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刑吏の刃  作者: 長谷川慶三
第五章 審理の地平
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震える秤

 明治二十四年 五月二十八日・夜 読売新聞社 編集局


 雨は降っていないのに、街の灯はどこか滲んで見えた。

 東京の空気に、裁判三日目の余熱がまだ漂っているようだった。


 編集局の机上には、書きなぐられた原稿と茶碗の渋が並び、ランプの光がゆらめいている。

 川辺は、袖口で目をこすりながら、口を開いた。


「……これは確かなのか?」


 目の前に置かれた電信の転写紙には、**「津田三蔵、明瞭な弁答。錯乱の徴候なし」**と、横浜に駐在する特派員からの文言が並んでいた。

 さらに、記者席で隣り合った外信記者が、「欧州の基準では、この男は正気とされるだろう」と語った旨の記述もある。


「本人の供述、理路が立ちすぎている。……もし虚勢ではないなら、これは……」


 主幹の渋谷が無言で煙草に火をつけた。


「正気、か……」


 声は掠れていた。

 誰もが感じつつも、口にすることを避けてきた可能性。

 それを、一枚の紙片が突きつけてきた。


「今朝の様子じゃ、傍聴席もすこし様子が違っていた」

 若手記者がぽつりと漏らした。

「なんというか……怒りより、困惑。怒鳴る声も出なかった。皆、静かで」


「当然だ。狂人なら楽だった。憐れんで済む。だが、正気の暗殺者なら――」


 川辺の言葉が切れる。

「それは、我々の側に問いが返ってくることを意味する」


 主幹が立ち上がった。机の縁に手をつき、しばし沈黙したまま、言った。


「……書け。“津田三蔵は錯乱せず”と。だが煽るな。冷静に書け。冷静でなくてはならん」


「世論が動きます」


「動くだろう。しかし、報道が動かしてはならん」


 渋谷の声は低く、確固としていた。

 その瞬間、部屋の空気が少し引き締まった。


 川辺は再び机に向き直り、筆を走らせた。

 夜の帳が降りきった東京の空に、タイプ機の打鍵音が乾いて響いた。


            *

 児島惟謙邸 明治二十四年五月二十九日・未明


 窓の外では、まだ夜が色を濃くしていた。

 しかし児島惟謙こじま・これかたはすでに起きていた。静かな屋敷の一室に、蝋燭の灯が揺れる。


 脇机には、昨日の裁判記録と、早朝に届けられた新聞各紙が積まれていた。

 その中に、一枚の紙面が目を引いた。


「津田三蔵、明晰なる答弁。錯乱の兆し見えず」――読売新聞


(……やはり書いたか)


 児島は小さく頷いた。

 川辺や渋谷たちの筆が、何を伝え、何を選ばぬか――その気概を、児島は薄々知っている。


(“正気の者”が刃を取ったとき、民意の矛先は変わる)


 もはや津田の裁きは、単なる刑事裁判ではない。

 それは国家の体面、法の理念、そして未来への座標を問う場になっていた。


「……おやめにはなりませんか?」


 襖の向こうから、妻の静かな声がした。


 児島は返さなかった。ただ、書見台に筆を取り、判例集の余白に何かを記していく。


 そこへ、玄関で小さな騒めきが生じた。

 訪問者である。


 家令が通したのは、内務省の高級官僚であった。

 表情に焦りは見せぬが、礼の深さに一種の“腹の内”が透けて見えた。


「夜分に失礼をば……実は、官房より申し伝えることがありまして」


 児島は黙って頷いた。


 官僚は座につくと、机の上の新聞紙に目を落としながら、言葉を選ぶように口を開いた。


「……新聞がこのように報じておりますが、**世情の安寧のためにも、審理は迅速に、厳正なる裁きを。早期結審を望む声が、高くなっております」

「もちろん、法のご判断に口を挟むものでは……」


(それでも、挟んでいる)


 児島の脳裏には、つい先ほど読み返した自筆の一文が浮かんだ。


「重き罪科において情を排しすぎれば理を失い、情に引かれすぎれば威を失う」


 声には出さず、筆で紙に書き写す。


「我が職務は、法を読むことです」

 児島の声音は、穏やかだった。しかし、揺るぎなかった。

「法が命ずるとあらば、我は斬りましょう。しかし法が許さぬ限り、斬ることはできませぬ」


 官僚は一瞬沈黙したのち、浅く頭を下げた。


「……承知いたしました」


 それ以上の言葉はなかった。


 やがて客は去り、児島は一人、静寂の中に戻った。

 風がわずかに障子を揺らす。


(法が問われている。いま、正気であるという一人を、我々はどう裁くのか)


 蝋燭が揺れるたびに、壁の影が伸びたり縮んだりした。


 児島惟謙は、紙上に書きかけた文章の続きを綴った。

「……罪を裁くことは容易い。だが、“この罪が何を語るか”に耳を傾けることは、困難である」


            *


 夜半。村岡の自室には、煤けたランプの灯がひとつ、じりじりと燃えていた。

 机上には、関係省庁から集めた報告書が積まれている。津田三蔵の身辺、思想、同志社時代の交友、そして……裁判所筋から漏れてきた証言の断片。


 村岡は一枚の報告を手に取り、目を細めた。

 読売新聞が、津田は「明確な理性に基づいて行動している」と報じたという。しかも、その論調には明確な意図があった。


「……狂気ではない、というのか」


 書類を置いた手のひらに、知らず汗がにじんでいた。


「正気ならば、あれは“思想”だ。情動でも衝動でもなく、確信だと──そうなると、この裁判はただの刑事事件では済まない」


 ペン先で紙をつつく。灯の下で、影が揺れた。


「問題は、それを見越して仕掛けた者がいるかどうか、だ……外務省か? いや──この手口、この空気、これはむしろ薩摩筋か」


 ランプの炎が、不意に揺れた。誰かが扉の外を通ったのか、夜風か、あるいは彼の内面の予感のせいか。


 村岡はふと顔を上げ、机の端に視線をやる。そこには、まだ開封されていない一通の封筒が置かれていた。差出人は、かの伊藤博文。


 彼は開けなかった。今は、言葉より考えが先だった。


「……児島惟謙。あの男がどう裁くか、それでこの国の威信が問われる。いや、それだけじゃない」


 口を噤み、目を伏せた。


「正気であることが、むしろ国家にとって“不都合”になる時代……我々は、いよいよ、その断層に立っている」


 窓の外には月もなく、東京の夜は音もなく沈んでいた。


(続く)


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