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刑吏の刃  作者: 長谷川慶三
第四章 重量の中で
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見えざる座標

 ――明治二十四年五月二十二日・東京


 霞が関の記者クラブに所属する各社の記者たちは、この日一斉に、ある紙片に目を通していた。

 それは、警視庁から届けられた「津田三蔵の仮移送に関する補足説明」であり、内容は実に簡素だった。


「大津市第二留置所において、被疑者津田三蔵の身柄は安全に保管されている。取材は現地警察を通じて許可された場合に限る。健康状態、処遇、今後の取り調べ方針については、司法判断に委ねられるため、回答は差し控える。」


「……つまり、“何も言わない”ということだな」


 川辺の書いた記事が、霞が関に波紋を走らせてから、まだ二十四時間も経っていない。


 記事の見出しは――

《姿なき被疑者》

 副題には、

「司法の壁に沈む真相」

 とあった。


「今回ばかりは、川辺の書きっぷりが目立ってるな。あれは……突っ込みすぎだと見る向きもある」


 読売新聞の社内でも、そうした意見は少なくなかった。


 だが、主幹は止めなかった。

 事実、どこにも“誤報”はなかった。

“存在しない者”を描いたのではない、“見えないもの”を描いたのだ。


 **


 ――東京・内務省


「報道が混乱を煽っていると、そう言いたいのか?」


 村岡は、前に立つ広報官の言葉を遮った。


「いや……それは……」


「ならば黙れ。私は“報道が語ってしまったこと”のほうに、興味がある」


 机上には、川辺の原稿と、後追いで似た論調を取った東京日日新聞、萬朝報、さらには大阪朝日までもが取り上げた紙面が重ねられていた。


 いずれも――“津田三蔵が今どこにいるのか”を問うていた。


 村岡は思った。

 これはもはや、津田という個人の問題ではない。

“存在が確認できないこと”が、一種の象徴となりつつあるのだ。


 **


 川辺は東京へ戻っていた。

 草津からの帰京列車の車中でも、記者は目を閉じながら自問を繰り返した。


(何を暴いたのか? 何を逃したのか?)


 記事は反響を呼んだ。だが、それだけだった。

「いなかった」という事実だけが、ひたすらに読者の不安を増幅させている。


(私は、津田三蔵の“存在の不在”という風穴を開けただけだ)


 そして今、その穴から吹き込む風は、国家を冷やし、国民を震わせはじめていた。


 **


 ――東京・読売新聞社編集部


「……津田三蔵は、もう“人”じゃないんですよ」


 若手記者のひとりが、ぽつりと口にした。


「“見えない者”として放っておくことで、誰かが、何かを得ている。得ている者がいるんです」


 それは、川辺自身がまだ言葉にしていなかった直感でもあった。


(誰が、何のために、“津田の姿”を隠している?)


 新聞が、今まさに真空の周囲を走っている。


 真空には、心を奪う力がある。

 語られない中心――それこそが、**“不可視の震源”**である。


(続く)


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