表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
刑吏の刃  作者: 長谷川慶三
第四章 重量の中で
35/58

裂け目の上を歩く

 五月二十日午前、読売新聞・東京本社。

 編集局は、珍しく沈黙に包まれていた。


 掲載された川辺の記事――「沈黙の壁」。

 津田三蔵というひとりの襲撃犯が、いかに語らず、そしていかに“語らせぬ”空気に包まれているかを描いた数千字の特集。

 怒りとも困惑ともつかぬ読者の反応が、朝から編集局に溢れていた。


 電話番の内勤記者が、受話器を置くなり呟いた。


「『なぜ、こんなに情報が出ないのか』って。五十過ぎの主婦が泣きながら訴えてた」


「正義はどこにあるんだ、ってさ。津田が憎いのは当たり前だけど、それを“見せない”のはおかしいって……」


 川辺は自席に黙って座っていた。

 記事は書いた。だが、反響が大きければ大きいほど、どこかに冷えた空洞が残った。


 主幹・原田が会議室から戻ってきた。


「川辺」


「……はい」


「お前の書いた記事、私のとこにも届いてる。いいか――正論だ。だがな……」


 原田は言葉を選んでいた。


「正義と報道は、時にズレる。世論が動けば、政も動く。政が動けば、新聞社の屋台骨も揺れる」


「それでも、やらなければならないことはあると思います」


「その通りだ」


 原田は軽く頷いた。


「だから、今回は止めない。が――**一線は越えるな。**わかるな?」


 川辺は、小さく息を飲んだ。


「……見えにくいんです、その“一線”が。今は特に」


「見えないから記者なんだよ。見えてしまったら、ただの伝書鳩だ」


 主幹の言葉は、軽やかで、それゆえに重かった。


 会議室が再び静まる。


 川辺は深く頭を下げると、資料を手に席を立った。


 裂け目は確かにあった。

 報道と権力のあいだに、世論と国家のあいだに、そして自分自身の心の中に。

 だが、その上を歩かなければならない。

 紙の上にしか残らない、かすかな足跡であっても。


 川辺は、次の記事の構想メモに「記録と裁き」と書きつけた。


 世論は求めていた。

 国家が書かないなら、我々が書くしかない。


 新聞記者とは、そういう職業なのだ。


            *


 昼を過ぎた頃、編集局の空気はさらに緊張を帯び始めていた。

 内務省が、「過熱する言論」への対応として、各紙に**「穏当な筆致」を求める**“要請”を出したという情報が、記者クラブを通じて伝わってきたのだ。


「言論の自由を、空気で縛るってか……」


 社会部長が、ぴしゃりと紙を机に叩きつけた。


「“刺激的な表現は控えられたし”だとよ。どの口が言ってんだ」


 会議室に集められた中堅・若手記者たちの視線が、ひとつの方向を向いていた。

 川辺だ。


「川辺、お前の記事が引き金になった。自覚してるか?」


「……はい」


「責めてるんじゃない。だが、これからが本番だぞ。俺たちは何を書くか、どう書くか、見られている」


「書かなければ、新聞の意味がなくなります」


 川辺の声は低く、それでいて確かだった。


「“穏当”の定義を、役所に任せるわけにはいかない。僕らが線を引かなければ」


「言ったな、若造」


 誰かが苦笑交じりに言ったが、空気は張り詰めたままだった。


 すると、そこへ一本の内線が入った。

 社会部の机にいた記者が受話器を取る。


「はい、読売新聞……はい……ええ? ……わかりました」


 電話を置いた男の顔が引き締まる。


「滋賀から。例の津田移送に関して、ひとつ動きが」


「なんだ?」


「……拘禁場所が、当初の発表から変更された可能性がある。表向きは京都だが、実際は別の場所に運ばれたかもしれないと」


 一瞬、室内に沈黙が落ちる。


 川辺の胸が、静かに高鳴った。


「隠している――?」


「そう断言はできないが、何かを覆っているような印象があるってさ。取材拒否が異常に徹底している、とも」


「……もう一度、現地に人を送るべきだ」


 川辺が口を開いた。


「次は、“どこにいないか”を探すんじゃない。“なぜ見せないか”を探る取材にする」


 社会部長は、しばらく黙っていたが、やがて頷いた。


「よし。だが今度はひとりじゃ行かせない。中堅をつける。動け」


 川辺は立ち上がり、会議室を出た。


 **


 廊下の窓から、午後の空が見えた。

 明るくも、晴れてもいない。

 だが、確かに風が吹いていた。


 裂け目の上に、紙の橋を渡すような仕事。

 その脆さも、危うさも、分かっている。

 だが、進まねばならない。

 この裂け目の下にこそ、真実が眠っているのだから。


(続く)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ