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刑吏の刃  作者: 長谷川慶三
第四章 重量の中で
34/58

記録の外と内

 五月二十一日、午後四時。

 内務省政務室、村岡の机に一通の封筒が届いた。


 差出人は、滋賀県庁矯獄課――

 表向きは形式的な移送報告だが、付箋に小さく「別添:報告書抜粋あり」と書かれていた。


 村岡は静かに封を開け、中から綴じられた数枚の紙を取り出した。


 それは、津田三蔵の移送と収監に伴う日常観察報告だった。

 記録者は刑務所付の看守――実名はなく、ただ「監視担当・第二係」とだけ記されている。


 ⸻


《報告開始:五月十九日 午前十時二十分》


 収監対象者・津田三蔵、午前九時十五分、護送車にて大津署より出発。

 移送中、一切の発言なし。窓外を見つめていた。


 同日 十時三十二分、滋賀監獄着。入構時、礼も拒否せず、身体検査に無抵抗。


 顔色、やや蒼白。目の動き、終始一定。

 食事、完食。排泄、正常。特段の身体不調なし。


 質問「寒くはないか?」に対し、「平気です」とのみ返答。


 ⸻


(……平気、か)


 村岡は静かに読み進めながら、額に手をあてた。


 ⸻


《五月二十日 午後一時》

 午前から午後にかけての読書:辞書、仏教経典、古文書。

 傍らに置いた筆記用紙に、三文字のみ記入を確認。


不如帰ほととぎす


 意味を問うも、応答なし。


 ⸻


(ほととぎす、か)


 村岡はその言葉を、喉の奥で転がすように反芻した。

 悲しき渡り鳥、あるいは、血を吐くように鳴くという俗説――


「……まさか、感傷ではあるまいな」


 ぼそりと呟いた声が、自室に小さく反響する。


 ⸻


《同日 夜間》

 看守の歩哨に対し、唐突に「故郷の家は今もあるか」と問う。

 回答「知りません」と返すと、再び沈黙。


 以降、終夜無言。

 明け方、床に正座して瞑目。時間にして約四十分。


 ⸻


 村岡は報告を閉じた。


 そこには、“罪人”としての激情もなければ、“義士”としての誇りもなかった。

 ただ、静謐な、あるいは過剰に整った沈黙が、彼の周囲に貼り付いていた。


 あの男は、何も語らない。

 語らぬことで、何を差し出し、何を拒んでいるのか。


「……いや、語らせてはならぬのかもしれん」


 ぽつりと漏れた言葉は、自問とも諦念ともつかない。


 それでも、村岡は報告書を再び手に取り、袖に挟んだ。

 これは、政務としての記録ではない。

“国家が、まだ理解し得ない存在”との接触記録だ。


 そしてその向こう側には、もう一つの“空白”があった。


 世論、報道、政争、皇室、そして――列強。


 この一人の沈黙が、いま、国家全体の声の在り方を問いかけている。


 村岡は立ち上がり、報告書をロック付きの書棚にそっとしまった。


 それは、彼にとっての“内なる記録”となった。


           *


 内務省政務室、午後五時過ぎ。

 外はもう暮れかけていた。


 報告書を読み終えた村岡の元に、秘書官が小走りに戻ってきた。


「……外務省の林局長から、非公式の打診です。ロシア側が“当該人物の処遇に遺憾の念を表明している”とのこと」


「そうか」


 村岡は応接室のソファに腰を下ろしたまま、声だけで応じた。


「……で、何を要求している」


「裁判を迅速に、そして公開の形を避けるように――との意向です。“示威”にしないでくれと」


 村岡は短く目を閉じた。

 示威ではなく、静粛な処置。

 ロシア皇太子の名誉に対する“火消し”の要求は、既にいくつも飛び交っていた。


 だが、それは国内の火を消すことと、しばしば矛盾する。


「……“静かに吊れ”ということか。都合の良い話だな」


 秘書官が小さく咳払いする。


「ただし、ロシア側は“こちらでしかできないことは任せる”と。つまり、裁きそのものは内務の裁量だと、理解しているようです」


「つまり、“責任はこちらへ預けた”という体裁を取りつつ、火種を渡してきた、か」


 机上の煙草箱に手を伸ばし、村岡は一本抜いた。

 火を点けず、唇にくわえたまま天井を見上げる。


「……なぜ語らないのか。なぜ、ほととぎすなどと書くのか。自覚しているかも怪しい、あの男は」


「意味がございますか?」


 村岡は煙草を指で弾いた。


「意味など、後からつけるものだ。我々が“彼に語らせた”とされれば、その内容すら後付けの象徴となる」


「つまり……?」


「この報告書は、国家の言葉に変換される。そういう運命にある。“津田三蔵は何者だったか”など、国が定義してしまえば終わりだ」


 部屋の隅で時計が鳴った。


 午後五時半。


 村岡は立ち上がり、上着を取り、秘書官に言った。


「この報告書、外には出すな。“起訴資料”とは分けて保管しろ」


「はい」


「そして……この報告を外務に写してはならない。“沈黙”こそが今、外交の均衡を保っているのだから」


 秘書官が深く頷いた。


「では、どう処理を……」


「……“処理”ではない」


 村岡は背を向けて歩きながら、ぽつりと呟いた。


「これは“封印”だ」


 その言葉は、書類よりも重く、声よりも静かに空間を満たした。


(続く)

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