霞ヶ関、目覚める
明治二十四年 五月十二日 午前八時十五分 内務省・政務課
冷たい朝霧が、瓦屋根の上に薄く残っていた。
それでも都の空は晴れていた。春の終わりにしては、陽光が強い。
内務省政務課の机上では、昨夜遅く届いた報告と、今朝の通達がすでに山をなし始めていた。
紙の匂いと墨の香りの中に、確かな熱気があった。
村岡は机に向かいながら、指先で電報の紙縁をなぞっていた。
そこには、滋賀県庁からの続報。津田三蔵の精神状態、取り調べにおける黙秘、そして――
「ロシア随行員アレクサンドロヴィチ・デ・グレーベ少将、今朝の供述にて『明確な殺意をもって斬撃した』と主張」
という一文があった。
「……状況が悪くなっている」
低くつぶやいた声に、近くにいた補佐官がうなずいた。
「政務次官より、本日中に外務省・警視庁・陸軍・宮内省と調整を進めよとの通達がありました。大臣は閣議で不在です。村岡殿、政務課での取りまとめをお願いします」
「無論だ。――各所へ連絡を」
村岡はすぐに立ち上がった。
手にはすでに、本日予定される動きの一覧がある。
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まず最初に向かうべきは、外務省。
昨夜、青木外相がロシア大使館へ第一報を入れた。返答はまだ戻っていないが、本日中に対外方針が定まる可能性が高い。
ついでに警視庁刑事部。津田三蔵の扱いについて、今後の裁判手続きの確認が急務。
精神鑑定の必要性が出てくる以上、「国内手続きの正統性」が問われることになる。
そして、宮内省。
侍従長・土方との昨夜の面会は、事実上の“譴責”だった。
本日はさらに、宮中と政府との意志疎通体制を固めなければならない。
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「村岡さん、内務省宛に一社から要請が。東京日日新聞の記者が、滋賀から戻ったばかりで“取材内容を公的確認したい”と――」
「断れ。“政府公式の一次発表はまだない”とだけ返せ」
「……承知しました」
言いながらも、伝令係の声にはわずかに躊躇があった。
それを背で聞きながら、村岡はすでに歩き出していた。
炎は、まだ紙面の上に過ぎない。
だが、もう少しで政局をも焼き尽くす。
それを消すのが、いまの自分の職務だ――。
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午前九時三十分、外務省玄関前。
村岡はすでに門をくぐっていた。
その手には、昨夜からのすべての報告、各省との往復記録、そして未だ開かれていない“外交の口火”を記す白紙の報告様式が挟まれていた。
今日一日、この白紙がどれほど黒く塗り潰されるか。
それで、日本の命運は決まる。
(――火は、もう地図の上にある)
(続く)




