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刑吏の刃  作者: 長谷川慶三
第四章 重量の中で
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不可視の震源

 * 東京・内務省 官房会議室 午後一時


 分厚いカーテンが陽を遮る。灰緑の壁と黒塗りの机、重苦しい空気。

 村岡は黙って、机上の新聞と一枚の報告書を交互に見ていた。


 その紙面には、読売新聞――川辺の署名記事が、大きく見出しを飾っていた。


「姿なき被疑者」――津田三蔵“移送先”に異変


「……まずいな」と警保局の官僚が口を開く。


「このままでは“津田の行方が不明”だと世間が確信しかねない。しかも、政府が意図的に隠していると……」


 外務省の出席者は不満げに唇を引き結んだ。


「ただでさえ、ロシア側との補償交渉が控えている。こんな報道が出続ければ“口裏合わせ”の疑念をもたれる」


 村岡は静かに言った。


「……だが、発表通りに扱っても、彼の存在は“説明”にならない。“津田は黙り、国家もまた黙る”――その構図が世間に火をつけたのだ」


 司法省の官僚が提案した。


「精神鑑定の結果を一部開示しては? “責任能力に問題がある”と示せば、世論の矛先も和らぐ」


 村岡は即座に却下した。


「……それでは、政治の逃げ口上と見られる。いま“語らない”ことの代償は、想像以上に大きい」


 場は沈黙に包まれた。


 その間にも、壁際の電信係が新着記事を複写して持ち込んでくる。

 新聞各社は対応に割れていた。

 ある紙は川辺の記事をなぞるだけ。ある紙は「過度な追及は自粛すべき」と論じ始めていた。


「……これは、対外問題ではない。むしろ、我々の足元の問題だ」

 村岡は、川辺の記事に目を落としながら呟いた。


「“見せぬ”ことと“存在しない”は、紙一重である」


「……記者はもう、“疑念”ではなく“構造”を問うてきている。我々が、津田の存在を使って、何を隠しているのかを」


 誰も、即答できなかった。


 ⸻


 * 読売新聞社 編集会議室 午後四時


「……これは、煽ってると言われても仕方がない」

 論説部長が苦い顔で川辺の原稿を読み上げた。


「現地取材には意味がある。ただ、“いない”と断定的に見せる文調はどうかと」


 川辺は黙って聞いていた。

 その隣で、主幹が言葉を挟む。


「……私は、この稿を通した責任は負う。ただし、次は、君自身が“読者の反応”を想定して書いてくれ」


 川辺が頷いた。


「わかってます。……でも、“書く”ことそのものが、向こうを動かしている。そう感じています」


「動かすために書いているのか? 真実を明らかにするためではなく?」


 川辺は目を伏せる。


「……動いたからこそ、次が引き出せると思ってます。でなきゃ、何も進まない」


 編集会議は、次第に言葉を失っていった。


 ⸻


 * 東京市中・あちこちの声


 駅前の売り子:

「読売です、津田続報! 移送先は偽装!? 中で何が――!」


 下町の食堂にて労働者たち:

「ほんとに移送されてんのか、あれ。殺されてんじゃねえのか」

「いや、隠してるだけだよ。そもそも皇太子の命が助かってんのに、なんでこんなに隠す必要あるんだよ」


 女学生たちの会話:

「新聞、読んだ? なんか怖いよね。姿が見えない犯人なんて、映画みたい」

「“なかったこと”にしようとしてるんじゃないの?」


 声は、混濁し、拡散し、形を変えていった。

 津田という“存在しない存在”が、かえって社会をざわつかせていた。


 ⸻


 * 帝国議会・傍聴席にて


 ある若手議員が質疑通告書を提出した。


「次回本会議にて質問:

 “津田三蔵被疑者の現状と、移送・収監の実態に関する政府答弁を求む”」


 その噂は議会周辺の新聞記者たちに漏れ、すぐさま電信で社に伝えられた。


 川辺はその報を受け、手帳に書き込んだ。

“議場に、津田の名が上がる”――それは新たな段階だった。


 ⸻


 * 夜の内務省 村岡の独白


 村岡はひとり、灯りの残る執務室にいた。

 机上の新聞と、津田の監視報告を交互に読みながら、手を止める。


(……言葉を奪われた者の輪郭が、こんなにも世界を揺らすとはな)


 思わず、封の開かれていない一通の封書を見つめる。

「大津地方裁判所」からの公式書類。


 開けることを、ためらう。


(この国は、“理解できぬ者”の前で、途端に口をつぐむ)

(それを突きつけられているのは、我々のほうだ)


 新聞には、川辺の名前。

 あの若き記者が放った一文が、今も目に焼きついて離れなかった。


《沈黙が支配する街にて――取材記》


 村岡は小さく息を吐いた。


「――空白を抱える者と、空白を統治しようとする者。

  いずれが、先に言葉を失うか」


 外には雨が降り出していた。

 低く、静かに。


(続く)


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