裂け目の上を歩く
五月二十日午前、読売新聞・東京本社。
編集局は、珍しく沈黙に包まれていた。
掲載された川辺の記事――「沈黙の壁」。
津田三蔵というひとりの襲撃犯が、いかに語らず、そしていかに“語らせぬ”空気に包まれているかを描いた数千字の特集。
怒りとも困惑ともつかぬ読者の反応が、朝から編集局に溢れていた。
電話番の内勤記者が、受話器を置くなり呟いた。
「『なぜ、こんなに情報が出ないのか』って。五十過ぎの主婦が泣きながら訴えてた」
「正義はどこにあるんだ、ってさ。津田が憎いのは当たり前だけど、それを“見せない”のはおかしいって……」
川辺は自席に黙って座っていた。
記事は書いた。だが、反響が大きければ大きいほど、どこかに冷えた空洞が残った。
主幹・原田が会議室から戻ってきた。
「川辺」
「……はい」
「お前の書いた記事、私のとこにも届いてる。いいか――正論だ。だがな……」
原田は言葉を選んでいた。
「正義と報道は、時にズレる。世論が動けば、政も動く。政が動けば、新聞社の屋台骨も揺れる」
「それでも、やらなければならないことはあると思います」
「その通りだ」
原田は軽く頷いた。
「だから、今回は止めない。が――**一線は越えるな。**わかるな?」
川辺は、小さく息を飲んだ。
「……見えにくいんです、その“一線”が。今は特に」
「見えないから記者なんだよ。見えてしまったら、ただの伝書鳩だ」
主幹の言葉は、軽やかで、それゆえに重かった。
会議室が再び静まる。
川辺は深く頭を下げると、資料を手に席を立った。
裂け目は確かにあった。
報道と権力のあいだに、世論と国家のあいだに、そして自分自身の心の中に。
だが、その上を歩かなければならない。
紙の上にしか残らない、かすかな足跡であっても。
川辺は、次の記事の構想メモに「記録と裁き」と書きつけた。
世論は求めていた。
国家が書かないなら、我々が書くしかない。
新聞記者とは、そういう職業なのだ。
*
昼を過ぎた頃、編集局の空気はさらに緊張を帯び始めていた。
内務省が、「過熱する言論」への対応として、各紙に**「穏当な筆致」を求める**“要請”を出したという情報が、記者クラブを通じて伝わってきたのだ。
「言論の自由を、空気で縛るってか……」
社会部長が、ぴしゃりと紙を机に叩きつけた。
「“刺激的な表現は控えられたし”だとよ。どの口が言ってんだ」
会議室に集められた中堅・若手記者たちの視線が、ひとつの方向を向いていた。
川辺だ。
「川辺、お前の記事が引き金になった。自覚してるか?」
「……はい」
「責めてるんじゃない。だが、これからが本番だぞ。俺たちは何を書くか、どう書くか、見られている」
「書かなければ、新聞の意味がなくなります」
川辺の声は低く、それでいて確かだった。
「“穏当”の定義を、役所に任せるわけにはいかない。僕らが線を引かなければ」
「言ったな、若造」
誰かが苦笑交じりに言ったが、空気は張り詰めたままだった。
すると、そこへ一本の内線が入った。
社会部の机にいた記者が受話器を取る。
「はい、読売新聞……はい……ええ? ……わかりました」
電話を置いた男の顔が引き締まる。
「滋賀から。例の津田移送に関して、ひとつ動きが」
「なんだ?」
「……拘禁場所が、当初の発表から変更された可能性がある。表向きは京都だが、実際は別の場所に運ばれたかもしれないと」
一瞬、室内に沈黙が落ちる。
川辺の胸が、静かに高鳴った。
「隠している――?」
「そう断言はできないが、何かを覆っているような印象があるってさ。取材拒否が異常に徹底している、とも」
「……もう一度、現地に人を送るべきだ」
川辺が口を開いた。
「次は、“どこにいないか”を探すんじゃない。“なぜ見せないか”を探る取材にする」
社会部長は、しばらく黙っていたが、やがて頷いた。
「よし。だが今度はひとりじゃ行かせない。中堅をつける。動け」
川辺は立ち上がり、会議室を出た。
**
廊下の窓から、午後の空が見えた。
明るくも、晴れてもいない。
だが、確かに風が吹いていた。
裂け目の上に、紙の橋を渡すような仕事。
その脆さも、危うさも、分かっている。
だが、進まねばならない。
この裂け目の下にこそ、真実が眠っているのだから。
(続く)




