見えざる論理の帳
東京・読売新聞編集部 午後三時
川辺が社屋に戻ったのは午後も半ばを過ぎた頃だった。
裁判所からの道すがら、何本も路地を抜け、喫茶店にも寄らず、誰とも言葉を交わさなかった。
傍聴席に身を置いていた時の、あの冷えた沈黙がまだ耳に残っていた。
編集部は、午前の号外体制から少し落ち着きを取り戻していた。
だが、机上にはすでに「傍聴記」の見出し案が三つも並び、整理部の若手が構成表を睨んでいた。
「川辺さん、お帰りなさい」
一人が駆け寄ってきたが、川辺は軽くうなずくだけで奥の記者席に向かった。
机に腰を下ろし、上着を脱ぐと、静かに原稿用紙を引き寄せた。
その背後から、主筆の西田がやって来た。
「どうだった?」
「……始まった、ということです。ようやく、何かが」
「世間はどう見るだろうな」
川辺は、しばらく沈黙したあと、首を振った。
「どう“見せるか”を、我々が問われている気がします。“裁かれた”のは津田ではなく、彼の動機を作った時代そのものだ、と」
西田は少し眉を寄せた。
「だが、その“動機”を書いたところで、庇ったと見なされるのが落ちだ」
「ええ、だから記事にはしません」
川辺はそう言って、懐から一枚のノートを取り出した。それは傍聴中に書いた文だった。
「これは、報道ではなく記憶です。あの場で、確かに“何か”が抜け落ちていた。
……ただ、我々の言葉には、それをすくい上げる術が足りていない」
「なら、どう書く」
「……書けることだけを、すべて書きます。それしか、残せないので」
西田はしばらく川辺を見つめていたが、やがて静かに言った。
「……記事の形でなくてもいい。“思い書き”として載せよう。読者が今、欲しているのは、筋書きじゃない。“目撃の代行”だ」
「……ありがとうございます」
川辺は頭を下げ、改めてペンを取り上げた。
津田三蔵という男のことを、彼が法廷で語らなかったことを、
そしてその沈黙が、何を照らし出していたのかを――
書けるところまで、書いてみるしかなかった。
彼の背後で、午後の光が傾いてゆく。
東京の空に、あの朝の曇天はもうなかった。
*
東京・内務省本館 警保局長室 午後四時
午後の空気は重く、湿気が静かに書類の隅を丸めていた。
村岡の机には、裁判開廷の第一報と、午後版の各紙見出しが並べられていた。
「……始まりましたね。津田の裁判が」
入室してきた警保局の参事官が、静かに言った。
村岡は視線を紙面に落としたまま、応じなかった。
「傍聴希望者は詰めかけ、廷内は立ち見まで出たそうです。
報道も即日展開を始めております。特に萬朝報は……“思い書き”と称する形式で、第一報を出しました」
村岡はようやく顔を上げ、言った。
「“記録”ではなく、“記憶”を書いたのか」
「はい。記事というより、感想録のような……ですが、筆の置き所は的確でした。“語られなかったこと”の重さを、読者に問うような構成です」
しばし沈黙が続いた。
村岡は、窓の外に向き直りながら低く呟いた。
「……語られなかったこと、か。裁判は国の姿を映す鏡というが、その鏡に、我々は何を映しただろうな」
参事官がやや躊躇いがちに言葉を継いだ。
「――津田に対する処断について、民意の動向が読みづらい部分があります。
明確な死刑を望む声もあれば、“背後を見よ”という論もある」
村岡は、静かに腕を組んだ。
「わかっている。“罪”の線引きが、今、国を二つに割ろうとしている。
司法は、あくまで現行法のもとに動く。だが、民衆は“情”で動く。
我々の責務は、両者を結ぶ糊であり、枠だ。どちらかに傾いてはならぬ」
「……しかし、津田の刑罰を軽くすれば、列強への印象が悪くなるとの声もあります」
村岡は首を振った。
「重くすれば良いというものでもない。“政治的圧力で死刑が決まった”と見られれば、それはそれでこの国の司法の独立を疑われる。
……重罪としての“程合”が、今ほど問われる時代はないな」
「ですが……その“程合”すら、今や定義が揺らいでいます」
「だからこそ、“語るべき者”が、語らねばならぬ」
村岡は椅子に深く身を預け、静かに告げた。
「明日の紙面に、政府発として“立場”を示す文言を盛り込ませろ。
だが、“処断の結論”には触れるな。あくまで原則を説け。
司法と政治の線引きを、言葉で示すのだ。……それが我々に残された仕事だ」
参事官は、静かにうなずいた。
外では雲が切れ、日差しが差し始めていた。
だが、その光はまだ、机上の紙を白く照らすには足りなかった。
(続く)




