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刑吏の刃  作者: 長谷川慶三
第五章 審理の地平
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不穏な風

 東京・大審院長官邸 麹町区 明治二十四年五月二十七日 夜


 蝋燭の灯が、書斎の壁にほの暗い影を投げていた。

 児島惟謙こじま これかたは、机の前で身じろぎもせず、裁判記録をめくっていた。


 津田三蔵の供述。

 法廷での証言の断片。

 筆跡の癖、間の取り方、声色の報告まで――一枚一枚が、静かに重なっていく。


 雨は止んでいたが、夜気は重かった。

 彼の背後の書棚には、数十冊の法律書と手記が整然と並んでいる。

 その中の一冊を、指先がそっとなぞった。『刑律改正議論稿けいりつかいせいぎろんこう』――十年前、自らも関わった草稿である。


「……この男は、狂人ではないな」


 児島は独り言のように呟いた。


「あれほど整然と、あれほど目的に忠実に――」


 彼は筆を取り、余白に数文字、静かに書き記した。

“正気にして錯誤”――それが、児島の初期印象であった。


 裁きにおいて、それは最も厄介な存在だ。狂人ではない。が、論理は逸脱している。

 本人には正義であり、他者には暴力である。その間にある“論理の溝”をどう見つめるか――それが裁く者の責である。


 机上の文箱が、ふと軋んだ。

 その音に重なるように、扉の向こうから控えの書記が声をかける。


「失礼いたします、大審院長。……本日夕方、司法省の某局長が邸下に来られました。応接は秘書が済ませましたが、“ご健勝を祈る”とのことでした」


 児島は、眉を動かさなかった。


「健勝、か……それだけかね?」


「ええ。何も書かれてはおりません。ただ、“裁きにおいて、穏当を望む声も強うございましょう”と――」


「ふむ。声はいつも、風に乗る」


 児島はそう呟くと、ふと眼鏡を外した。


「声が風である以上、我らが聴くべきはその“風の向き”ではない。風が吹く“理由”だ」


「……理由、でございますか?」


「そう。まつりごとというものは、いつも“人の納得”を要る。だが、裁きとは、“理”が納得せねばならぬ。そこを取り違えてはならぬ」


 書記は深く頭を下げ、音もなく去っていった。


 児島は再び眼鏡をかけ、記録の束に目を落とした。

 机上に広がる紙の山は、彼にとって“責任”そのものだった。

 そこには命の重さと、国家の均衡と、未来への連鎖が、全て活字になって堆積していた。


「津田三蔵。この男をして、この国の影を裁く。――さて」


 小さく灯が揺れた。

 夜の帳の中で、裁く者は一人、言葉にならぬ理を見つめ続けていた。


            *


 東京・大審院長官邸 麹町区 同夜


 子の刻を過ぎた頃、児島惟謙はようやく筆を置いた。

 しかし書斎の空気は、静まりながらもどこか騒がしい。

 まるで、遠い嵐がその気配だけを先に差し向けているかのようだった。


 卓上の燭台に蝋が垂れ、短くなった芯が一度パチ、と音を立てた。


 彼は立ち上がると、窓辺へ歩み、障子をわずかに開ける。

 夜の風がすうっと吹き込んできた。

 甘い草の匂いに混じって、どこか鉄のような、湿り気を含んだ匂い――それが、児島の鼻腔をかすめた。


「……これは、“正義”の匂いではないな」


 独りごちたその声は、静かである一方、どこか疲れていた。


 そのときだった。

 扉を控えていた書生が、音もなく中に入った。


「先生、夜分にて申し訳ございません。こちらに、封がございました」


 児島は目を細めて受け取る。

 簡素な封筒。差出人の名はないが、達筆な筆致で一言――「私信」とだけある。


 開封すると、中にはごく短い書面と、一枚の名刺が入っていた。

 名刺は見慣れたものだった。枢密院書記官長、某氏の名。

 かつて同じ官途を歩み、今はより政中枢に近い人物。


 書面には、やはり短くこうあった。


「時節柄、穏やかなる結審が、内外の安寧を呼び込むものと存じ候。

 なお、この件につきては、殿下も深いご憂慮にあらせらる」


 殿下――恐らくは、東宮あるいは元老院筋。

 児島は目を閉じ、額に手をやった。


「……これは、穏やかなる“忠告”か、それとも――“示唆”か」


 もしこの言葉に従えば、政治は安堵し、民意も一応の“納得”を演出できるかもしれない。

 だが、それが“理”による裁きと言えるのか。


 ――津田を死刑とせよ、とは誰も言わぬ。

 しかし“死刑にせぬこと”が、内外の均衡を保つと“気づかせよう”とする空気。


 それが、不穏な風の正体だった。


 児島は封筒を机の抽斗に収め、しばし動かなかった。

 やがて蝋燭の灯をそっと吹き消し、室内は月の光だけになった。


 夜明けまで、あと数刻。

 裁判の三日目が、またやってくる。


 だが、司法の本当の審理は、既にここで始まっていた。


(続く)

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