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刑吏の刃  作者: 長谷川慶三
第五章 審理の地平
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静かなる断層

 大審院 法廷 明治二十四年五月二十九日 午前九時半


 木の床に足音が満ちる。

 傍聴席のざわめきは、もはや日常の騒音ではなかった。

 戸外の陽光とは無縁の、石壁に囲まれたこの空間は、熱気と憎悪と、奇妙な期待に満たされている。


 児島惟謙こじま・これかたは、席についたまま、傍聴席の群衆を静かに見渡していた。

 三日目。津田三蔵の裁判は、日を追うごとに“国の空気”そのものを吸い寄せている。そう感じられた。


 人々の表情には、怒りや正義感だけでなく、明らかに恐怖があった。

 いったいどこまでが他人事で、どこからが我が身なのか──。

 ふとした拍子に、“自分の感情が正しいのか”を確かめようとする目線が、児島の方に向けられているのを感じる。


 やがて津田が入廷した。

 痩せた体はやや前かがみで、手の動きに揺らぎはない。

 しかし、まなじりの奥にある“断絶”のようなものが、児島には目についた。

 激情でも懺悔でもなく、信仰でもない。あれは、己を世界から切り離した者の眼だ。


(……この男は、もはや誰かの命令ではないのだな)


 児島はそう確信していた。

 初日の供述では「自分の信念による」「公憤に耐えかねて」などと述べていた津田だったが、真意がどこにあるか、まだ法廷では測りかねている。

 今日の審理は、動機形成に関連する証人の尋問が中心となる。


 証人席に立ったのは、かつての同志社の知己だったという男だった。

 彼は、津田の若き日を語った。

 柔道に熱心で、熱誠のある若者だったこと。

 日清の関係、外国人の横暴、政府の迎合に憤っていたこと。


「……彼は、“自分でやらねば誰もやらぬ”と、そう言っておりました」


 その一言に、傍聴席の一部がさざめいた。

 誰かが何かを言いたげに喉を鳴らす。

 正義感からの言葉か。共鳴か。あるいは、恐怖か。


 児島は、合間に目を伏せた。


 この男がなぜ、国の重鎮に刃を向けたのか。

 答えはまだ霧の中にある。

 だが、彼の行為はもはや単独の凶行ではなく、「時代」の文脈に編み込まれつつある。


 津田は、証言を無言で聞いていた。

 瞬きも少なく、時折、わずかに眼を閉じる。

 その目に、感情の揺れはなく、ただ微かな疲労だけが見えた。

 まるで、すでにすべての選択が終わっているかのように。


 児島は、そっと心の底でひとつ頷いた。


(……正気だ。この男は、正気だ)


 狂気の兆しは、どこにもない。

 理がある。筋が通っている。

 問題は、そこにあるのだ。


(……感情と論理がずれるとき、裁きは困難になる)


 その瞬間、記憶の奥底から一節が浮かんだ。

 律令の注釈書か、先哲の判例か。いや、あるいは自分自身がかつて書いた草案かもしれない。


「重き罪科において情を排しすぎれば理を失い、情に引かれすぎれば威を失う。されど法は、いずれにも沈まず、ただ正に立つものなり」


 児島は、それを手元の筆記用紙にそっと書き留めた。


(我々が裁いているのは、“津田三蔵”という一人の人間であり、同時に──この国がいかなる法を持つか、という問いだ)


 その重さが、肩にずしりと沈んだ。

 死刑──それは可能だ。しかし、拙速はできない。

「国際的圧力を受けて死刑に処した」と見られれば、国家の法権は損なわれる。

 逆に、軽い判決なら「要人暗殺が通用する」との前例を与える。

 その境をどこに見出すか。重罪の“均衡”は、今まさに揺れている。


 傍聴席にいた、ある老婦人の目から一筋の涙が落ちたのを、児島は見た。

 津田に向けたものか、それとも自身の思い出に揺れたのかは分からない。


(……この国は、いつからか怒りだけでなく、悲しみをも共有するようになった)


 児島惟謙は、進行を促す小さな木槌を打ち鳴らした。

 その音が、静かな断層を刻むように、法廷に響いた。


(続く)

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