判決言い渡し
明治二十四年 六月二日 大審院刑事法廷
法廷に沈黙が満ちていた。
蝋燭ではなく、開け放たれた高窓から差す朝の光が、厳かな場の空気を真っ直ぐに照らしていた。
木槌の音もなく、ただ裁判長の咳払い一つで、空気が切り替わる。
児島惟謙が正面を見据え、静かに口を開いた。
「被告人 津田三蔵」
一拍の間を置き、言葉を続ける。
「貴殿は、明治二十四年五月十一日、訪日中のロシア帝国皇太子、ニコライ・アレクサンドロヴィチ殿下に対し、凶器を用いて加害を試み、殿下に傷害を負わせた。
本件は、国家の外交関係に重大な影響を及ぼしうる行為であり、刑法第百十六条に照らし、極めて重大なる犯罪と認められる」
傍聴席に、かすかな衣擦れの音。誰も声を上げる者はいない。
児島の声は変わらぬ調子で続いた。
そこには激情も嘆きもなく、ただ国家の司法としての「言葉」があった。
「本裁判所は、慎重に審理を重ね、証拠および弁護側の主張を総合し、以下の通り判決を下す」
そして──
「被告人 津田三蔵を、無期徒刑に処す」
言葉が落ちた瞬間、法廷はひと呼吸、沈黙した。
それから、ごく小さく、ペン先の音と、紙をめくる衣の音が続いた。
津田は動かない。表情もない。
弁護人・佐藤は、一度だけ瞼を閉じたが、それ以上は何も言わなかった。
児島は、最後にもう一度、前を見据え、簡潔に言い添えた。
「本判決は、法に基づき、慎重なる審理を経て下されたものである。
これにより本件の審理は終了とする」
その声もまた、余韻を残さなかった。
ただ、記録者の筆が走り、法廷の時間は確かに先へと進んでいた。
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明治二十四年六月二日 午後 内務省 村岡 執務室
硝子戸の外に、初夏の陽が傾きかけていた。
役所の廊下にはまだ職員の足音があり、誰かが開けた扉の先から紙の擦れる音が聞こえる。
村岡は執務室の窓際に立っていた。
薄い灰色のスーツの袖口に、静かに光が差している。
机の上には、さきほど届けられたばかりの電報が一枚、折りたたまれて置かれていた。
──「津田三蔵、無期徒刑」
それだけだった。
宣告されたのは朝。彼の手元に届いたのは、昼をすぎてからだった。
「……あの男の“正気”が、法のもとに認められたというわけか」
誰に聞かせるでもなく、ぽつりと呟く。
その声に、怒りも安堵もなかった。ただ、少しばかりの疲労がにじむ。
机に置かれたままの、外務省 石井貴太郎からの私信。
返事を書くことは──結局しなかった。
石井の言葉は、外務の机上では“圧”と見えた。
だが村岡にとって、それはあまりに粗く、そして即物的すぎた。
「外務が口を出すまでもなかった……あるいは、出すべきではなかったのだ」
彼はそれでも迷っていた。
私信に返信をしなかった自分の態度が、臆病だったのか、それとも潔癖だったのか──
いや、どちらでもない。
ただ、自分はあの土俵に立つべきではないと考えた。
それが、精一杯の距離だった。
窓の外、赤坂の街が静かに色を落とし始める。
蝉の声はまだない。だが、この夏の熱は、きっと長く尾を引くだろう。
村岡は背筋を伸ばし、軽く咳払いをしてから、電報を文箋の間に挟んだ。
その手つきは丁寧で、どこか祈るようでもあった。
「どこまでも法に忠実な裁きであったのなら、もう何も言うまい」
そう言い終えると、村岡はようやく机に腰を下ろした。
何事もなかったように、外務日誌の一枚目を繰る。
この一件が外交に遺恨を残すのか、それとも“処置済み”として記録されるのかは、
もはや彼の手の及ばぬところだった。
だが少なくとも、ひとつの判断が法の場でなされた。
それだけは、信じていいと彼は思った。
夕陽が、硝子の端を淡く金に染めていた。
(続く)




