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刑吏の刃  作者: 長谷川慶三
第四章 重量の中で
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消された輪郭

 五月二十一日、午後。

 滋賀県大津市、第二留置所――と名簿に記された建物は、かつて町役場の倉庫だった。


「……本当に、ここに?」


 川辺は、建物の前で立ち止まり、汗ばんだ額に手をかざした。


 そこには、警察庁の公式発表にあるような厳重な警備の姿はない。

 出入口に詰めていたのは地元の巡査ひとり。鉄扉も傷んでおり、鍵すら簡素なもので済まされていた。


「津田三蔵被疑者、仮移送先――の筈です」


 同行していた司法担当の記者が、記者証を懐にしまいながら呟いた。


「報道各社には“詳細取材は遠慮せよ”と一報が入ってた。例によって、理由の説明は一切なし」


「……“遠慮せよ”とは、随分と丁寧な命令だな」


 川辺は皮肉気に笑い、警察官に声をかける。


「読売新聞です。被疑者の状況確認と、取材申し入れを」


 警察官は、一瞬目を伏せると、すぐに定型句を返してきた。


「現在、応対できる責任者は不在です。被疑者の所在・容態についても、上から回答を控えるよう指示されております」


「じゃあ、ここに誰かいるかどうかも言えない?」


「申し訳ありません」


 ――それは、「いない」ことを肯定するような態度だった。


 川辺は扉の前に立ち、耳を澄ませた。


 内側からは、何の物音もしない。

 話し声も、足音も、衣擦れの気配すらない。まるで――空き家だった。


「……おかしい。ここは“移送先”として公表されてるんだぞ? 仮とはいえ、それなら監視や看護の体制が整ってるはずだろうに」


「しかも、今朝からずっとこの状態らしい。俺たちが来ることも知られてたのに」


 同行した記者が、周囲を見回しながら声をひそめる。


「正直に言えば、もう別の場所にいるって噂もある。“表の発表用”に、この施設を残してるだけなんじゃないかって」


「……帳簿の移送か」


 川辺はぽつりと呟き、首を振った。


 **


 午後五時。

 川辺は草津駅近くの宿に戻り、記事を一気に書き上げた。

 机の上には、夕陽が斜めに差し込んでいた。


 ⸻


【見出し】


「姿なき被疑者」――津田三蔵“移送先”に異変


 記事は、次のように始まる。

 本紙記者が本日、滋賀県警の発表した「仮移送先」に足を運んだが、施設には看守の姿も薄く、内部に被疑者がいる気配もなかった。記者の取材には「詳細は控える」との一点張り。


 この対応は、司法が今なお津田三蔵を特別視していることの現れであり、また“存在そのもの”を曖昧にしようとする意思を感じさせる。


【本文より抜粋】


 この施設に人の往来は見られなかった。看守の人数、巡回の状況、記録の開示――いずれも通常の留置管理とは程遠い。


 津田が“ここにいない”可能性は否定できず、情報公開がなされぬまま司法手続きが進行しているとすれば、これは重大な問題である。


「見せぬ」ことと「存在しない」は、紙一重である。


 真実は、いま、壁の向こうにさえ影を落とさぬほど遠い。


            *


 ――東京・内務省、村岡の執務室


 記事が電信で送られた数時間後、その一部始終を報告として受け取ったのは村岡だった。


 彼の机上に置かれた一枚の写しには、鉛筆で引かれた赤線がいくつも重なっていた。


 村岡は黙ったまま読み進め、ふと、視線を窓の外に向けた。


「……次の手を、打たねばなるまいな」


 言葉は誰に向けられたものでもなかった。

 だが、彼の指先はすでに机上の別の紙束へと伸びていた。


 それは、先ほど届いたばかりの報告書の綴りだった。


 ――滋賀県大津署にて、津田三蔵の身柄を監視している看守による、日々の観察記録である。


 村岡は一枚目をめくると、ゆっくりと読み始めた。


           *


「……静かすぎる」


 村岡は報告書の数ページ目を捲りながら、そう呟いた。


 記された津田三蔵の行動は、あまりに整然としていた。

 叫びも、抵抗も、後悔もない。

 あるのは決まった時間に起床し、食し、黙して座り、そして再び眠る、その反復。


 記録によれば、津田は移送直後、数度にわたって取調べを受けていた。

 だが、供述は最小限であり、自白と呼べるものはほとんどない。


「質問ニハ、短ク答フ。容疑ノ認否、曖昧ナリ。皇太子ニ対スル敵意ヲ肯定セズ、否定モセズ」


 その態度は、まるで“解釈される”ことそのものを拒んでいるかのようだった。


 村岡は、報告書の末尾に添えられた看守の短い感想に目を止めた。


「……彼ハ、己ヲ以テ“何者”ト定義スル意思ヲ有セズ。

 然レド、故ニ恐ロシキ者也。即チ、空白ハ解釈ヲ許サズ、空白ヲ巡リ人々ハ騒グナリ」


 そこには、過剰な恐怖も、怒りもない。

 ただ、対象を見つめ続けた者だけが知る静謐な異質さがあった。


 村岡は、書類の背を指でなぞる。

 紙の繊維が、わずかにささくれていた。


(彼は、“殺意”の中に己を投じてなお、国家から何一つ引き出されていない。

 自白も、主張も、思想も。誰も彼を“利用”できていない)


 それは、狂人であるよりも――はるかに厄介な存在だった。

「動機なき暴発」は、国家にとって“最も語りづらい現実”である。


 狂信でも、思想でも、陰謀でもなければ、いったい何が残るのか。

 人々の問いに、国家は何を差し出せばいいのか。


 そして今、新聞が――川辺が――それを問うている。


(“語られぬ者”を前に、我々は何を語るのか)


 村岡は書類を静かに閉じた。

 視線を窓の外に向ければ、薄く曇った午後の陽が、斜めに落ちていた。


 ふと、机の脇に置かれた新聞が目に入る。

 川辺の署名記事が、紙面の中心を占めている。


《沈黙が支配する街にて――取材記》


 読み返すまでもなかった。

 それは、村岡の内部にも芽生えつつある問いを、先んじて言葉にしたものだった。


 そして、それを許したのは、あの主幹であり――

 止めなかったのは、今の政府そのものである。


(……この空白を、語らねばならない時が来る)


 だが、その“語り”は、誰に託すべきか。


 村岡はもう一度、報告書の最後の頁を見つめた。

 空白のような津田の輪郭が、逆説的に、日本という国家の影を浮かび上がらせていた。


(――言葉を失う国に、言葉を問う記者がいる)


 そして自分は、どちらの側に立つのか。

 ただ、それだけが残っていた。


(続く)

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