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刑吏の刃  作者: 長谷川慶三
第五章 審理の地平
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最終弁論 ニ

 佐藤周一の声が、再び法廷に響いた。

 先ほどの静かな語り口とは打って変わって、言葉には確かな芯があった。

 あくまで冷静に、だが訴えるべきことを一歩も引かぬ意思を携えて。


「……法の下において、罪と罰は公平に量られるべきであります。

 ですが、私たちが“公平”と信じるその天秤は、果たして、どこまで真に中立でしょうか」


 傍聴席が微かにざわめく。

 官吏や外交筋の者たちが顔を上げ、互いに視線を交わす。


「津田三蔵は、正気であると自ら言いました。

 弁護人として私は、彼の言葉を否定するつもりはありません。

 むしろ──彼の中にあったのは、狂気よりも、孤独と絶望の果てに形をなした“信念”だったのではないかと感じております」


 佐藤は言葉を区切り、静かに手元の書面を畳んだ。


「この事件が、単なる凶行であれば、話は簡単です。

 だが、皆さま。あの刃が振るわれた場所を、時を、状況を、どうか思い出していただきたい。

 皇太子殿下──いや、ロシア帝国の皇太子を傷つけたこの行為は、確かに国際関係に大きな傷をもたらしました。

 しかしこの裁判が扱うべきは、国家の面目ではなく、津田三蔵という一人の人間の行為であります」


 児島惟謙は黙してそれを聞く。

 筆先はわずかに動いているが、顔には表情らしいものがない。

 ただ、深く潜るようなまなざしで佐藤を見つめていた。


「もし、彼の行為が誰かの教唆によるものであったなら、私たちはその背後に潜む影を追わねばならない。

 だが、そうではない。誰に命じられたのでもない。

 ただ一人で、“国を思う”と信じ、その信仰に似た情熱で突き進んだ──」


 佐藤は言葉を止め、津田を見た。

 津田は微動だにせず、ただ前を見つめていた。


「──私たちの社会は、このような孤独な熱に、どれほど無関心だったか。

 このような思考の断絶を見過ごしてきたのではないか。

 これは、個人の責だけではありません。社会が生んだ裂け目の中に、津田は落ちていったのです」


 一人の記者が、静かに万年筆を止めた。

 その隣で、官僚風の男が身じろぎもせず、目を伏せていた。


「罪に対して、罰は避けられません。

 しかし、この国の理性が、ただ『処罰』という行為にだけ安堵してしまえば、同じ悲劇は再び訪れましょう」


 声が静かに落ちる。


「弁護人として、私が求めるのは寛大なる裁きです。

 それは津田三蔵を赦すことではありません。

 彼の行為の背後にあった、時代の断層、その深さを見つめる機会を失わぬために──

 どうか、この国の法廷が、理性の灯火であり続けんことを」


 佐藤は深く頭を下げた。

 その場には拍手も感嘆もなかった。

 ただ、空気が凪いだように、全員の胸に余韻が沈殿した。


 児島惟謙は静かに視線を落とし、硯に筆を置いた。

 誰にも見えぬまま、ふと眼を閉じた。


 その刹那、裁判官たちの背後の高窓から、強い日差しが差し込んだ。

 明るさは、静謐のなかで白々と、壇上の全てを照らしていた。


 津田は顔を上げなかった。


 終わったのは弁論だけだった。

 だが、誰もが、この場が裁きであると同時に、ひとつの祈りの場でもあったことを感じていた。


(続く)


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