最終弁論 ニ
佐藤周一の声が、再び法廷に響いた。
先ほどの静かな語り口とは打って変わって、言葉には確かな芯があった。
あくまで冷静に、だが訴えるべきことを一歩も引かぬ意思を携えて。
「……法の下において、罪と罰は公平に量られるべきであります。
ですが、私たちが“公平”と信じるその天秤は、果たして、どこまで真に中立でしょうか」
傍聴席が微かにざわめく。
官吏や外交筋の者たちが顔を上げ、互いに視線を交わす。
「津田三蔵は、正気であると自ら言いました。
弁護人として私は、彼の言葉を否定するつもりはありません。
むしろ──彼の中にあったのは、狂気よりも、孤独と絶望の果てに形をなした“信念”だったのではないかと感じております」
佐藤は言葉を区切り、静かに手元の書面を畳んだ。
「この事件が、単なる凶行であれば、話は簡単です。
だが、皆さま。あの刃が振るわれた場所を、時を、状況を、どうか思い出していただきたい。
皇太子殿下──いや、ロシア帝国の皇太子を傷つけたこの行為は、確かに国際関係に大きな傷をもたらしました。
しかしこの裁判が扱うべきは、国家の面目ではなく、津田三蔵という一人の人間の行為であります」
児島惟謙は黙してそれを聞く。
筆先はわずかに動いているが、顔には表情らしいものがない。
ただ、深く潜るようなまなざしで佐藤を見つめていた。
「もし、彼の行為が誰かの教唆によるものであったなら、私たちはその背後に潜む影を追わねばならない。
だが、そうではない。誰に命じられたのでもない。
ただ一人で、“国を思う”と信じ、その信仰に似た情熱で突き進んだ──」
佐藤は言葉を止め、津田を見た。
津田は微動だにせず、ただ前を見つめていた。
「──私たちの社会は、このような孤独な熱に、どれほど無関心だったか。
このような思考の断絶を見過ごしてきたのではないか。
これは、個人の責だけではありません。社会が生んだ裂け目の中に、津田は落ちていったのです」
一人の記者が、静かに万年筆を止めた。
その隣で、官僚風の男が身じろぎもせず、目を伏せていた。
「罪に対して、罰は避けられません。
しかし、この国の理性が、ただ『処罰』という行為にだけ安堵してしまえば、同じ悲劇は再び訪れましょう」
声が静かに落ちる。
「弁護人として、私が求めるのは寛大なる裁きです。
それは津田三蔵を赦すことではありません。
彼の行為の背後にあった、時代の断層、その深さを見つめる機会を失わぬために──
どうか、この国の法廷が、理性の灯火であり続けんことを」
佐藤は深く頭を下げた。
その場には拍手も感嘆もなかった。
ただ、空気が凪いだように、全員の胸に余韻が沈殿した。
児島惟謙は静かに視線を落とし、硯に筆を置いた。
誰にも見えぬまま、ふと眼を閉じた。
その刹那、裁判官たちの背後の高窓から、強い日差しが差し込んだ。
明るさは、静謐のなかで白々と、壇上の全てを照らしていた。
津田は顔を上げなかった。
終わったのは弁論だけだった。
だが、誰もが、この場が裁きであると同時に、ひとつの祈りの場でもあったことを感じていた。
(続く)




