見えざる座標
――明治二十四年五月二十二日・東京
霞が関の記者クラブに所属する各社の記者たちは、この日一斉に、ある紙片に目を通していた。
それは、警視庁から届けられた「津田三蔵の仮移送に関する補足説明」であり、内容は実に簡素だった。
「大津市第二留置所において、被疑者津田三蔵の身柄は安全に保管されている。取材は現地警察を通じて許可された場合に限る。健康状態、処遇、今後の取り調べ方針については、司法判断に委ねられるため、回答は差し控える。」
「……つまり、“何も言わない”ということだな」
川辺の書いた記事が、霞が関に波紋を走らせてから、まだ二十四時間も経っていない。
記事の見出しは――
《姿なき被疑者》
副題には、
「司法の壁に沈む真相」
とあった。
「今回ばかりは、川辺の書きっぷりが目立ってるな。あれは……突っ込みすぎだと見る向きもある」
読売新聞の社内でも、そうした意見は少なくなかった。
だが、主幹は止めなかった。
事実、どこにも“誤報”はなかった。
“存在しない者”を描いたのではない、“見えないもの”を描いたのだ。
**
――東京・内務省
「報道が混乱を煽っていると、そう言いたいのか?」
村岡は、前に立つ広報官の言葉を遮った。
「いや……それは……」
「ならば黙れ。私は“報道が語ってしまったこと”のほうに、興味がある」
机上には、川辺の原稿と、後追いで似た論調を取った東京日日新聞、萬朝報、さらには大阪朝日までもが取り上げた紙面が重ねられていた。
いずれも――“津田三蔵が今どこにいるのか”を問うていた。
村岡は思った。
これはもはや、津田という個人の問題ではない。
“存在が確認できないこと”が、一種の象徴となりつつあるのだ。
**
川辺は東京へ戻っていた。
草津からの帰京列車の車中でも、記者は目を閉じながら自問を繰り返した。
(何を暴いたのか? 何を逃したのか?)
記事は反響を呼んだ。だが、それだけだった。
「いなかった」という事実だけが、ひたすらに読者の不安を増幅させている。
(私は、津田三蔵の“存在の不在”という風穴を開けただけだ)
そして今、その穴から吹き込む風は、国家を冷やし、国民を震わせはじめていた。
**
――東京・読売新聞社編集部
「……津田三蔵は、もう“人”じゃないんですよ」
若手記者のひとりが、ぽつりと口にした。
「“見えない者”として放っておくことで、誰かが、何かを得ている。得ている者がいるんです」
それは、川辺自身がまだ言葉にしていなかった直感でもあった。
(誰が、何のために、“津田の姿”を隠している?)
新聞が、今まさに真空の周囲を走っている。
真空には、心を奪う力がある。
語られない中心――それこそが、**“不可視の震源”**である。
(続く)




