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刑吏の刃  作者: 長谷川慶三
第五章 審理の地平
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開廷

 明治二十四年 五月二十七日・午前九時十五分 東京・裁判所構内


 六月のような陽差しだった。東京地方裁判所の門前には、早朝から詰めかけた報道陣と市井の人々とが雑じりあい、まるで何かの式典でも始まるかのような騒ぎを見せていた。


 川辺は、記者証の札を胸に、詰めかける群衆の波を避けながら、玄関へと歩を進めた。後ろから誰かの肩がぶつかり、無言のまま押される。周囲の会話はどれも津田の名に終始していた。


「……いよいよか」


 そう小さく呟くと、言葉が自分の中にもずしりと響いた。


 津田三蔵、帝国皇太子暗殺未遂犯。


 襲撃事件から半月余り。ようやくその男の裁判が始まる。

 公判期日が報じられたのは数日前。司法省から“公式”に発表されたとき、街の空気はにわかに張り詰めた。

 各紙はこぞって号外を打ち、煽情的な見出しが新聞売り場に並んだ。

《国民注視、津田裁判始まる》《国家の命運、法廷に問う》《死刑か、情状か》──

 だが同時に、奇妙な慎重論もまた漏れ聞こえていた。


「死刑には、そう簡単にはできんらしい」


 当局に近い人物が洩らした言葉を、川辺は思い返す。


 その理由は、事件が“ロシアの皇室”にかかわるがゆえに、政治的にも司法的にも扱いが異例だからだ。

 仮に即座に死刑判決が下れば、世界は「日本の裁判は皇族に関する事件では形式だけか」と見なす恐れがある。

 また、当の皇太子ニコライが“命を奪われなかった”ことが、重罪としてのバランスを微妙にした。

 実際に死に至っていない──それが、刑法上の“未遂”という壁を作っていた。


 加えて、ロシアがいまだ明確な抗議も、要求も寄せていない以上、「死刑にすべき」という外圧も生まれていない。

 司法に必要なのは“重さ”より“正当さ”だとすれば、むしろ拙速な判断こそが政体への疑義を生む。


「つまり、慎重に、粛々と、正統に裁くしかない……と、いうことか」


 法廷の扉が開かれ、記者団が順次、指定席へ案内されていく。

 傍聴席の一角には、地方から来たという議員の姿も見えた。

 訝しげに眼鏡を上げ下げするその仕草すら、事態の重さを語っていた。


 重い扉の奥から、開廷を告げる声が響いた。


 裁判官三名。中央の長身の男が視線を巡らせると、しんとした沈黙が一瞬、場を支配する。


 やがて、法廷の脇の扉が開き、刑吏に挟まれて津田三蔵が現れた。


 静まり返る空気の中で、川辺は無意識に息を飲んだ。

 津田はやせ細り、頬はこけ、目はどこか宙を見ていた。

 かつて襲撃を成した男には見えぬほど、影が薄い。

 だが──その背筋は、妙にまっすぐだった。


 傍聴席の誰かが、小さく何かを言った。

「本当に、あれが……?」


 津田は、言葉を発しなかった。


 読み上げられる起訴状。その文言は冷徹に、犯行の瞬間を描き、国家の威信を傷つけたと糾弾する。

「被告・津田三蔵、刑法第百十六条並びに……」


 一語ごとに空気が冷えていく。


 川辺は、胸元のペンを握り締めた。

 この裁判が、日本という国の正気を測られる場であることを、誰よりも感じていた。

 法による裁きを、果たして我々は耐えうるのか。

 激情でもなく、政治的取引でもなく、たったひとつの椅子の上で、すべてが裁かれる。


 そのことが、いまや日本国中を震わせている──。



            *


 東京・控訴院大審院法廷 明治二十四年五月二十七日・午前十時半


 開廷からすでに一刻が過ぎていた。


 証人の出入りはなく、粛々とした調書の読み上げと、それに続く津田三蔵本人への確認が淡々と続いている。

 傍聴席の興奮は初めのうちだけで、今は誰もが背筋を伸ばしたまま、手を膝に置き、ほとんど身じろぎもしない。


 川辺は前列中央で、筆を止めた。

 耳では聞きながらも、脳裏に立ちのぼってくるのは“文にならない何か”だった。


 津田は、ほとんど口を開かない。


 問われれば短く肯定し、たまに「覚えておりません」と答える。

 奇妙なほど抑制された声色は、時折、まるでこの法廷の存在そのものを否定しているかのようにすら聞こえた。


「――先般の供述書において、“陛下の御聖体を傷つける意図はなかった”とありますが、これはいかなる趣旨でありますか」


 静かな裁判長の声が響く。


「……私が刃を向けたのは、帝国の誤りに対して、であります」


 津田の声はかすれていたが、はっきり聞き取れた。


 一瞬、法廷に冷たいざわめきが走った。


 川辺は顔を上げた。

 その答えが何を意味しているか、誰もがすぐには整理できなかったようだった。だが、すぐに裁判長が咳払いをし、空気が均された。


「弁護人、補足説明を」


 弁護人は立ち上がったが、やはり多くは語らなかった。

 この法廷における言葉には限界がある。

 本当に問われているのは“罪”ではない。誰が責任を負うべきかという構造そのものだ。


 川辺は、その構造に筆を入れられずにいる自分を感じていた。


 津田の行為は、許されざる暴である。だが、その背後には何層にも重なるものがある。それをこの法廷は、切り取って捨てていこうとしている。


 この場にはいない誰か。

 この場にはいない何か。

 そうした影の気配だけが、津田の無表情の奥に滲んでいた。


 川辺は思わず、傍聴席から法廷の中央を見渡した。

 自分が今、何を見ているのかが分からなくなる――言葉の輪郭より先に、感覚の底で、裁かれていない何かを感じ取っていた。


 


 閉廷が告げられたのは、午前十一時過ぎ。


 津田は短く頭を下げただけで、護送の看守に囲まれて法廷を去っていった。

 歓声も怒声もない。拍手も罵声もない。

 ただ、重く、やりきれない空気が後に残った。


 


 川辺は、法廷の外に出る前に、一枚だけノートを切り取り、懐にしまった。

 記事には使わない。だが、書かねばならなかった。

 この国の“理”が、今どこに置かれているのか、その断面を忘れぬために。


 ――“理”の代わりに、“帳”が降ろされている。

 そんな感覚が、今も胸に残っていた。


(続く)

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