第20話 エンディングロールは、ふたりで
六月最終土曜の夜。屋外上映会の拍手がまだ耳に残る川沿いで、まおは手すりにもたれたまま小箱のふたを持ち上げた。
ぱこ。
紙がこすれる、軽い音だった。けれど、胸の奥では、ずっと前から閉じられていた扉が開いたみたいに響いた。
中には、折りたたまれた小さなメモが一枚だけ入っていた。白い紙の端が、指先にひっかかる。まおは息を整え、夜風が紙を持っていかないように、両手で包んで開いた。
そこには、走り書きで短くこうあった。
——「エンディングロールに載せたい人へ。言えなかったら、歩きながら言う。」
「……これ、私が書いたんだ」
まおは笑いかけて、すぐ、笑いが引っ込んだ。自分の字が、今日の空気に追いつかない。指先が冷えて、紙がわずかに震える。
「快。……私さ」
川の水面が、街灯の光をほどいて流していく。遠くで、商店街の片づけの音が、小さく残っている。さっきまで拍手に包まれていたのが嘘みたいに、ここだけ静かだった。
「置いていかれるのが、怖かった」
まおは言い切ってから、口の中が乾くのを感じた。言う前は、もっとかっこよく言える気がしていたのに、出てきたのは、そのままの言葉だった。
「数字が上がると、安心するんだよ。見てくれてるって思えるから。でも、下がると、急に……誰もいないみたいで」
まおは拳を握って、ほどいた。爪が手のひらに食い込んで、痛みで今をつかめる。
「恋も同じだった。ほら、私、見た目だけは大人っぽくしてるくせに、焦ると敬語崩れるし。……ちゃんと好きになってるのに、早く答えが欲しくて、掴みにいって、空回りして」
まおは小箱を胸に押し当てた。紙の角が、柔らかく当たる。
「焦ってた。焦恋ってやつ。……それで、快がいつもみたいに一歩引いて笑うと、余計に怖くなった。いつでも、いなくなれる人の優しさだって、勝手に思っちゃった」
言い終わると、まおの目の奥が熱くなった。泣きたいのに、泣いたら負けみたいで、笑いでごまかそうとして、顔が変な形になる。
快はすぐに言葉を出さなかった。代わりに、小箱の側面を指でなぞった。薄い印字——「エンディングロールに載せたい人へ」。指先が、そこを確かめるみたいに止まる。
「俺も、逃げ道を残してた」
快は、そう言ってから、苦い顔で笑った。まおを慰める笑いじゃない。自分に言い訳しないための笑いだ。
「応援してる、って言葉、便利なんだよ。どこにでも置けて、きれいに見えて……でも、その分、隣に立たなくて済む」
まおは、首を振りかけて、止めた。止めたのは、快が続きを言おうとしているのが分かったからだ。
「地方の話、まだ生きてる」
快の声は小さかった。けれど、はっきりしていた。川の流れみたいに、途中で折れない声だった。
「支店の編集チーム、立ち上げてほしいって。明日までに返事しろって言われてた」
まおは唇を噛んだ。返事を聞きたいのに、聞いたらここが終わる気がして、怖い。
快は、まおの手の中の小箱を見た。箱は軽い。なのに、二人の間の空気は重い。重いからこそ、ここで動かさなきゃいけない。
「断る」
まおが顔を上げるより先に、快が言った。
「俺、ここで続けたい。……撮って、編集して、誰かの名前を並べて、最後に、自分の名前も置ける場所で」
快は一拍おいて、まおをまっすぐ見た。目が逸れない。逃げ道が消えるのが怖くて、でも逃げない目だった。
「まおの隣に、いたい」
その瞬間——
チリンチリンチリン!
背後から、自転車がベルを連打しながら通り抜けた。夜道の礼儀正しい警告のはずなのに、タイミングだけが最悪だった。
「今!?」
「今!?」
二人の声が、ぴたりと重なった。重なったあとで、二人とも自分の声にびっくりして、顔を見合わせる。
自転車の背中はもう遠い。ベルの余韻だけが、川風に運ばれて消えていった。
まおは、耐えきれず吹き出した。笑うと涙が出て、涙が出るとまた笑えて、ぐちゃぐちゃになる。快も、肩を揺らして笑った。さっきの拍手とは違う、二人だけの音だった。
「……でも、助かった」
「え?」
「今って言われると、変に構えなくて済む。……ありがと、自転車」
快が小声で言い、まおがまた笑う。笑いながら、まおは息を吸った。胸の奥の影が、少しだけ薄くなる。
「隣、って……何それ。ずるい」
「ずるい?」
「うん。応援より、ずっと……ずるい」
まおは小箱のふたを閉め、今度は自分から快の手に押しつけた。
「これ、返す。落としたの、私だし。……でもさ」
まおは川沿いの道を指さした。最初に走ってきた夜と同じ方向。だけど、同じじゃない。
「この箱、もう落とさない。置く場所、決めよう」
翌日の昼、商店街のカフェは、土曜の余韻をまだ引きずっていた。まおはカウンターの棚を一段片づけ、空いたところに小箱を置いた。紙の箱は、照明の下で少しだけ白く光る。
真潤が、エプロンの紐を結び直しながら覗き込む。
「それ、また変な名前つける気?」
「変って言うな。……『ミニありがとう箱』」
「普通だな」
「今は普通でいいの。誰でも入れていい。紙とペン、ここ。……店の人も、子どもも、通りすがりも」
快は棚の前に立ち、箱を軽く押して位置を整えた。仕事の癖で、水平を取る。
「協力:棚」
「提供:ボールペン」
「やめて、笑うから」
まおが言って、でも止めない。止めないのが、もう答えだった。
閉店後。六月の夜は、まだ涼しい。二人は川沿いへ歩き出した。今度は、走らない。追いかけない。歩幅を合わせる。
「ねえ、快」
「うん」
「焦ったら、言う」
「何て?」
「『今!?』って」
「それ、合図がうるさいな」
「自転車のベルよりは静か」
二人は笑い、手すりのところで立ち止まった。川の流れは変わらない。変わったのは、隣にいることを、言葉で確かめられるようになったこと。
快が、いつもの癖で小声を落とす。
「散歩:ふたり」
「協力:商店街」
「提供:夜風」
「出演:私たちの足」
まおは、快の袖をつかんだ。引く力は弱い。でも、離さない。
「エンディングロール、これで終わり?」
「いや。続きがある」
「続き?」
「……次の回、タイトル決めといて」
「急に丸投げ」
「制作:まお」
「編集:快」
「……共同制作って書いときな」
夜の散歩道に、二人の笑い声が転がっていった。置いていかれる怖さは、まだゼロにはならない。けれど、足音が並ぶたび、影は薄くなる。
歩く背中に、見えない文字が流れていく。
——散歩:ふたり。
——続く。




