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刑吏の刃  作者: 長谷川慶三
第五章 審理の地平
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見えざる論理の帳

 東京・読売新聞編集部 午後三時


 川辺が社屋に戻ったのは午後も半ばを過ぎた頃だった。

 裁判所からの道すがら、何本も路地を抜け、喫茶店にも寄らず、誰とも言葉を交わさなかった。

 傍聴席に身を置いていた時の、あの冷えた沈黙がまだ耳に残っていた。


 編集部は、午前の号外体制から少し落ち着きを取り戻していた。

 だが、机上にはすでに「傍聴記」の見出し案が三つも並び、整理部の若手が構成表を睨んでいた。


「川辺さん、お帰りなさい」


 一人が駆け寄ってきたが、川辺は軽くうなずくだけで奥の記者席に向かった。

 机に腰を下ろし、上着を脱ぐと、静かに原稿用紙を引き寄せた。


 その背後から、主筆の西田がやって来た。


「どうだった?」


「……始まった、ということです。ようやく、何かが」


「世間はどう見るだろうな」


 川辺は、しばらく沈黙したあと、首を振った。


「どう“見せるか”を、我々が問われている気がします。“裁かれた”のは津田ではなく、彼の動機を作った時代そのものだ、と」


 西田は少し眉を寄せた。


「だが、その“動機”を書いたところで、庇ったと見なされるのが落ちだ」


「ええ、だから記事にはしません」


 川辺はそう言って、懐から一枚のノートを取り出した。それは傍聴中に書いた文だった。


「これは、報道ではなく記憶です。あの場で、確かに“何か”が抜け落ちていた。

 ……ただ、我々の言葉には、それをすくい上げる術が足りていない」


「なら、どう書く」


「……書けることだけを、すべて書きます。それしか、残せないので」


 西田はしばらく川辺を見つめていたが、やがて静かに言った。


「……記事の形でなくてもいい。“思い書き”として載せよう。読者が今、欲しているのは、筋書きじゃない。“目撃の代行”だ」


「……ありがとうございます」


 川辺は頭を下げ、改めてペンを取り上げた。


 津田三蔵という男のことを、彼が法廷で語らなかったことを、

 そしてその沈黙が、何を照らし出していたのかを――


 書けるところまで、書いてみるしかなかった。


 彼の背後で、午後の光が傾いてゆく。

 東京の空に、あの朝の曇天はもうなかった。


           *


 東京・内務省本館 警保局長室 午後四時


 午後の空気は重く、湿気が静かに書類の隅を丸めていた。

 村岡の机には、裁判開廷の第一報と、午後版の各紙見出しが並べられていた。


「……始まりましたね。津田の裁判が」


 入室してきた警保局の参事官が、静かに言った。

 村岡は視線を紙面に落としたまま、応じなかった。


「傍聴希望者は詰めかけ、廷内は立ち見まで出たそうです。

 報道も即日展開を始めております。特に萬朝報は……“思い書き”と称する形式で、第一報を出しました」


 村岡はようやく顔を上げ、言った。


「“記録”ではなく、“記憶”を書いたのか」


「はい。記事というより、感想録のような……ですが、筆の置き所は的確でした。“語られなかったこと”の重さを、読者に問うような構成です」


 しばし沈黙が続いた。


 村岡は、窓の外に向き直りながら低く呟いた。


「……語られなかったこと、か。裁判は国の姿を映す鏡というが、その鏡に、我々は何を映しただろうな」


 参事官がやや躊躇いがちに言葉を継いだ。


「――津田に対する処断について、民意の動向が読みづらい部分があります。

 明確な死刑を望む声もあれば、“背後を見よ”という論もある」


 村岡は、静かに腕を組んだ。


「わかっている。“罪”の線引きが、今、国を二つに割ろうとしている。

 司法は、あくまで現行法のもとに動く。だが、民衆は“情”で動く。

 我々の責務は、両者を結ぶ糊であり、枠だ。どちらかに傾いてはならぬ」


「……しかし、津田の刑罰を軽くすれば、列強への印象が悪くなるとの声もあります」


 村岡は首を振った。


「重くすれば良いというものでもない。“政治的圧力で死刑が決まった”と見られれば、それはそれでこの国の司法の独立を疑われる。

 ……重罪としての“程合”が、今ほど問われる時代はないな」


「ですが……その“程合”すら、今や定義が揺らいでいます」


「だからこそ、“語るべき者”が、語らねばならぬ」


 村岡は椅子に深く身を預け、静かに告げた。


「明日の紙面に、政府発として“立場”を示す文言を盛り込ませろ。

 だが、“処断の結論”には触れるな。あくまで原則を説け。

 司法と政治の線引きを、言葉で示すのだ。……それが我々に残された仕事だ」


 参事官は、静かにうなずいた。


 外では雲が切れ、日差しが差し始めていた。

 だが、その光はまだ、机上の紙を白く照らすには足りなかった。


(続く)

                  

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