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刑吏の刃  作者: 長谷川慶三
第五章 審理の地平
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最終弁論 一

 明治二十四年 六月一日 大審院刑事法廷


 法廷に人いきれがこもっていた。

 初夏を前にした東京の空気は、窓の奥にあるにしてはどこか重く、埃っぽく、皮膚の下にじわりと染みてくるようだった。


 天井から吊るされた扇が、ゆっくりと回っている。音はない。その羽の動きまでもが、傍聴席の緊張と倦怠のリズムをなぞるようだった。


 列席する官吏、記者、法律家、それに外交筋の関係者と思しき人々。

 皆が沈黙のなかに言葉を握りしめ、ただ壇上の動きを待っていた。


 数日前までは好奇と憤怒でざわめいていた席も、今では静まり返り、ある種の厳粛さを帯びている。

 新聞社の記者たちは筆記用紙と万年筆を膝に、時折言葉を交わしつつも、全員の目が一様に前方に注がれていた。


 壇の左右、見慣れぬ数人の男たちの姿が目につく。

 上等な羽織を着た中年の男は、外務省から差し向けられた官吏だろう。

 その後ろに控える二人の西洋人風の姿は、ロシア公使館の随員か、あるいは外国紙に連絡をとる記者かもしれない。

 彼らの目は津田三蔵ではなく、法壇と裁判長の表情に集中していた。


(これは、もはや一人の罪人を裁く場ではない)


 そう口には出さずとも、傍聴席の誰もが、そう感じていた。


 裁判長席の児島惟謙は、静かに視線を巡らせた。


 津田三蔵が入廷する。

 痩身を揺らしながらの歩みではあったが、足取りは一定で、顔色に怯えはなかった。

 弁護人のそばに腰を下ろすと、静かに前を見据える。


 傍らに控えた弁護人、佐藤周一さとう しゅういちは、胸元の紙を一つ深く折ると立ち上がった。

 佐藤は若くはなかったが、無名でもない。刑法に明るく、軍事裁判の経験もある男だった。


「本日、最終弁論に先立ち、被告津田三蔵の精神状態に関する弁護側の見解を述べさせていただきます」


 声はやや緊張を孕んでいた。

 弁護人としての責務の重さだけでなく、周囲の視線の圧が、彼の背を押していた。


「このたびの被告、津田三蔵──彼が犯した罪の重大さについては、弁護人も決して否認するものではありません。

 その刃が傷つけたのは、ロシア帝国の皇太子ニコライ殿下であります。民心を揺さぶり、外交に波紋を広げ、多くの人々に衝撃を与えました」


 そこで佐藤は一度、喉を潤すように唾を飲み込み、言葉を継いだ。


「しかしながら、刑罰とは、単に報いではなく、人の行いの全体を見極め、国家としての理性と秩序を保つための道であります。

 弁護人は、この場において、被告の行為が確かに極刑に値するものと見られていることを承知しております。

 ただ──ただ、ここに立ち、最後に一つの問いを置かねばなりません」


 傍聴席がざわめいた。弁護人の言葉に、怒気ではなく、一抹の同情と戸惑いが混じる。


「果たしてこの男は、心正しくして、理性をもってこの行動に及んだのか──

 あるいは、理性を持っていたがゆえに、自らを外したのか。

 我々はこの点を明らかにせぬまま、ただ罰を与えるだけで良いのでしょうか」


 佐藤は静かに、津田の方を一度だけ見た。

 津田は何の反応も示さない。ただ、遠くに焦点を置いた目をしていた。

 だがその唇が、ごくわずかに動いた。息か、言葉か、それともただの痙攣か──誰にもわからない。


「津田は、初日より、“私は正気である”と繰り返してまいりました。

 それは、おそらく事実でありましょう。

 しかし、その『正気』が、我々の理解する“常軌”の内にあるかどうか──その判別こそが、今この裁判において求められているのではないでしょうか」


 弁護人佐藤の弁論を受けて、傍聴席にかすかなざわめきが走る。

 一部の者が、息をのんだ。


「正気である」


 ──それは、弁護としては重い選択だった。

 精神異常を訴えれば、極刑を免れる可能性もあった。

 だが、佐藤はそうしなかった。


 津田の行為には、信念があった。

 その信念がいかに歪み、独りよがりの狂信に見えようとも、そこには確かに「意志」があった。

 弁護人はそれを否定しなかった。


 児島惟謙は静かに筆を止めると、傍らの男を見た。

 津田三蔵は黙したまま、ただ壇の向こうを見据えている。


「この男は、正気である──」

 佐藤の言葉は、いまや法廷全体に深く、低く沁み渡っていた。


 佐藤は一度、胸元の詰襟を軽く指で整え、目を伏せた。

 深く息を吸い込み、抑えるように吐き出すと、再び顔を上げる。

 その眼差しには、覚悟と僅かな疲労が同居していた。


「私は、彼が確かに正気でありながらも、“世界”との接点を喪った人間であると感じています。

 誰かの命令によらず、教唆にもあらず、ただ『我が身を賭して正義をなす』と信じてしまった一人の国民。

 彼は国家の意志とも、組織の論理とも交わることなく、単独でこの悲劇を選び取りました」


 声に、わずかな熱が宿った。だが、それは怒りではなく、むしろ寂しさに近いものだった。


「これが国を思っての行動であったとすれば──この国は、いつ、誰に、彼をそうさせたのか。

 それを問わずして、ただ死を与えて済ませてしまってよいのか。

 私の弁護とは、彼の行為を是とすることではありません。

 ただ、この裁判を、未来の理と秩序を育てる場とするため、願わくば寛大な判断が下されんことを──」


 言葉を終えると、佐藤は頭を深く下げた。

 その背に、傍聴席からわずかな拍手が起きそうになるのを、緊張した空気がすんでのところで押しとどめた。


 裁判長席の児島は、何も言わなかった。

 ただ、筆記用紙に静かに一筆を加えたのみである。


 津田三蔵の姿は、変わらなかった。

 正気か狂気か。信念か、断絶か。

 その輪郭は、なお霧の中にあった。


(続く)


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