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刑吏の刃  作者: 長谷川慶三
第五章 審理の地平
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連なる証言

 大津・地方裁判所 明治二十四年五月二十八日(裁判二日目) 


 傘をさしても肩先が濡れるほどの小雨のなか、川辺は大津裁判所の門をくぐった。


 昨朝と同じ光景が、今日も目の前に広がっていた。

 警官に整列させられた傍聴希望者の列、手帳と鉛筆を持った新聞記者たち、眼鏡を濡らしながら黙して順番を待つ法学生や地元有志。

 前日と同じ、だが少し違う。

 人々の視線の奥に、**“確信めいたもの”**が宿っている。昨日より、ひとつ深く踏み込むことを、全員が知っていた。


「今日から証人尋問か」


 誰に聞かせるでもなく呟いた川辺は、昨日と同じ席へと通された。

 法廷の空気は湿気を帯び、重かった。

 裁判長席の児島惟謙が入廷し、裁判が開廷すると、室内に一気に緊張が満ちる。


 ⸻


 最初に証言台に立ったのは、事件当時の巡査。

 ニコライ皇太子に随行していたロシア兵のひとりが突然振り返り、日本人警官の制止をふりほどいて皇太子に向かっていった――

 そのとき、津田三蔵が刀を抜いた。

 この証言により、**“突発的犯行”**の印象が強まった。


 続いて、医師の証言。

「傷の深さは……致命的ではないにせよ、打ちどころが悪ければ失明もあり得た。奇跡的に浅く、皇太子の命に別状はなかった」

 言葉の端々に、“未遂”としての裁きが妥当だとの含みがにじむ。


 川辺は傍聴席の静けさのなか、耳を澄ませた。

 法廷のやりとりには感情はなく、ただ淡々と、資料と証言が積み重ねられてゆく。

 しかし、その**「積み重ね方」**こそが、今日の主戦場だと、川辺は理解していた。


 ⸻


「犯人が叫んだ言葉について、もう一度確認します」

 検事の問いに、通訳官が証言した。


「津田は、“皇族を斬る”とは申しておりません。“異国の皇太子とは知らなかった”と」

「つまり、意図的に“外国の皇族を襲撃した”とは断定できないのですね?」

「はい。あくまで、巡察中の不審な人物と認識した模様です」


 傍聴席に微かなざわめき。

 川辺は心中で筆を止めた。


 ――この裁判、やはり“本気”だ。

 政府にとって都合の良い即断即決ではなく、

“何が本当に起きたのか”を明らかにしようとしている。


 ⸻


 正午を回り、次の証人が呼ばれた。

 警視庁の内務書記官。

 彼は淡々と、津田の勤務態度、過去の素行、思想傾向について証言した。


「特段の政治的傾向や、過激思想との関係は認められておりません」


 川辺はその言葉に、わずかな違和感を覚えた。


 ――そうだろうか。本当に、そう言い切れるのか?

 事件の直前、津田はあの異様な顔で記者の前に現れ、言葉を発しようとした。

 あれを、「関係なし」と一言で処理できるのか?


 そして、そこにこそ、この裁判の核心がある。

 単なる刃傷事件か、政治的動機があったのか。

 政府が求めるのは前者。だが世間が知りたいのは後者。

 裁判官たちは、両者の狭間で秤を握っている。


 ⸻


 午後、児島惟謙が控えめに口を開いた。


「本日は以上とします。次回は明日、引き続き証人尋問を継続いたします」


 静かに閉廷が告げられ、傍聴席が揺れた。


 川辺はその場に立ち上がれず、しばし席に沈んだまま、天井の木目を見つめていた。


 裁判は、確実に前進している。

 津田三蔵という男の、“内側”に入ろうとしている。

 だが同時に、この法廷のどこかで、

“何かを越えてはならぬ”という見えない線も存在しているのを、彼は感じていた。


 その線を引いたのは誰か。

 そして、それは越えられるのか――


 川辺は、ゆっくりと席を立ち、鉛筆を胸にしまった。


           *


 東京・麹町 大審院構内 明治二十四年五月二十七日・午後三時


 傍聴席に座る川辺の視線は、津田三蔵の背中の少し上、法廷の天井へと滑っていた。


 証人席では、警視庁の取調主任が淡々と口を開いていた。


「……尋問の際、被告人は終始冷静に応じました。ただし、動機に関しては、いまだ首肯しかねる点が多く──」


 川辺はノートを閉じ、インク壺の蓋にそっと触れた。万年筆ではない。細字用の金ペン先がきちんと紙面に戻るまでの間、目を閉じる。


 今日の証言は、確かに事実を積み上げていた。だが、核心にはまだ届かない。


「なぜ斬ったのか」


 裁判官も検事も、そこに立ち入ろうとはしない。ただ、手続きに則り、津田がどう捕らえられ、どう扱われたかを詳細に“記録”してゆく。


 まるで、殺意や憎悪といった人間の熱量を、制度の帳尻で無理やり覆い隠すかのように。


 ふと、隣の記者がこめかみに手をやった。「これじゃ記事にできねえ」と、小声が洩れる。


 川辺はそっと立ち上がった。筆記用具とメモだけを携え、列の端を抜ける。誰かと目を合わすこともなく、外に出る。


 * 東京・京橋 報知新聞社編集局 午後五時


「連日裁判と書いても、読者の目は慣れるぞ。川辺、お前の視点はあるのか」


 編集長の声は、静かだが鋭かった。


 川辺は迷わず答えた。


「あります。裁判は“死刑への道”を着実に辿っているように見えます。しかし同時に、そこにある“もどかしさ”も、記事にせねばなりません」


「もどかしさ、とは?」


「津田が語らないのではなく、“語らせない”空気があります。司法が静かに死を与えようとしている。だが、読者の関心はそこにはない。あの凶行の裏にあるもの──怒りでも思想でも、狂気でも──それを知りたい。誰もがそう思っている。……私も」


 編集長は、しばらく無言で原稿を見つめていた。


「明日、別枠を設ける。『傍聴記』として連載扱いだ。ただし、事実と印象の境は明確にせよ。お前の感情が記事を引っ張ってはならん」


「承知しました」


 机を離れた川辺は、原稿用紙を手に編集局の片隅に向かった。窓の外では、陽が傾きかけている。


 ──真実は、誰の口からも語られていない。

 だからこそ、記さねばならない。見たこと、聞いたこと、そして──沈黙。


 その全てを、言葉にする義務がある。


 川辺は小さく息を吸い、筆を置いた。


(続く)


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