火薬の匂い
五月十八日、午前七時。読売新聞朝刊。
京都監獄への津田三蔵移送が、昨日未明に実施された――
そんな文言で始まる短い記事は、川辺が書いた長文の特集と並ぶように、一面の中央に配置されていた。
津田は、厳重な護送のもと警視庁を出発し、静かに、黙って京都へと送られた。
報道陣の前に姿を見せることはなかった。
そして、それを咎める者も、擁護する者もいない。
ただひたすらに、**「見えないままの処遇」**という空白だけが、人々の想像と怒りを膨らませていた。
皇太子の退院と帰国の報も、既に既定路線として並んでいる。
紙面には、「国家としての節目」が整然と並ぶ――だが、川辺の文章は、その空白を切り裂いていた。
「一国の未来が、静かに封じられてゆく。
警備は厚く、言葉は薄く。
真実はどこに置かれているのか――」
その紙面が東京中に広がった同じ頃、
霞が関の外務省では、ひとつの扉が重く閉じられた。
**
外務省・第四局。会議室。午前七時三十分。
ロシア帝国の駐日公使館からの使者――三等書記官クズミンが、革の書類鞄を抱えて席に着いた。
対応するのは、外務省欧亜局長と、宮内庁から派遣された参与。そして、陸軍省の参謀一名。
「――あらためて申し上げますが、我が国の立場は、先日お伝えした通りです。
『あの男がなぜ生きているのか』という声が、ロシア国内では依然、根強く存在している。
皇太子殿下のご寛大なご意志には深く感謝しておりますが、政府としての処置が、あまりにも“穏当”に見えるのです」
欧亜局長は答えなかった。代わりに、宮内庁の参与が口を開く。
「処分は司法に委ねられております。未決の段階で、我々行政機関が論評するのは……」
クズミンは静かに、だがはっきりと言った。
「日本国内の世論において、“死刑を求む”という声が多数を占めていることは承知しています。
それが外交上、どのように利用されるかも、もちろん理解しております」
「つまり?」
「処罰の重さと、“国際的なメッセージ”の強度は、無関係ではないということです。
ロシア皇族への攻撃が“軽く裁かれた”という印象は、結果として貴国の立場を危うくするでしょう」
「脅しですか?」
「警告です」
会議室の空気が、数秒間、張り詰めたまま凍った。
やがて、クズミンが革の鞄を開けた。
「……皇太子殿下の書状、並びにロシア側議会の声明案の草稿です。
日本政府に対し、“誠意ある司法措置と情報開示”を求める内容です。
発表は数日後。もちろん、その間に**『応答』があれば再考します**」
つまり――
日本政府が、処分の方向性を「国際的にわかる形で」示すならば、声明は差し控えると。
だが、それがなければ――公表し、列強を巻き込む構えだということだ。
**
会議室の外には、まだ梅雨前の朝の湿気が漂っていた。
新聞の紙面が、街を駆ける。
だがその裏で、静かな外交戦が今、動き始めていた。
*
五月十八日、午後三時。
霞が関・内務省第五会議室。
部屋の窓は閉じ切られ、分厚いカーテンが外光を遮っていた。空調もない蒸し暑さのなか、官僚たちは汗を滲ませながら、重苦しい議論を交わしていた。
「――既に諸紙は津田の処遇問題を一面で取り上げています。報道の論調は“政府の姿勢”を問うものへと変わりつつある」
社会局の官僚が言う。
「現場の警察は何をしていたのか。司法は機能しているのか。ひいては、国家が“誰に忠義を誓っているのか”という話にまで、飛び火しかねません」
別の局次長が続けた。
村岡は、会議室の隅で黙したまま、議事を聞いていた。
朝から、川辺の書いた記事を何度も読み返していた。
「声なき声の沈黙が語るもの」――それは、火に油を注ぐような言葉だった。だが、確かに世間の“共鳴”を呼び起こしていた。
「ロシアからの正式な抗議は、まだ届いておりません」
外務省出向の参与が言った。
「が、昨日、ペテルブルクの新聞社数社が一斉に日本政府の“不作為”を報じました。露帝の信頼回復には、“刑”が必要であるとの論調です」
「法の名のもとに、外国の圧力に応じるのか?」
一人の中年官僚が眉をひそめる。
「――では、国内の声は?」と、村岡がようやく口を開いた。
「国民の怒りは、いまや事実以上のものになりつつあります。政府が動かねば、言論が代わりに火を点ける。川辺のような若造が、その導火線を手にしている」
一瞬、室内にざわめきが起こる。
川辺という名に、何人かが反応した。
「読売のあれは、少々やりすぎでは?」
「いいや、あれで“社会の声”が実在していることが証明されたのだ」
村岡は、胸の内にふたつの重りを抱えていた。
ひとつは、言論が国家を凌駕する恐れ。
もうひとつは、国家が言論を踏みにじる危険。
――この秤を、どちらに傾けるか。
「津田の処遇は?」
「二日以内に予審が再開される予定です。大審院からも静かな督促が来ています」
「政務次官は?」
「黙しています。ただし、“内務省が責任を持って火消しを”という暗黙の示唆はありました」
会議が続くなか、村岡はゆっくりと立ち上がった。
「……私は、諸氏の意見とは異なる立場に立ちます」
一同が、彼を見た。
「津田に対する司法手続きは、法に則って粛々と行うべきです。しかし、同時に――政府は“今の言葉”を持たねばならない。
黙して済む時代は、もう終わった。民は、新聞に目を凝らし、耳を傾け、街頭で声を上げ始めています。
沈黙は、判断とみなされるのです」
「……つまり、声明を出せと?」
「はい。大臣か、せめて政務次官が“司法の独立”と“国の威信”を共に語るべきです。
そしてその上で、“報道の節度”にも触れておく。言葉が必要なのです。今、政府にも」
沈黙が落ちた。
「君は……言葉で火を消せると思っているのか?」
「火を消すのではありません。方向を変えるのです。さもなくば、風に煽られたこの火は、誰の手にも負えなくなります」
言葉は、静かだった。しかしその響きは、満場を支配していた。
会議の終わりに、大臣秘書官が村岡に歩み寄り、耳打ちした。
「……政務次官が、君の言葉を引用したいそうだ」
村岡は、無言で頷いた。
霞の奥で、ひとつの天秤が、わずかに傾いた。
(続く)




