不可視の震源
* 東京・内務省 官房会議室 午後一時
分厚いカーテンが陽を遮る。灰緑の壁と黒塗りの机、重苦しい空気。
村岡は黙って、机上の新聞と一枚の報告書を交互に見ていた。
その紙面には、読売新聞――川辺の署名記事が、大きく見出しを飾っていた。
「姿なき被疑者」――津田三蔵“移送先”に異変
「……まずいな」と警保局の官僚が口を開く。
「このままでは“津田の行方が不明”だと世間が確信しかねない。しかも、政府が意図的に隠していると……」
外務省の出席者は不満げに唇を引き結んだ。
「ただでさえ、ロシア側との補償交渉が控えている。こんな報道が出続ければ“口裏合わせ”の疑念をもたれる」
村岡は静かに言った。
「……だが、発表通りに扱っても、彼の存在は“説明”にならない。“津田は黙り、国家もまた黙る”――その構図が世間に火をつけたのだ」
司法省の官僚が提案した。
「精神鑑定の結果を一部開示しては? “責任能力に問題がある”と示せば、世論の矛先も和らぐ」
村岡は即座に却下した。
「……それでは、政治の逃げ口上と見られる。いま“語らない”ことの代償は、想像以上に大きい」
場は沈黙に包まれた。
その間にも、壁際の電信係が新着記事を複写して持ち込んでくる。
新聞各社は対応に割れていた。
ある紙は川辺の記事をなぞるだけ。ある紙は「過度な追及は自粛すべき」と論じ始めていた。
「……これは、対外問題ではない。むしろ、我々の足元の問題だ」
村岡は、川辺の記事に目を落としながら呟いた。
「“見せぬ”ことと“存在しない”は、紙一重である」
「……記者はもう、“疑念”ではなく“構造”を問うてきている。我々が、津田の存在を使って、何を隠しているのかを」
誰も、即答できなかった。
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* 読売新聞社 編集会議室 午後四時
「……これは、煽ってると言われても仕方がない」
論説部長が苦い顔で川辺の原稿を読み上げた。
「現地取材には意味がある。ただ、“いない”と断定的に見せる文調はどうかと」
川辺は黙って聞いていた。
その隣で、主幹が言葉を挟む。
「……私は、この稿を通した責任は負う。ただし、次は、君自身が“読者の反応”を想定して書いてくれ」
川辺が頷いた。
「わかってます。……でも、“書く”ことそのものが、向こうを動かしている。そう感じています」
「動かすために書いているのか? 真実を明らかにするためではなく?」
川辺は目を伏せる。
「……動いたからこそ、次が引き出せると思ってます。でなきゃ、何も進まない」
編集会議は、次第に言葉を失っていった。
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* 東京市中・あちこちの声
駅前の売り子:
「読売です、津田続報! 移送先は偽装!? 中で何が――!」
下町の食堂にて労働者たち:
「ほんとに移送されてんのか、あれ。殺されてんじゃねえのか」
「いや、隠してるだけだよ。そもそも皇太子の命が助かってんのに、なんでこんなに隠す必要あるんだよ」
女学生たちの会話:
「新聞、読んだ? なんか怖いよね。姿が見えない犯人なんて、映画みたい」
「“なかったこと”にしようとしてるんじゃないの?」
声は、混濁し、拡散し、形を変えていった。
津田という“存在しない存在”が、かえって社会をざわつかせていた。
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* 帝国議会・傍聴席にて
ある若手議員が質疑通告書を提出した。
「次回本会議にて質問:
“津田三蔵被疑者の現状と、移送・収監の実態に関する政府答弁を求む”」
その噂は議会周辺の新聞記者たちに漏れ、すぐさま電信で社に伝えられた。
川辺はその報を受け、手帳に書き込んだ。
“議場に、津田の名が上がる”――それは新たな段階だった。
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* 夜の内務省 村岡の独白
村岡はひとり、灯りの残る執務室にいた。
机上の新聞と、津田の監視報告を交互に読みながら、手を止める。
(……言葉を奪われた者の輪郭が、こんなにも世界を揺らすとはな)
思わず、封の開かれていない一通の封書を見つめる。
「大津地方裁判所」からの公式書類。
開けることを、ためらう。
(この国は、“理解できぬ者”の前で、途端に口をつぐむ)
(それを突きつけられているのは、我々のほうだ)
新聞には、川辺の名前。
あの若き記者が放った一文が、今も目に焼きついて離れなかった。
《沈黙が支配する街にて――取材記》
村岡は小さく息を吐いた。
「――空白を抱える者と、空白を統治しようとする者。
いずれが、先に言葉を失うか」
外には雨が降り出していた。
低く、静かに。
(続く)




