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刑吏の刃  作者: 長谷川慶三
第一章 大津より、急報。
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紙面の火種

*記者・川辺視点*

(事件直後の報道機関内)


五月十一日、午後一時四十分。


川辺は電話線の向こうから飛び込んできた、動揺と興奮の入り混じった声を反芻していた。


「皇太子殿下が、大津で襲撃された――?」


社内の片隅で、打ち捨てられた原稿用紙が微かに震えている。

電話の受話器を置き、川辺は重い息を吐いた。


「この話、どう伝えればいいんだ……」


編集長室からは、早くも指示が飛んでいる。


「状況を正確に把握しろ。詳細を掴め。間違いは許されん」


川辺は手帳を開き、関係者の名や得られた情報を急いで書き記した。

だが、情報は錯綜し、確かなことは何一つなかった。


「皇太子の容態は? 襲撃の動機は? 津田巡査の背景は?」


問いは次々に湧き上がるが、答えはまだ得られていない。


「報道は自由。だが、今は国家の重大事。どこまで踏み込むべきか……」


若き記者の胸に、焦燥と使命感が入り混じった。


川辺はもう一度受話器を取り、再び情報収集に動き出した。

それは、長く険しい報道の夜の始まりだった。

 

           *


 編集局の時計が午後二時を回った頃、社内はすでに騒然としていた。机と机の間を声が飛び交い、通信部からは電信紙が次々に吐き出されている。どの原稿用紙にもまだ「確証」はなく、皆が断片を拾い集めるだけだった。


 川辺は資料室で当番とすれ違いざまに声をかける。


 「津田――津田三蔵の戸籍は? 経歴、前歴、何でもいい、あるか?」


 「警察年報に名前があった筈だ。明治二十年ごろに任官してるはず……少し待て」


 川辺はうなずくと、自席へ戻り、未整理の走り書きを改めて見返した。

 大津、皇太子、巡査、サーベル、顔を斬りつけ……どれも実感を伴わない。ひとつひとつの言葉が、不確かで、体温を欠いていた。


 「とにかく、外務省か内務省を突けないか……」

 「内務省は門前払いだ。どの社も」

 「じゃあ、大津に人を出すしかないだろ。彦根線でまだ間に合う!」


 他の記者たちのやり取りが耳に届く。どこも同じように足をもがいていた。


 川辺は、意を決し、主幹の部屋を叩いた。


 「おう、川辺か。どうした」


 中にいたのは髭をたくわえた中年男。眼光は鋭いが、落ち着いていた。


 「主幹、私を大津に――」

 「駄目だ」


 その一言で打ち返された。


 「まだ若すぎる。事が事だ。現地で何を見ても、それを飲み込める胆力が要る。川辺、おまえに任せるには……まだ、早い」


 川辺は言葉を失った。反論したい衝動が喉までこみ上げるが、声にならない。


 「代わりに、内務省周辺を張れ。あそこに動きがあるはずだ」


 主幹は、それでもきちんと任務を与えた。川辺は頭を下げ、部屋を出る。

 悔しさを押し殺しながら、筆を取った。記者には、見ていないものを書く資格はない。だが、見ていないからこそ、伝えなければならないものもある。


 午後三時、川辺は社を出た。小石の混じる風が吹いていた。

 内務省前にはすでに複数の社が張りつき、足音と筆音と、それぞれの沈黙が交錯していた。


 この国の明日の紙面が、今、ここで静かに芽吹いている。

 火種はまだ、小さい。しかし、いつ燃え広がるか、誰にも分からなかった。


            *


(内務省前、午後四時過ぎ)


 内務省庁舎の前には、すでに幾人かの記者が腰を据えていた。

 皆、似たような無地の帽子と黒紋付き。煙草をくゆらせながら、無言の待機。

 川辺は彼らの輪に加わり、軽く会釈する。返事はない。だが敵意もない。沈黙が常態だった。


 「風が冷えるな」

 ふと、隣の記者が声を漏らす。年配の男。目尻に皺、表情は薄い。


 「……はい」


 「君、どこの社だ」

 「読売新聞です」

 「ふむ。若いな。……川辺君、だったか?」


 驚いた。初対面のはずだ。


 「顔は覚える。こちら、東京日日の鶴見」


 名を聞いて背筋が伸びた。何度も署名を見てきた。業界で知らぬ者はない。

 言葉のひとつも選ばねばと身構えたが、鶴見はただ、淡々としていた。


 「この件、すぐには出せまい」


 「……出せない、というのは?」


 「宮内省が動く。外務も絡む。陸海軍、貴族院……。いずれ、押し並べて沈静化を図るはずだ。

 だが、報道の熱が先に火を点ければ、政府は火消しより先に世論を鎮めねばならなくなる。

 その力は、時に法の上にもなる」


 川辺は言葉を失った。自分たちがどんな火薬を抱えているのか、ようやく肌で感じた。


 「だからといって、手は抜くな。手綱を引くのは紙面、だ」


 鶴見は言うと立ち上がり、庁舎のほうを見やった。


 そのときだった。

 内務省の裏手から、一人の官吏が出てきた。若く、急ぎ足。

 川辺が素早く近づくと、相手は一瞬たじろぎながらも足を止めた。


 「……記者さんか。悪いが今は話せん」


 「ひとつだけ。ニコライ殿下のご容態は」

 「……命に別状はないと聞いている。が、それ以上は」


 そう言い残し、男は足早に去っていった。


 それだけのことだった。それでも川辺は手帳に書き記す。

 “命に別状なし”――この一文が、何十万部の紙面を左右する。


 夕暮れの空に、報道という炎の小さな火種がぽつりと灯る。

 川辺は風に背中を押されるように、省前を離れた。戻れば、第一報の草稿を仕上げねばならない。


 明日の紙面が、この国の運命を左右する。


(第一章了)


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