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散歩で拾った「箱」—エンディングロールは、ふたりで  作者: 輝


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第11話 箱の中の手紙

 六月の最初の土曜、商店街の時計が二十二時を指したころ、カフェの照明は半分だけ落としてあった。まおはカウンターに肘をつき、白い封筒を置いたまま、指先で角をなぞっている。紙が古い。匂いも、今日の焼き菓子よりずっと前の時間を連れてくる。


 開ければいいのに、と頭は言う。けれど手が言うことを聞かない。笑ってしまえば軽くなる気がして、口だけが先に動いた。

 「これ、ドラマみたい。『運命の手紙』ってやつ?」

 声は明るい。明るいのに、封筒の上に落ちた自分の影が揺れている。


 スマホが震えた。画面には「真潤」の名前。

 『まだ店? 動画、送って』

 送れるわけがない。まおはスタンプで返す代わりに、短く打った。

 『封筒が出てきた。宛名が私』

 既読になって三秒。ドアの外で靴音が止まった。


 コン、コン。

 まおが戸を開けると、真潤が立っていた。手にはコンビニの袋。中身を見せるでもなく、まおの肩越しに封筒だけを見る。

 「……それ?」

 「うん、これ」

 「開けないの?」

 「開けるよ。今から。大人だから」

 言い切った瞬間、指が小さく震えた。真潤は何も言わず、袋から紙コップを一つ出してカウンターに置いた。温かい甘さの匂いがした。ホットココアだ。店のメニューにはない味。


 真潤は入口の鍵を内側から回し、ついでにのれんを裏返した。通りからは「閉店」に見える。誰にも見せない段取りだけが、やけに手際いい。


 「快、呼べば?」

 真潤が言った。まおは一瞬だけ目を泳がせて、すぐに笑う。

 「呼ばない。……って言ったら、嘘っぽい?」

 「うん」

 真潤は即答した。


 まおは観念して、快に短いメッセージを送った。

 『店にいる? 封筒が出てきた。宛名が私。ちょっと、怖い』

 送信してから十秒で既読がついた。返事は一行。

 『行く。鍵、開けといて』


 十五分後、扉の外で息が切れた音がした。まおが鍵を外すと、快が肩で呼吸しながら入ってくる。編集用のリュックを背負ったまま、髪が少し乱れている。

 「走った?」

 「……走った」

 快は言って、封筒を見た。まおの顔を見て、それからもう一度封筒を見る。どちらに手を伸ばすか迷って、結局、椅子を引いた。

 「隣、いい?」

 「いいよ。……見た目だけは大人だから」

 まおは言いながら、笑いの向こうで喉が詰まるのを誤魔化した。


 封筒の裏に、小さなメモが挟まっていた。古本屋の名刺と、短い手書き。

 『整理中に見つけました。宛名を動画で見覚えがあり、商店街の箱へ。古本屋「青い栞」 店主・磯田』

 「青い栞……あそこか」

 快が言う。商店街の端、夜でも灯りが漏れている店。まおは名刺の番号を押した。コール音が二回でつながる。


 『はい、青い栞です』

 「夜分にすみません。手紙を……箱に入れてくださった?」

 『ああ、まおさん。本人につながるとは思ってませんでした。動画、見てますよ。あの散歩のやつ』

 言われて、まおの耳が熱くなる。快が横で小さく頷いた。電話の向こうの店主は、淡々と続けた。

 『封筒は本の間に挟まってました。引き取った古い本の束の中です。差出人の名前は書いてなくてね。でも筆跡と紙の感じから、ずいぶん前のものです。勝手に開けるわけにもいかず、宛名だけが頼りでした』

 「ありがとうございます。……どうして箱に?」

 『店に貼り紙も考えたんですが、商店街の箱なら、誰かが必ず見ますから。箱って、意外と強いんですよ。捨てない人が多い』

 店主の声に、妙な説得力があった。快が小声で言う。

 「箱、強いって……」

 まおは電話を切り、名刺を封筒の下に敷いた。紙が紙を支えているみたいだった。


 開けよう、と言いかけて、まおの指が止まる。見た目だけは大人の顔が、鏡じゃなくてもわかるほど固い。快が隣で、封筒の端をそっと押さえた。

 「読んでいい?」

 「……私が読む。私が」

 まおは言いながら、指先で封を裂いた。紙が割れる音が店内に響く。小さな音なのに、胸の中で何かが大きく崩れた。


 便せんが二枚。文字は丁寧で、ところどころ線が揺れている。

 まおは一行目を見て、息を吸うのを忘れた。喉の奥が熱い。視界がにじむ。声が出ない。


 快が便せんを受け取り、静かに読み上げた。編集で鍛えた声ではなく、隣に座る人の声で。

 「『まおへ。郵便局の前で、出せないまま立ち尽くした。大人になれないまま、君にだけ大人を押しつけた』」

 まおの指が、膝の上で握りこぶしになる。笑う準備をしていた口が、震えに負ける。


 「『怒っていい。泣いていい。君の歩幅で歩いてほしい。誰かの拍手が遅れても、君の足音は消えない。……焦らなくていい』」

 その一文で、まおの肩が落ちた。見た目だけは大人の背中から、力が抜けていく。


 快は続けた。

 「『小さな箱に「ありがとう」と書いたら、言えない言葉を入れられると思った。入れたまま渡せなかった。君に渡せなかった分だけ、今も手が空いている。もし許せる日が来たら、君の箱には君の言葉を入れてほしい』」

 まおの涙が、止まらなかった。鼻で息を吸うと、ホットココアの甘さが胸に落ちてくる。泣きながら笑おうとして、むせた。

 「……っ、これ、私、今、笑うとこ?」

 「むせるとこ」

 快が言って、机の上の紙コップを少しだけまおのほうへ寄せた。手は触れない。触れないのに、距離だけが近い。


 そのとき、入口の方でかすかな音がした。振り向くと、扉の下に白い箱が置かれている。ティッシュだ。箱の上には何も書いてない。置いた人の姿もない。

 真潤の靴は、もう見えなかった。


 「……置き逃げ」

 まおがかすれ声で言うと、快の口元が少しだけ緩んだ。快はティッシュを一枚抜き、まおに渡した。自分の分は抜かない。先に相手の顔を拭く段取りだけが、やけに手際いい。


 便せんの最後まで読み終えたあと、店内に時計の秒針だけが残った。まおはティッシュの山を両手で抱えたまま、快の手の甲にそっと指を置いた。置いた指が、次の瞬間には握っていた。

 快の肩が小さく跳ねる。けれど、手は引かれない。


 まおは握ったまま、言った。

 「……ありがとう箱って、強いんだね」

 「うん。捨てない人が多いから」

 快が、さっきの店主の言葉をそのまま返した。


 まおは、快の手をもう一度ぎゅっと握り返した。すぐに、はっとして離した。まるで火に触れたみたいに、手のひらを胸に押し当てる。

 「……私、洗い物する。泣いたら、手がべたべた」

 言い訳が雑だ。快は笑わない。笑わずに、便せんをきれいに揃えた。折り目を合わせ、封筒に戻し、名刺も一緒に挟む。クレジットを整えるときと同じ手つきだ。


 まおが水道で顔を洗う音を聞きながら、快は小さく息を吐いた。空欄だった場所に、今夜の指の温度が入り込んでくる。だけど、その温度はまだ、名前になっていない。


 カウンターの端に置かれた小さな白い箱のふたの「ありがとう」が、やけに眩しかった。



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