表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
刑吏の刃  作者: 長谷川慶三
第五章 審理の地平
55/58

揺らぎ

 明治二十四年 六月一日 夜 児島惟謙 私邸にて


 夜半、蝋燭の芯がぱち、と音を立てた。

 光のゆらめきが、文机と、その前に座る男の横顔をやわらかく照らす。


 児島惟謙は、筆を置いたまま、しばし身じろぎもしなかった。

 窓の外からは、遠く犬の声が聞こえる。

 昼間の熱が残る室内に、書斎特有の紙と墨の匂いがじんわりとこもっていた。


 机の上には、数枚の判決草案。

 そのうちの一枚には、「死刑」の文字が記されていた。


 児島はそれを見つめながら、ふうと長く息を吐いた。


「……裁く、ということは、決して慣れるものではないな」


 独り言ともつかぬ声が、帳の内に溶けていった。


 津田三蔵。

 ロシア帝国の皇太子に刃を向けた男。

 それだけで、世は最も重い刑を求める。

 それは知っている。


 だが──


「これは本当に、“報い”か? それとも、“処置”か……」


 児島は、手元の草案を静かに取り、書き損じた数枚とともに脇に寄せた。

 新たな紙を取り、墨を含ませた筆を持つ。その筆先が、微かに震えた。


 彼の目の奥には、津田の虚ろな視線と、佐藤弁護人の声が交錯していた。


「正気である」と繰り返した被告。

 その正気の中にある、常軌を逸した世界。

 決して誰かに命じられたものではなく、

 歪んだ義憤と孤独が、自らをそこに投じさせた。


「この男に、“死”は何を教えるのか」


 児島は筆を止めた。

 それは司法の場で問うべきことではない。

 けれど──それでも考えてしまう。


 官邸筋の密使が残した含み。

 新聞の一面に踊る「処断急げ」の活字。


 だが、下すのは、あくまで“法”に基づく刑だ。

 この国において、罪と刑は秩序のためにある。

 誰かの顔色で決まるものではない。

 それを忘れた時、司法はただの道具に堕ちる。


 この判決が、司法の独立を証すことになる。

 政府に、世論に、外国に、何を言われようとも、

 法の秩序はここにあると、見せねばならない。


 けれど、

 それが人ひとりの命を絶つことと、いつから等価になったのか。


 ふと、蝋燭の灯が揺らいだ。風はないはずだ。

 それでも微かな気流が、机上の紙の端をめくった。


 児島は静かに筆を走らせる。


 しんとした部屋に、墨の擦れる音だけが残った。


 児島はそれをしばし見つめた。

 顔の表情は変わらない。けれど、指先の力がわずかに抜けていた。


「これで……いい」


 誰も答えはくれない。

 だがこの紙は、翌朝、裁判長席から読み上げられる。

 国の法として、記録される。


 児島は筆を置き、そっと目を閉じた。

 どこかで、雨のにおいがした。


(続く)


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ