屈するか反するか
明治二十四年 五月三十日、午前。
霞がかった空の下、内務省の石畳は朝露を受けてやや暗く濡れていた。
村岡は来客控室の前で一度深く息を吸い、扉を開けた。
部屋の中には、外務省の若い官吏が静かに立っていた。細身の体に無駄な動きはなく、まるで己が使いの一部であるかのようだった。
「村岡様、お久しゅうございます。石井次官より、非公式ながらお伝えするよう申しつかっております」
小柄で理知的な面持ちの青年が、封をされた手紙を差し出す。
「末尾に私信も含まれておりますが、あくまで私的な連絡とお受け取りくださいとのことです」
村岡は軽く頷き、封を切った。筆跡は細く、だが意志の通った線だった。
「時勢は速く、論理を待たずに形を求めるものです。
法の歩みが重いのであれば、周囲の足並みを乱さぬための決断を、
内務としてお考えいただければ幸甚に存じます。
——K.I.」
──言うべきことは言っているが、言っていない。
それが石井菊次郎という男のやり方だった。
(あの男らしい、意を汲ませようとする筆致だ)
声には出さず、村岡は文面を指でなぞった。
あの日、外務省の応接室で向かい合った石井の目を思い出す。
一見穏やかに見えて、その瞳には「そちらが理解せねば、我々が決める」とはっきり書かれていた。
「直接命じる言葉ではないが、意味は明白……」
呟きながら机の端に手紙を伏せる。
石井にとっては、村岡は未だ“内務の実務官僚”でしかない。
同席は許すが、意志の対等は認めない。
その前提のうえで、こうして手紙を寄越してきたのだ。
(手を貸せ、とは言わない。ただ、“遅れるな”とだけ)
「──お伝えは、これで以上でございます」
外務官吏は丁寧に一礼すると、退室した。
その背を見送ってから、村岡は一人、文机の前に戻った。
窓の外にはまだ昼の陽が残っている。しかし部屋の空気は重い。
ふと、書類の山に目をやる。
その中には、官報の抜粋、新聞各紙の論調、報道に紛れる世論の騒ぎ、
そして、読売新聞の一節が貼られていた。
──「津田三蔵、明晰な応答をもって裁かれる。狂気の兆候は認めがたし」と。
村岡は静かに椅子に腰を下ろし、筆記用紙を引き寄せた。
「本件、国論と外交の間に立つ。
いずれに傾いても、政府の姿勢は問われる。
今、我らに問われているのは“裁き方”ではなく“裁きの示し方”である」
蝋燭の炎がかすかに揺れた。
窓は閉じていた。風の入りようはない。
「……屈するか、反するか」
口に出したその問いは、ただ部屋の空気に沈んでいった。
*
内務省、五月三十日。午後過ぎ。
石井菊次郎の筆跡は、記憶よりもやや崩れていた。
私信の形をとっているものの、内容は明白だった。
“外交上、早く、明確に処罰せよ”と。
語調は柔らかく、あくまで“意見”の体を装っていたが、村岡にはよくわかった。
これは外務省が、明確な「政治判断」を内務に押し付けようとしている。
村岡は手紙を丁寧に折り畳み、文箱に戻すことなく、机の上に伏せて置いた。
封緘の跡が少し乱れているのを見て、自分の手がわずかに震えていたことに気づく。
(──彼は、こちらが動くと見ている)
確信のような、あるいは期待のような筆致だった。
対等の意見交換ではなく、「そちらで判断してくれれば助かる」といった、上からの押しつけだ。
かつて、石井と幾度となく交わした政務の場。
村岡はその頃から、彼の才腕と計算高さの両方を、身に沁みて知っていた。
(……あの男は、“動くべき人間”を見抜いている。だが、私はその駒になるつもりはない)
書類に視線を落としながらも、村岡の意識は別の方向にあった。
机の上のランプの灯りが、わずかに揺れている。窓は閉じている。風ではない。
――あるいは、自分の呼気か、あるいは決意の曖昧さの表れか。
村岡は静かに呟く。
「……動かぬことが、最も強く応えることもある」
返事を書くか、否か──
形式上はそれが問題のように見えて、実際には、その一挙手一投足が今後の展開に影響を与えかねない。
彼は懐中から一枚の便箋を抜き出した。
筆を取る手が紙に触れたまま、数秒動かなかった。
──返答をするなら、どういう文言を選ぶべきか。
「本件については、関係各所と慎重に調整中にて、内務として軽々に断を下し難き状況にございます──」
そこまで書いて、手を止めた。
これはただの事務的返答。だが、“関係各所と調整中”という一文が含む意味は重い。
外務が「既に方向は決まっている」と言外に伝えてきた以上、それを「まだ決まっていない」と返せば、それ自体が意思表示になる。
彼は筆を置いた。
(……いや、書かぬ方がいい)
沈黙のほうが、明確な拒絶に近い。
石井はその意味を読み取るだろうし、仮に読み取れなければ──それはそれで良い。
村岡はゆっくり立ち上がった。
窓の外、午後六時の空はまだ明るく、だがその光の中に、かすかに夜の影が混じり始めていた。
(いずれ、どこかで動く時が来る。だがそれは、今ではない)
内務省の廊下をゆく足音が、夕の気配の中に消えていった。
(続く)




