九月の硯
明治二十四年 九月 三十日 夜 村岡邸 書斎
窓を開け放った書斎に、乾いた風が差し込んだ。
風が頁をめくり、硯にかけた布をそっと揺らす。
遠くで、子供たちの声。虫の音。
夏が確かに過ぎ去ったことを、肌と耳が知っていた。
村岡は机に向かい、筆を執っていた。
だが、その筆は、しばらく動いていない。
硯の墨はすでに薄く、筆先は乾きかけていた。
彼の前には、新聞の一片が伏せられている。
「本日、津田三蔵、東京監獄にて死亡」
淡々とした文面。だが、それが報じる死は、彼の胸に刺さっていた。
村岡は静かに、筆を置いた。
そして、ふと硯の面を見つめた。
九月。空は澄み、空気は冴える。
けれどこの硯に落とされる墨は、妙に重く感じられた。
「……裁きとは、何であったか」
ぽつりと、誰にも聞かせぬような声で呟く。
あの男は、死んだ。
裁判所が命じたのではない。
病が、命を閉じた。
獄中にて、ひとり、声もなく。
(刑に処すべき罪人が、刑を待たずして死んだ――)
それは、理の喪失か、それとも救いだったのか。
いや、違う。
生きた罪人を、法により裁き、その果として刑に服させる。
それが「国の理」としての司法の姿であったはずだ。
だが、この男はそれをすり抜けた。
「死んでしまえば、もう“罪”には届かぬ……」
呟いたその声に、怒りはなかった。
あるのは、言葉にするのもためらわれるような空虚だった。
机の上には、未だ返事を書いていない私信がある。
封筒の端には見覚えのある筆跡――川辺の名。
「言葉を綴るというのは、時に、何も応えられぬことと等しいのかもしれぬな……」
村岡は立ち上がった。
硯を静かに布で拭い、乾いた筆を盆に戻す。
窓の外では、木の葉が一枚、音もなく落ちた。
それに気づいたわけではないのに、村岡はふと、空を見上げた。
日が傾いている。秋はもう深く入り込んでいる。
「……筆を置こう」
呟きの中に、決意はなかった。
ただ、今は言葉が届く場所が、もう残されていないという静かな確信があった。
九月の硯は、今日はもう墨を吐かぬまま、蓋をされる。
葉が落ちるように。声が届かぬように。
そして時は、静かに、次の頁をめくっていく――
(了)




