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刑吏の刃  作者: 長谷川慶三
第四章 重量の中で
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いまだ、語らず

 東京・内務省本館 警保局会議室 明治二十四年五月二十三日・午前十時


 雨がまだ残る朝、霞が関の奥にある簡素な会議室には、内務省、外務省、司法省の中堅幹部たちが顔を揃えていた。


 壁の時計が十時を指すと、村岡がゆっくりと口を開いた。


「……ロシアからの返書は、まだ届いていないな?」


「はい。ペテルブルク発、昨晩の電報はすべて“通例の儀礼的反応”にとどまっています」


 外務省の事務官がうなずく。

 机上には、翻訳された電報文と、各新聞の号外が束ねられている。


 村岡はその紙束を無言で見下ろした。


「何も言ってこない。それが今、一番の恐怖だ。何が“足りない”のか分からないまま、我々は猜疑の中心に立たされている」


 誰も反論しなかった。


「謝罪は行った。見舞いも続けている。……だが、これで“十分”かどうかは、ロシアが決めるのだ」


「補償の提示は……」


 司法官僚が言いかけると、村岡が制した。


「補償も用意する。金銭か、勲位か、あるいは――誰かの更迭すらも含めて、あらゆる可能性をだ」


 部屋の空気が一瞬、重くなった。


「報道については手は打った筈だが、“津田の所在不明”が燻っている。あれが火種になれば、政情不安としてロシアが抗議してくる口実になる」


 外務省の一人が、あえて反問した。


「……しかし、ロシアはまだ“抗議してきていない”。今この段階で、国内に手を入れるのは――」


 村岡は、視線を鋭く向けた。


「ロシアが沈黙しているからこそ、我々は“全部”を用意せねばならんのだ。謝罪も、補償も、鎮静策も、世論の監視もだ」


「彼らが“怒っている”と宣言してからでは、すべてが遅い。沈黙が崩れる前に、手を打つ。それが、危機管理というものだ」


 外はまた、小雨が降り出していた。


 村岡は目を伏せ、手元の書類を閉じた。


「この国が“言われる前に動ける国”であることを、今こそ示さねばならぬ」


 部屋の奥で、電信官がそっと紙束を差し出した。

「モスクワ経由、ロイター配信。ロシア紙一面にて“日本の内政混乱”との見出し、あり」


 全員が、わずかに息を飲んだ。


            *


「……ロイター発、というのは確かか?」


 村岡は、椅子に深く身を沈めながら問い返した。


 報告に立った電信局員は、硬い声で答えた。


「はい。モスクワから送られた内容を、ロンドン経由でロイター通信が配信。英文原稿が横浜経由で回され、今朝、外務省に届いております」


 机上には、まだ乾ききらぬ薄紙の翻訳抄録が数枚、重ねられていた。


『日本、内部混迷に揺らぐ──津田三蔵事件の影響は治まらず』

『東京の民衆動揺、議会に波及の兆し』

『政府の対応に透明性欠如の懸念』


 いずれも、事実そのものよりも、“伝えられた空気”の報道だった。


「……連中は、“報じた”のではない。“嗅ぎ取った”のだ」


 村岡は低く呟いた。


「言葉を尽くしていない我々に、彼らが与えたのは“意味づけ”だ。こちらが何も語らなければ、世界は好き勝手に語る。それが報道というものだ」


 外務省の随員が口を挟む。


「しかしこの程度の論調は、欧州報道においては常套の範囲です。“混乱”の文字が出たとはいえ、抗議や非難には至っておりません」


「……だが、それを“好機”と見る勢力が、国内にある」


 村岡は、そっと別の紙片を取り出す。新聞の草稿だ。


「議会質問、読売、そして先ほどの萬朝報も。彼らは“空白”を報じ続ける。まるでその中央に何かを埋め込もうとでもするようにな」


 誰も言葉を返さなかった。


 そのとき、外務省随員がふと疑問を口にした。


「……司法省の方でも、報道への“指導”が始まったと聞いています。先ほどの畠山某の件を理由に?」


「うむ」と村岡はうなずいた。「あちらは“司法手続き中につき詳細は非開示”という立場を取っている。つまり“語らぬことで守る”方法だ」


「では、内務省とは別の対応なのですか?」


 村岡は静かに言った。


「我々は“語らせぬことで抑える”。司法は“語らぬことで逃げる”。似て非なるが、いまはそれでよい。黙っていることが、今は最良の策になりうる」


 そのとき、部屋の扉がノックされ、若い官吏が報告に入った。


「ただいま、司法省より通達。畠山某の件、詳細の把握が済み次第、報道各社への“要請”を行うとのことです」


 外務省の人間が怪訝な顔をした。


「……“あの自死の件”が、規制の理由になるのですか?」


 村岡が目を細める。


「当たり前だ。昨日のことだぞ。若い婦人が、剃刀で喉と胸を切り自決した。まだ口外もはばかられるが、事実として確認されている」


「彼女ひとりだけではない。国民感情が、この件で極度に不安定になっている。あれが東京で起きたからこうして知れるのだ。……地方で、今も似た事案があったとして、我々に把握できると思うか?」


 重い沈黙が流れた。


 村岡は立ち上がり、窓際へ向かった。外は灰色の雲のままだ。


「“言わぬこと”が、やがて“奪う”のだ。人の判断も、感情も、そして命すらも」


「ロシアが黙している今、我々が整えるべきは、対応ではない。“物語”だ。彼らの怒りの導火線を、こちらで消しておかねばならん」


 背後の机上には、ロイター電報の一文が、今も揺れていた。


《The Japanese government is seen as withholding clarity on the attacker’s status.》


“攻撃者の身柄に関し、日本政府は明確な説明を避けていると見られる”


 村岡は、最後に呟いた。


「……この国の“曖昧さ”が、海を越えた。言葉で収めねばならぬ時だ」


(続く)

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