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刑吏の刃  作者: 長谷川慶三
第五章 審理の地平
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報せ

 明治二十五年 九月三十日 内務省 執務室


 日中とは思えぬ薄曇りの空だった。

 窓の外の庭木も、どこか埃をかぶったように沈んで見える。蝉の声さえ、どこか遠ざかったように感じられた。


 村岡は、机に向かっていた。

 手元の書類はまだ途中で、筆も進んでいない。


 扉が軽くノックされる。

「失礼いたします」

 若い書記官が、封を切られていない電報の紙片を載せた盆を持って入ってきた。


 村岡は顔を上げず、右手を差し出す。

 受け取った紙を開き、数行の文字を目で追った。


 本日 津田三蔵 獄中ニテ死亡

 持病ノ悪化ニ依ルモノト見ラレル

 詳細追テ報告ス


 読み終えた村岡は、無言のままそれを裏返した。

 机の隅に置き、しばし身を固めるように座っていた。


 書記官が気配を伺ったが、村岡は「もうよい」と短く言っただけだった。

 戸が閉じられ、再び室内には静けさが戻った。


 蝉の声がまた近くなったように思えた。


 村岡は、しばらくしてようやく立ち上がる。

 戸棚の中から黒い漆の煙草盆を取り出し、一本の刻み煙草を手に取る。

 しかし、火をつけないまま、それを指に挟んでぼんやりと眺めた。


 津田三蔵。

 刃を振るったその日から、あらゆる想念が彼をめぐって渦巻いた。

 憤怒、嘲笑、猜疑、同情。そして政治の思惑。


 それらのすべてを通り抜け、いま届いたのはただの報せだった。

 ──死んだ。獄中で、静かに。


「結局……ここで終わったか」


 声は、誰に届かせるでもなく、室内に落ちていった。


 あの時、判決が下された日──

 児島惟謙が言葉少なに送った視線を、今でも覚えている。

 裁かれるべきものは津田だけでなく、世論であり、制度であり、あるいは国の成熟そのものだったのかもしれない。


 あの日から、いくつかの文書が外務省からまわってきた。

「外交的配慮」「対露関係上の圧力」「国際的印象」──どれも言葉だけが肥大した紙だった。

 だが、あの男の死は、誰の顔色でもなく、誰かの満足でもなく、ただひとつの結末として静かに訪れた。


 村岡はふと、煙草を元の盆に戻した。

 火をつける気が、失せていた。


 彼は椅子に戻り、再び机に向かう。

 だが筆を持つ手は、なかなか紙の上に降りなかった。


 津田三蔵という人間に、果たして国が何を教えられたのか──

 それをいま、誰に尋ねても、きっと答えは返らないだろう。


 その報せは、ただ一枚の電文でありながら、

 一つの時代の澱のように、胸におりを残していた。


            *


 明治二十四年九月 三十日 読売新聞 編集部にて


 その報せは、午前の雑務がひと段落したころ、机の上に滑り込んできた。


「津田三蔵、昨夜未明、獄中にて死亡」

 それだけの一行。

 だが、その短い文面が持つ重量は、川辺の胸に、ずしりと落ちた。


 しばらく、紙を指でなぞる。

 墨が乾いた質感が、皮膚の感覚に残る。

 その死が、ただの“報せ”であってよいのか、わからなかった。


 ──裁かれる前に、死んだのか。


 机の引き出しから煙草を取り出し、火をつけた。

 燃える葉の匂いが、部屋にゆっくりと満ちていく。

 開け放たれた窓からは、秋の風が揺れていた。


 あの裁判が、どれだけの人間を巻き込み、どれだけの神経をすり減らせてきたか──

 新聞は連日紙面を割き、各国の目も厳しく光った。

 児島惟謙の判決、政府の思惑、世論の波。

 すべては「正しく裁く」ためにあったはずだった。


 だが、結末はこの一枚の紙切れ。

 死刑判決でも、減刑でもなく、ただ「死亡」。


 生きた罪人を、社会の意思として裁く──それが死刑という“秩序”だ。

 だが、誰にも裁かれず、ただ獄の中で朽ちる死に、果たして“意味”はあるのか。


 同じ死でも、それはまるで違うものだ。


「……楽になったのは、誰だ?」


 津田か? 司法か? 政府か? それとも、この国か。


 川辺は煙をふかしたまま、何も答えられなかった。


“あの男”が死んだとて、国が癒えるわけではない。

 むしろ、裁きを完遂できなかったことに、どこか澱のようなものが残る。


 生きていれば──

 児島が読み上げたあの無期徒刑は、歴史の一章として刻まれていた。

 だが今は、誰も彼もが、どこか口を閉ざしている。

 まるで、この結末を望んでいたかのように。


 いや、違う。

 川辺は心の奥で、声にならぬ反論を抱いた。

 望んでなどいない。


「……俺たちは何を書いてきたんだ?」


 川辺はぽつりと呟いた。


 あれほど紙面を割き、世論を煽り、時に沈めた。

 だが、最後に待っていたのは“死”という、報じるにすら値しない無言の終幕だった。


 ──裁きの言葉も、正義の形も、全てが追いつかぬまま終わった。


 彼は新聞記者だった。

 言葉を連ね、声なき声を紙に載せてきた。

 だが、この死に、果たしてどんな見出しがある?


「……これじゃあ、書く言葉がないじゃないか」


「死なせるために、あれだけの法廷を開いたんじゃない。生きたまま、裁くためだったんだ」


 口にした瞬間、川辺の喉に、乾いた苦さが走った。

 それでも、そう言わずにはいられなかった。


 法とは何だ。

 人を裁くというのは、どこからが“始まり”で、どこが“終わり”なのか。


 窓の外に視線を投げる。

 庭先の木が揺れ、枯れかけた葉が一枚、ふっと落ちた。


 津田三蔵という男が、この国の歪みを抱えていたとしても──

 その歪みが、何一つ明かされないまま、死んで終わることに、何の意味がある。


 しばらくして、川辺は煙草を灰皿に押しつけた。


 指先が微かに震えていた。


(続く)


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