揺らぎ
明治二十四年 六月一日 夜 児島惟謙 私邸にて
夜半、蝋燭の芯がぱち、と音を立てた。
光のゆらめきが、文机と、その前に座る男の横顔をやわらかく照らす。
児島惟謙は、筆を置いたまま、しばし身じろぎもしなかった。
窓の外からは、遠く犬の声が聞こえる。
昼間の熱が残る室内に、書斎特有の紙と墨の匂いがじんわりとこもっていた。
机の上には、数枚の判決草案。
そのうちの一枚には、「死刑」の文字が記されていた。
児島はそれを見つめながら、ふうと長く息を吐いた。
「……裁く、ということは、決して慣れるものではないな」
独り言ともつかぬ声が、帳の内に溶けていった。
津田三蔵。
ロシア帝国の皇太子に刃を向けた男。
それだけで、世は最も重い刑を求める。
それは知っている。
だが──
「これは本当に、“報い”か? それとも、“処置”か……」
児島は、手元の草案を静かに取り、書き損じた数枚とともに脇に寄せた。
新たな紙を取り、墨を含ませた筆を持つ。その筆先が、微かに震えた。
彼の目の奥には、津田の虚ろな視線と、佐藤弁護人の声が交錯していた。
「正気である」と繰り返した被告。
その正気の中にある、常軌を逸した世界。
決して誰かに命じられたものではなく、
歪んだ義憤と孤独が、自らをそこに投じさせた。
「この男に、“死”は何を教えるのか」
児島は筆を止めた。
それは司法の場で問うべきことではない。
けれど──それでも考えてしまう。
官邸筋の密使が残した含み。
新聞の一面に踊る「処断急げ」の活字。
だが、下すのは、あくまで“法”に基づく刑だ。
この国において、罪と刑は秩序のためにある。
誰かの顔色で決まるものではない。
それを忘れた時、司法はただの道具に堕ちる。
この判決が、司法の独立を証すことになる。
政府に、世論に、外国に、何を言われようとも、
法の秩序はここにあると、見せねばならない。
けれど、
それが人ひとりの命を絶つことと、いつから等価になったのか。
ふと、蝋燭の灯が揺らいだ。風はないはずだ。
それでも微かな気流が、机上の紙の端をめくった。
児島は静かに筆を走らせる。
しんとした部屋に、墨の擦れる音だけが残った。
児島はそれをしばし見つめた。
顔の表情は変わらない。けれど、指先の力がわずかに抜けていた。
「これで……いい」
誰も答えはくれない。
だがこの紙は、翌朝、裁判長席から読み上げられる。
国の法として、記録される。
児島は筆を置き、そっと目を閉じた。
どこかで、雨のにおいがした。
(続く)




