第1話 散歩で拾った小さな箱
金曜の夜、都内の下町寄りの川沿いは、昼のにぎやかさが嘘みたいに静かだった。街灯の光が水面に細く伸びて、風がシャツの裾をひっぱる。二十一時を少し回ったころ、快は編集室の椅子に長く座っていた腰を、ようやく歩くことでほどいていた。
スマホの画面には、今日仕上げた映像のクレジット案が残っている。出演者、協力店、撮影機材、そして最後に、彼の作業名。文字は小さく、行の端っこに寄っていた。画面を消しても、行末の余白だけが頭に残る。——いつもそうだ。誰かの名前をきれいに並べるのは得意なのに、自分の分だけは空欄のまま放っておく。
歩道の脇、ベンチの足元で、手のひらサイズの箱が転がっているのが目に入った。白い紙製で、角が少しだけ潰れている。ふたの中央に、薄い文字で「ありがとう」。印刷のにおいと、夜の湿気が混ざる。
快はしゃがみ、指先でそっと拾い上げた。軽い。中身は空らしい。落とし物にしては妙にきれいで、どこかの店の試作品みたいだった。
「それ、返してもらえますか!」
背後から声が飛んできた。振り向くと、少し大きめのジャケットを着た女の子が、息を切らして立っていた。髪をまとめ、耳元のピアスが街灯にきらりと光る。見た目だけは大人の格好なのに、肩は小さく上下していて、言葉の出し方は焦っている。
「落としました。……っていうか、落としたかもしれなくて。いや、絶対落としたんですけど」
快は箱を胸の高さに持ったまま、相手の顔を確かめた。年は二十歳前後。頬が赤く、指先が冷えている。近くの商店街の方向から走ってきたのだろう、スニーカーのつま先に粉のような小麦が付いていた。
「これ、あなたの?」
「はい。……えっと、まおって言います。あの、開けました?」
「まだ。中は空っぽみたいだけど」
まおは、ほっとしたように笑って、すぐ慌てて口を押さえた。
「空っぽが大事なんです。まだ。試作で、えっと、内緒で、……だから落としたとか言えないっていうか」
「提供:言い訳」
快がつい口にすると、まおの眉がぴくっと動いた。
「え、なにそれ」
「すみません。癖で。クレジットみたいに喋るんです」
「変な人……。でも、今ちょっと助かった。『言い訳』って言われると、逆に落ち着く」
まおは箱を受け取ろうと手を伸ばし、途中で止めた。指先が小さく震えているのに気づいて、手を握り直す。大人みたいな顔を作ろうとして、口元だけがうまく笑えない。
「……落とすと、だめなんです。これ。拾われたら、恥ずかしいし」
「『ありがとう』って書いてあるのに?」
「だから恥ずかしいんです。感謝とか、言うの、照れるじゃないですか」
快は箱をしばらく見つめた。軽い箱だ。なのに、まおの肩に乗っている重さだけが、やけに伝わる。
「じゃあ、ここで返して終わりにしない」
「え?」
「落としたままにしたくないんでしょ。なら、落とさない方法に変えればいい。……一緒に守りましょう」
まおの目が丸くなった。驚きのあとに、警戒のような影が一瞬よぎり、すぐに消える。代わりに、息を吸う音が聞こえた。
「一緒に……って、どういう」
「歩きながら持つ。あなたが帰るまで。協力:夜風、みたいな感じで」
「またそれ!」
まおが笑った。笑い方が、さっきより少しだけ素直だ。
快は箱を片手に持ち、まおの歩幅に合わせて歩き出した。川の匂いが薄くなり、商店街の灯りが見えてくる。シャッターの前に並んだ小さな店の看板、閉店間際のカフェから漏れる甘い匂い。通りすがりの犬が鼻を鳴らして、二人の足元を横切った。
「協力:犬」
「そこは言わなくていい!」
まおが犬に小さく手を振り、すぐに快の手元を見る。箱のふたの上の「ありがとう」を指でなぞり、ためらいながら言った。
「これ、……誰でも入れられる箱にしたかったんです。商店街の店先にある、でっかい感謝の箱、見たことあります? あれ、好きで」
「木のやつ。メモがいっぱい入ってる」
「そう。それを、もっと小さくして、持ち歩けたら面白いかなって。……夜の散歩とかで、拾った『ありがとう』を集めるの、なんか、救われる気がして」
まおは言い終えてから、自分で恥ずかしくなったのか、頬を押さえた。見た目だけは大人のジャケットが、急に大きく見える。
快は答えを探すふりをして、箱の側面に目を落とした。ふたとは別の場所に、薄い印字がある。街灯の角度で、ようやく読めた。
「……これ、見て」
「なに?」
快が箱を回すと、まおは顔を近づけた。そこには、小さな文字でこう書かれていた。
――エンディングロールに載せたい人へ。
まおが瞬きを二回した。次に、短く息を吐いた。笑いともため息ともつかない音だった。
「……なにそれ。急に、映画みたい」
「急に、ですね」
快は、胸の奥の行末の余白が、少しだけ埋まる気配を感じた。名前を並べるだけじゃない。誰かの「載せたい」を預かる箱だ。まおの手が、箱の角をそっと押さえる。離さないように、落とさないように。
「ねえ。これ、……どうしよう」
「提供:これから」
「また言った! ……でも、うん。これから、だね」
商店街の灯りの下で、二人は同じ方向を向いて立った。川から吹く風が、箱のふたをかすかに鳴らす。小さな音が、次の一歩の合図みたいに聞こえた。




