記録の外と内
五月二十一日、午後四時。
内務省政務室、村岡の机に一通の封筒が届いた。
差出人は、滋賀県庁矯獄課――
表向きは形式的な移送報告だが、付箋に小さく「別添:報告書抜粋あり」と書かれていた。
村岡は静かに封を開け、中から綴じられた数枚の紙を取り出した。
それは、津田三蔵の移送と収監に伴う日常観察報告だった。
記録者は刑務所付の看守――実名はなく、ただ「監視担当・第二係」とだけ記されている。
⸻
《報告開始:五月十九日 午前十時二十分》
収監対象者・津田三蔵、午前九時十五分、護送車にて大津署より出発。
移送中、一切の発言なし。窓外を見つめていた。
同日 十時三十二分、滋賀監獄着。入構時、礼も拒否せず、身体検査に無抵抗。
顔色、やや蒼白。目の動き、終始一定。
食事、完食。排泄、正常。特段の身体不調なし。
質問「寒くはないか?」に対し、「平気です」とのみ返答。
⸻
(……平気、か)
村岡は静かに読み進めながら、額に手をあてた。
⸻
《五月二十日 午後一時》
午前から午後にかけての読書:辞書、仏教経典、古文書。
傍らに置いた筆記用紙に、三文字のみ記入を確認。
『不如帰』
意味を問うも、応答なし。
⸻
(ほととぎす、か)
村岡はその言葉を、喉の奥で転がすように反芻した。
悲しき渡り鳥、あるいは、血を吐くように鳴くという俗説――
「……まさか、感傷ではあるまいな」
ぼそりと呟いた声が、自室に小さく反響する。
⸻
《同日 夜間》
看守の歩哨に対し、唐突に「故郷の家は今もあるか」と問う。
回答「知りません」と返すと、再び沈黙。
以降、終夜無言。
明け方、床に正座して瞑目。時間にして約四十分。
⸻
村岡は報告を閉じた。
そこには、“罪人”としての激情もなければ、“義士”としての誇りもなかった。
ただ、静謐な、あるいは過剰に整った沈黙が、彼の周囲に貼り付いていた。
あの男は、何も語らない。
語らぬことで、何を差し出し、何を拒んでいるのか。
「……いや、語らせてはならぬのかもしれん」
ぽつりと漏れた言葉は、自問とも諦念ともつかない。
それでも、村岡は報告書を再び手に取り、袖に挟んだ。
これは、政務としての記録ではない。
“国家が、まだ理解し得ない存在”との接触記録だ。
そしてその向こう側には、もう一つの“空白”があった。
世論、報道、政争、皇室、そして――列強。
この一人の沈黙が、いま、国家全体の声の在り方を問いかけている。
村岡は立ち上がり、報告書をロック付きの書棚にそっとしまった。
それは、彼にとっての“内なる記録”となった。
*
内務省政務室、午後五時過ぎ。
外はもう暮れかけていた。
報告書を読み終えた村岡の元に、秘書官が小走りに戻ってきた。
「……外務省の林局長から、非公式の打診です。ロシア側が“当該人物の処遇に遺憾の念を表明している”とのこと」
「そうか」
村岡は応接室のソファに腰を下ろしたまま、声だけで応じた。
「……で、何を要求している」
「裁判を迅速に、そして公開の形を避けるように――との意向です。“示威”にしないでくれと」
村岡は短く目を閉じた。
示威ではなく、静粛な処置。
ロシア皇太子の名誉に対する“火消し”の要求は、既にいくつも飛び交っていた。
だが、それは国内の火を消すことと、しばしば矛盾する。
「……“静かに吊れ”ということか。都合の良い話だな」
秘書官が小さく咳払いする。
「ただし、ロシア側は“こちらでしかできないことは任せる”と。つまり、裁きそのものは内務の裁量だと、理解しているようです」
「つまり、“責任はこちらへ預けた”という体裁を取りつつ、火種を渡してきた、か」
机上の煙草箱に手を伸ばし、村岡は一本抜いた。
火を点けず、唇にくわえたまま天井を見上げる。
「……なぜ語らないのか。なぜ、ほととぎすなどと書くのか。自覚しているかも怪しい、あの男は」
「意味がございますか?」
村岡は煙草を指で弾いた。
「意味など、後からつけるものだ。我々が“彼に語らせた”とされれば、その内容すら後付けの象徴となる」
「つまり……?」
「この報告書は、国家の言葉に変換される。そういう運命にある。“津田三蔵は何者だったか”など、国が定義してしまえば終わりだ」
部屋の隅で時計が鳴った。
午後五時半。
村岡は立ち上がり、上着を取り、秘書官に言った。
「この報告書、外には出すな。“起訴資料”とは分けて保管しろ」
「はい」
「そして……この報告を外務に写してはならない。“沈黙”こそが今、外交の均衡を保っているのだから」
秘書官が深く頷いた。
「では、どう処理を……」
「……“処理”ではない」
村岡は背を向けて歩きながら、ぽつりと呟いた。
「これは“封印”だ」
その言葉は、書類よりも重く、声よりも静かに空間を満たした。
(続く)




