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刑吏の刃  作者: 長谷川慶三
第四章 重量の中で
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報せの代償

 東京・内務省 官房会議室/明治24年5月23日 午前十時


 扉の向こうで、誰かが小声で騒いでいた。

 村岡が席に着くと、場はすでに張り詰めた空気で満たされていた。


 机上には、読売・東京日日・萬朝報などの新聞が並び、川辺の「姿なき被疑者」記事に赤線が引かれている。


「報道各社に、“これ以上の詮索記事は慎むよう”申し入れる――と。あなたの名で、内々に通達されたとか」

 最初に口を開いたのは、外務省の書記官だった。


「なぜ、そんな命令を。政府が“報道に圧力をかけている”と受け取られかねません」


「事実を覆い隠す意図は?」

「津田の行方が、いよいよ怪しまれるだけだ」


 官僚たちが次々と詰め寄った。


「……理由は、昨日の件だ」

 村岡の声は、静かだった。


 一瞬、空気が止まる。


「昨日の件……?」


 村岡は手元の封書を、無造作に持ち上げた。

「畠山勇子――あの女学生が、自ら命を絶った。皇太子殿下の無事を願い、“命にて償う”などと、書き残して」


 しばしの沈黙。


「君たちは、読んだろう。朝の新聞の片隅に載っていた。“哀悼すべき美談”として、文芸欄のような扱いだったな」


 村岡の声音が冷たくなる。


「だがな――あれは、国家がひとりの少女を死に追いやったということだ。

 新聞に書かれた“想い”に影響され、命を絶ったのだ。まるで、それが“正義”であるかのように」


 村岡の言葉に誰一人として返せなかった。


「我々は、もう一人、いや十人、百人の畠山を生むつもりか? “犯人が見えない”という一点だけで、国民がそこまで思い詰めるのだぞ!」


 声が響いた。


「“知る権利”や“報道の自由”を盾に、火のついた言葉を無限に拡散させるつもりか。誰が、どこで、命を絶つか知れたものではない」


 記者クラブの代表が立ち上がった。


「では、報道は黙れと? “感情”が動くから、真実を書くなとおっしゃるのか」


 村岡は冷ややかに言った。


「真実を書け。だが、“炎”に煽られて“構図”を描き出すな。津田が“見えない”ことを“国家の闇”にするなら、それは報道ではなく、煽動だ」


 外務省の役人が割って入る。


「……ならば明確にしていただきたい。報道各社に“圧をかけた”理由を、政府としてどう説明するのか。これは、言論弾圧の疑いを招く」


 村岡は鋭く言い返した。


「黙らせたいのではない。だが、煽るな。煽って死者を出したのだ。昨日、確かに。畠山勇子の件を軽視するな。君たちが目にしたのは一件だ。だが、心を動かされた者は、何千、何万といた。“言葉”で国を動かしたいのなら、まず、言葉の責任を理解しろ」


 沈黙。


 重く、深く、刺すような沈黙だった。


「……私は、報道を敵とは思わん」

 村岡はふたたび椅子に沈んだ。


「だが、“誰かが死んだのに”、言葉を止めなかった――そう思われる時代は、もうすぐそこまで来ている」


            *


 読売新聞社 編集会議室・午後


「……報道自粛、だと?」


 川辺が手渡された通達を読みながら、信じられないという顔をした。


「“事件に関する論評および被疑者の所在、精神状態等の報道は、慎重を期すように”……これは圧力です」


 主幹は黙ってそれを見ていた。


「慎重に、とは言うが……黙ってろ、の婉曲表現だ」


 別の記者が呟く。


「畠山勇子の件、読んだか? あれが引き金になったらしい」

「……けどな、それとこれとは違うだろ」


 川辺は、手帳の端に書いていた言葉を、静かに引いた。


“沈黙とは、暴力に屈することでなく、暴力の出発点を失うことだ。”


 ⸻


 * 東京・夜の街角


 新聞の号外が、少しだけ減った。

 街の人々は、かえって不気味さを感じ取っていた。


「津田の続報、ぱったり止まったな……」

「やっぱり、何かあるんじゃねえのか」


 沈黙が、逆に語り始めていた。


(続く)


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