表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
刑吏の刃  作者: 長谷川慶三
第五章 審理の地平
56/58

判決言い渡し

 明治二十四年 六月二日 大審院刑事法廷


 法廷に沈黙が満ちていた。


 蝋燭ではなく、開け放たれた高窓から差す朝の光が、厳かな場の空気を真っ直ぐに照らしていた。

 木槌の音もなく、ただ裁判長の咳払い一つで、空気が切り替わる。


 児島惟謙が正面を見据え、静かに口を開いた。


「被告人 津田三蔵」


 一拍の間を置き、言葉を続ける。


「貴殿は、明治二十四年五月十一日、訪日中のロシア帝国皇太子、ニコライ・アレクサンドロヴィチ殿下に対し、凶器を用いて加害を試み、殿下に傷害を負わせた。

 本件は、国家の外交関係に重大な影響を及ぼしうる行為であり、刑法第百十六条に照らし、極めて重大なる犯罪と認められる」


 傍聴席に、かすかな衣擦れの音。誰も声を上げる者はいない。


 児島の声は変わらぬ調子で続いた。

 そこには激情も嘆きもなく、ただ国家の司法としての「言葉」があった。


「本裁判所は、慎重に審理を重ね、証拠および弁護側の主張を総合し、以下の通り判決を下す」


 そして──


「被告人 津田三蔵を、無期徒刑に処す」


 言葉が落ちた瞬間、法廷はひと呼吸、沈黙した。

 それから、ごく小さく、ペン先の音と、紙をめくる衣の音が続いた。


 津田は動かない。表情もない。

 弁護人・佐藤は、一度だけ瞼を閉じたが、それ以上は何も言わなかった。


 児島は、最後にもう一度、前を見据え、簡潔に言い添えた。


「本判決は、法に基づき、慎重なる審理を経て下されたものである。

 これにより本件の審理は終了とする」


 その声もまた、余韻を残さなかった。

 ただ、記録者の筆が走り、法廷の時間は確かに先へと進んでいた。


 ⸻


 明治二十四年六月二日 午後 内務省 村岡 執務室


 硝子戸の外に、初夏の陽が傾きかけていた。

 役所の廊下にはまだ職員の足音があり、誰かが開けた扉の先から紙の擦れる音が聞こえる。


 村岡は執務室の窓際に立っていた。

 薄い灰色のスーツの袖口に、静かに光が差している。

 机の上には、さきほど届けられたばかりの電報が一枚、折りたたまれて置かれていた。


 ──「津田三蔵、無期徒刑」


 それだけだった。

 宣告されたのは朝。彼の手元に届いたのは、昼をすぎてからだった。


「……あの男の“正気”が、法のもとに認められたというわけか」


 誰に聞かせるでもなく、ぽつりと呟く。

 その声に、怒りも安堵もなかった。ただ、少しばかりの疲労がにじむ。


 机に置かれたままの、外務省 石井貴太郎からの私信。

 返事を書くことは──結局しなかった。


 石井の言葉は、外務の机上では“圧”と見えた。

 だが村岡にとって、それはあまりに粗く、そして即物的すぎた。


「外務が口を出すまでもなかった……あるいは、出すべきではなかったのだ」


 彼はそれでも迷っていた。

 私信に返信をしなかった自分の態度が、臆病だったのか、それとも潔癖だったのか──


 いや、どちらでもない。

 ただ、自分はあの土俵に立つべきではないと考えた。

 それが、精一杯の距離だった。


 窓の外、赤坂の街が静かに色を落とし始める。

 蝉の声はまだない。だが、この夏の熱は、きっと長く尾を引くだろう。


 村岡は背筋を伸ばし、軽く咳払いをしてから、電報を文箋の間に挟んだ。

 その手つきは丁寧で、どこか祈るようでもあった。


「どこまでも法に忠実な裁きであったのなら、もう何も言うまい」


 そう言い終えると、村岡はようやく机に腰を下ろした。

 何事もなかったように、外務日誌の一枚目を繰る。


 この一件が外交に遺恨を残すのか、それとも“処置済み”として記録されるのかは、

 もはや彼の手の及ばぬところだった。


 だが少なくとも、ひとつの判断が法の場でなされた。

 それだけは、信じていいと彼は思った。


 夕陽が、硝子の端を淡く金に染めていた。


(続く)


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ