報せ
明治二十五年 九月三十日 内務省 執務室
日中とは思えぬ薄曇りの空だった。
窓の外の庭木も、どこか埃をかぶったように沈んで見える。蝉の声さえ、どこか遠ざかったように感じられた。
村岡は、机に向かっていた。
手元の書類はまだ途中で、筆も進んでいない。
扉が軽くノックされる。
「失礼いたします」
若い書記官が、封を切られていない電報の紙片を載せた盆を持って入ってきた。
村岡は顔を上げず、右手を差し出す。
受け取った紙を開き、数行の文字を目で追った。
本日 津田三蔵 獄中ニテ死亡
持病ノ悪化ニ依ルモノト見ラレル
詳細追テ報告ス
読み終えた村岡は、無言のままそれを裏返した。
机の隅に置き、しばし身を固めるように座っていた。
書記官が気配を伺ったが、村岡は「もうよい」と短く言っただけだった。
戸が閉じられ、再び室内には静けさが戻った。
蝉の声がまた近くなったように思えた。
村岡は、しばらくしてようやく立ち上がる。
戸棚の中から黒い漆の煙草盆を取り出し、一本の刻み煙草を手に取る。
しかし、火をつけないまま、それを指に挟んでぼんやりと眺めた。
津田三蔵。
刃を振るったその日から、あらゆる想念が彼をめぐって渦巻いた。
憤怒、嘲笑、猜疑、同情。そして政治の思惑。
それらのすべてを通り抜け、いま届いたのはただの報せだった。
──死んだ。獄中で、静かに。
「結局……ここで終わったか」
声は、誰に届かせるでもなく、室内に落ちていった。
あの時、判決が下された日──
児島惟謙が言葉少なに送った視線を、今でも覚えている。
裁かれるべきものは津田だけでなく、世論であり、制度であり、あるいは国の成熟そのものだったのかもしれない。
あの日から、いくつかの文書が外務省からまわってきた。
「外交的配慮」「対露関係上の圧力」「国際的印象」──どれも言葉だけが肥大した紙だった。
だが、あの男の死は、誰の顔色でもなく、誰かの満足でもなく、ただひとつの結末として静かに訪れた。
村岡はふと、煙草を元の盆に戻した。
火をつける気が、失せていた。
彼は椅子に戻り、再び机に向かう。
だが筆を持つ手は、なかなか紙の上に降りなかった。
津田三蔵という人間に、果たして国が何を教えられたのか──
それをいま、誰に尋ねても、きっと答えは返らないだろう。
その報せは、ただ一枚の電文でありながら、
一つの時代の澱のように、胸に滓を残していた。
*
明治二十四年九月 三十日 読売新聞 編集部にて
その報せは、午前の雑務がひと段落したころ、机の上に滑り込んできた。
「津田三蔵、昨夜未明、獄中にて死亡」
それだけの一行。
だが、その短い文面が持つ重量は、川辺の胸に、ずしりと落ちた。
しばらく、紙を指でなぞる。
墨が乾いた質感が、皮膚の感覚に残る。
その死が、ただの“報せ”であってよいのか、わからなかった。
──裁かれる前に、死んだのか。
机の引き出しから煙草を取り出し、火をつけた。
燃える葉の匂いが、部屋にゆっくりと満ちていく。
開け放たれた窓からは、秋の風が揺れていた。
あの裁判が、どれだけの人間を巻き込み、どれだけの神経をすり減らせてきたか──
新聞は連日紙面を割き、各国の目も厳しく光った。
児島惟謙の判決、政府の思惑、世論の波。
すべては「正しく裁く」ためにあったはずだった。
だが、結末はこの一枚の紙切れ。
死刑判決でも、減刑でもなく、ただ「死亡」。
生きた罪人を、社会の意思として裁く──それが死刑という“秩序”だ。
だが、誰にも裁かれず、ただ獄の中で朽ちる死に、果たして“意味”はあるのか。
同じ死でも、それはまるで違うものだ。
「……楽になったのは、誰だ?」
津田か? 司法か? 政府か? それとも、この国か。
川辺は煙をふかしたまま、何も答えられなかった。
“あの男”が死んだとて、国が癒えるわけではない。
むしろ、裁きを完遂できなかったことに、どこか澱のようなものが残る。
生きていれば──
児島が読み上げたあの無期徒刑は、歴史の一章として刻まれていた。
だが今は、誰も彼もが、どこか口を閉ざしている。
まるで、この結末を望んでいたかのように。
いや、違う。
川辺は心の奥で、声にならぬ反論を抱いた。
望んでなどいない。
「……俺たちは何を書いてきたんだ?」
川辺はぽつりと呟いた。
あれほど紙面を割き、世論を煽り、時に沈めた。
だが、最後に待っていたのは“死”という、報じるにすら値しない無言の終幕だった。
──裁きの言葉も、正義の形も、全てが追いつかぬまま終わった。
彼は新聞記者だった。
言葉を連ね、声なき声を紙に載せてきた。
だが、この死に、果たしてどんな見出しがある?
「……これじゃあ、書く言葉がないじゃないか」
「死なせるために、あれだけの法廷を開いたんじゃない。生きたまま、裁くためだったんだ」
口にした瞬間、川辺の喉に、乾いた苦さが走った。
それでも、そう言わずにはいられなかった。
法とは何だ。
人を裁くというのは、どこからが“始まり”で、どこが“終わり”なのか。
窓の外に視線を投げる。
庭先の木が揺れ、枯れかけた葉が一枚、ふっと落ちた。
津田三蔵という男が、この国の歪みを抱えていたとしても──
その歪みが、何一つ明かされないまま、死んで終わることに、何の意味がある。
しばらくして、川辺は煙草を灰皿に押しつけた。
指先が微かに震えていた。
(続く)




