ソフトのタイムラインを横に伸ばしていた。音声の波形が山と谷を繰り返し、人物の息づかいが画面の外まで伝わってくる。切るべき場所は分かる。分かるのに、切る手が止まる。


 この人の言葉は、ここからが本番だ。——そう思うと、余計な一秒が惜しくなくなる。逆に、焦ると余計な一秒が増える。音がズレる。字幕が一文字欠ける。誰も気づかないようで、ちゃんと残る。


 スマホが震えた。まおからの短いメッセージだ。


 「きょう、焦恋の話する。来て」


 快は「了解」とだけ返して、椅子の背もたれに背中を預けた。焦恋。初めて見る漢字の並びだ。焦る、恋。言葉の時点でもう息が切れている。


 十九時過ぎ、商店街のカフェに入ると、まおがカウンターの内側で、黒板に大きく二文字を書いていた。チョークがやけに勢いよく鳴る。


 「焦恋!」


 振り返ったまおは、ジャケットの肩を指でつまんで、きりっとした顔を作った。目だけが落ち着いていない。


 「見て。流行ってる。恋も、再生数も、早いほうが勝ち。初動が命」

 「恋を数字で語るの、店のメニュー表みたいですね」

 「メニュー表は売れなきゃ意味ないもん。快、分かるでしょ。編集もさ、最初の三秒で離脱するんでしょ?」

 「そうですけど。焦るとミスが増えるほうも、分かってます?」

 「ミス……?」

 「字幕の『ありがとう』が『ありかとう』になるとか」

 「それはさすがに……」

 「提供:ありかとう」

 「やめて! 私の動画が終わる!」


 まおはチョークを置き、スマホを掲げた。画面には短い動画が並んでいて、右上の数字がまるで点数のように増減している。


 「ねえ快。私、今のうちに、恋も、動画も、ちゃんと掴む。置いていかれたくない」

 「置いていかれたくないなら、走らないで歩くほうが——」

 「それ、前も言った。分かった。でもね、歩いてると、横から自転車が来るの!」

 「そのときは、左右確認しましょう」

 「真面目!」


 笑いながら言って、まおはふっと声を落とした。


 「……焦恋ってさ、苦しくなる前に、苦しくならないふりをするやつ」


 快は一度だけ、まおの手元に目を落とした。爪が短い。指先に粉砂糖の痕が残っている。忙しい日の証拠だ。


 「じゃあ、苦しくならない撮り方、考えましょう。焦らないのに、ちゃんと届くやつ」

 「ある?」

 「あります。商店街に、でっかい“ありがとう箱”があるでしょう」

 「あ。あれ! 福引の横の!」


 まおの目が、また光る。チャンスの光だ。


 閉店作業を終えた二人は、商店街の端にある案内所へ向かった。入口の横に、郵便ポストみたいな木箱が置かれている。側面に手書きで「ありがとう箱」。口のところに、色とりどりのメモがはみ出していた。


 まおは、快が預かっていた小さな箱を取り出し、並べてみせた。


 「こっちは持ち運び版。あっちは固定版。サイズの違い、かわいい」

 「比較対象が箱で合ってます?」

 「合ってる。恋も箱みたいなもんだし」

 「それは分かりません」


 まおが笑って、案内所の窓を叩く前に、横から声が差し込んだ。


 「ちょっと。撮るなら、先に許可」


 現れたのは、まおと同い年くらいの女だった。髪をきっちり結び、腕に商店街の腕章。目線が鋭いのに、足元のスニーカーはよく歩いた跡がある。


 「真潤!」

 「まお。……その人、誰」

 「快。編集。味方」

 「味方って言い方、軽い。善意をネタにすると、痛い目を見るよ」


 真潤は“ありがとう箱”を見て、眉をわずかに寄せた。まおは反射的に、箱の口を手で隠す。


 「ネタじゃないよ。朗読。ちゃんと“ありがとう”を届けるの」

 「言い方はいくらでも綺麗にできる。結果は、見られる側が決める」

 「じゃあ、見られる側に聞きましょう」


 快は、まおより一歩前に出て、案内所の窓口へ頭を下げた。


 「撮影の許可と、メモを読む許可を取りたいです。嫌なら、すぐやめます。名前も出しません」

 「……名前出さない?」

 「出していい方だけ。出し方も相談して。エンディングロールは、読める大きさで」


 最後の一言で、まおが小さく吹き出した。真潤はそれを見て、ため息を一つだけ落とす。


 「……まおがむちゃするの、止めても聞かないもんね」

 「聞くよ。たぶん」

 「たぶん、ね」


 案内所の担当者は、二人の様子を見て笑い、ルールを簡単に説明した。メモは本人が許可したものだけ。撮影は通行の邪魔にならない範囲。メモの内容は勝手に編集で意味を変えない。


 「変えません。編集は、切るけど、勝手に書き換えない」

 「切るのも、怖いけどね」

 「必要な一秒は残します」


 まおはその場で、商店街の店を一軒ずつ回ることにした。八百屋の店主は、最初は腕を組んでいたが、「メモは短くていい」と言うと、照れくさそうに紙を受け取った。魚屋の大将は「こういうの苦手だ」と言いながら、結局一番長く書いた。


 花屋の前では、若い店員が一度だけ目を伏せてから、「遅い時間でも寄ってくれる人へ」と書いた。まおはスマホを胸に抱え、快はその瞬間の呼吸が途切れないように、距離を詰めすぎない角度を選んだ。


 メモが集まるたび、小さな箱の中も少しずつ埋まっていく気がした。実際は紙を入れていないのに、手のひらの重さが変わる。


 最後に、真潤がメモ用紙を手に取った。ペン先が止まる。まおが何も言わずに待つ。快も息を止めない。


 真潤は一行だけ書いて、そっと紙を折った。


 「“ありがとう”って言うの、遅くなった人へ。……以上」

 「短い!」

 「長いと、バレる」


 まおは笑った。その笑いが、真潤の肩の力をほんの少し抜いた。


 そのとき、背後から軽い拍手が聞こえた。


 「いいじゃん。商店街、動いてるね」


 振り向くと、快の会社の同僚、舜爾が立っていた。スーツのまま、手には資料の束。いつもより髪が整っている。勝負の日の顔だ。


 「舜爾……なんでここに」

 「下見。六月の最終土曜夜、屋外上映会あるだろ。最優秀の枠、取りにいく」

 「最優秀?」

 「商店街の短編映像、一本だけ大きいスクリーンで流す。——勝負しない?」


 まおの目が、今度は別の光を映した。焦りと、期待と、負けたくない気持ちが一緒になった光。


 快は、資料の束と、まおのスマホと、手の中の小さな箱を同じ目線で見た。どれも軽そうに見えて、ちゃんと重い。


 「勝負って、誰と」

 「俺と。……それと、間に合わなかった自分と」


 舜爾は笑って、まおのほうを見た。


 「顔出し、得意そうだね。君、出てくれる?」

 「得意……かどうかは、見た目だけ。だけど、やる」

 「決まり。じゃ、協力して——いや、競っていこう」


 舜爾の言い直しに、まおが「今、言い直した」と指をさす。真潤が「ほらね、勝負好き」と小声で言う。


 快は頷いた。頷いたのに、胸の奥の空欄が、少しだけざわついた。


 ——エンディングロールに載せたい人へ。


 小さな箱の文字が、夜風の中でやけに鮮明だった。



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