表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
刑吏の刃  作者: 長谷川慶三
第三章 遠ざかる天蓋
31/58

火薬の匂い

 五月十八日、午前七時。読売新聞朝刊。


 京都監獄への津田三蔵移送が、昨日未明に実施された――


 そんな文言で始まる短い記事は、川辺が書いた長文の特集と並ぶように、一面の中央に配置されていた。


 津田は、厳重な護送のもと警視庁を出発し、静かに、黙って京都へと送られた。

 報道陣の前に姿を見せることはなかった。

 そして、それを咎める者も、擁護する者もいない。

 ただひたすらに、**「見えないままの処遇」**という空白だけが、人々の想像と怒りを膨らませていた。


 皇太子の退院と帰国の報も、既に既定路線として並んでいる。

 紙面には、「国家としての節目」が整然と並ぶ――だが、川辺の文章は、その空白を切り裂いていた。


「一国の未来が、静かに封じられてゆく。

 警備は厚く、言葉は薄く。

 真実はどこに置かれているのか――」


 その紙面が東京中に広がった同じ頃、

 霞が関の外務省では、ひとつの扉が重く閉じられた。


 **


 外務省・第四局。会議室。午前七時三十分。


 ロシア帝国の駐日公使館からの使者――三等書記官クズミンが、革の書類鞄を抱えて席に着いた。


 対応するのは、外務省欧亜局長と、宮内庁から派遣された参与。そして、陸軍省の参謀一名。


「――あらためて申し上げますが、我が国の立場は、先日お伝えした通りです。

『あの男がなぜ生きているのか』という声が、ロシア国内では依然、根強く存在している。

 皇太子殿下のご寛大なご意志には深く感謝しておりますが、政府としての処置が、あまりにも“穏当”に見えるのです」


 欧亜局長は答えなかった。代わりに、宮内庁の参与が口を開く。


「処分は司法に委ねられております。未決の段階で、我々行政機関が論評するのは……」


 クズミンは静かに、だがはっきりと言った。


「日本国内の世論において、“死刑を求む”という声が多数を占めていることは承知しています。

 それが外交上、どのように利用されるかも、もちろん理解しております」


「つまり?」


「処罰の重さと、“国際的なメッセージ”の強度は、無関係ではないということです。

 ロシア皇族への攻撃が“軽く裁かれた”という印象は、結果として貴国の立場を危うくするでしょう」


「脅しですか?」


「警告です」


 会議室の空気が、数秒間、張り詰めたまま凍った。


 やがて、クズミンが革の鞄を開けた。


「……皇太子殿下の書状、並びにロシア側議会の声明案の草稿です。

 日本政府に対し、“誠意ある司法措置と情報開示”を求める内容です。

 発表は数日後。もちろん、その間に**『応答』があれば再考します**」


 つまり――

 日本政府が、処分の方向性を「国際的にわかる形で」示すならば、声明は差し控えると。

 だが、それがなければ――公表し、列強を巻き込む構えだということだ。


 **


 会議室の外には、まだ梅雨前の朝の湿気が漂っていた。

 新聞の紙面が、街を駆ける。

 だがその裏で、静かな外交戦が今、動き始めていた。


           *


 五月十八日、午後三時。

 霞が関・内務省第五会議室。

 部屋の窓は閉じ切られ、分厚いカーテンが外光を遮っていた。空調もない蒸し暑さのなか、官僚たちは汗を滲ませながら、重苦しい議論を交わしていた。


「――既に諸紙は津田の処遇問題を一面で取り上げています。報道の論調は“政府の姿勢”を問うものへと変わりつつある」

 社会局の官僚が言う。


「現場の警察は何をしていたのか。司法は機能しているのか。ひいては、国家が“誰に忠義を誓っているのか”という話にまで、飛び火しかねません」

 別の局次長が続けた。


 村岡は、会議室の隅で黙したまま、議事を聞いていた。

 朝から、川辺の書いた記事を何度も読み返していた。

「声なき声の沈黙が語るもの」――それは、火に油を注ぐような言葉だった。だが、確かに世間の“共鳴”を呼び起こしていた。


「ロシアからの正式な抗議は、まだ届いておりません」

 外務省出向の参与が言った。

「が、昨日、ペテルブルクの新聞社数社が一斉に日本政府の“不作為”を報じました。露帝の信頼回復には、“刑”が必要であるとの論調です」


「法の名のもとに、外国の圧力に応じるのか?」

 一人の中年官僚が眉をひそめる。


「――では、国内の声は?」と、村岡がようやく口を開いた。

「国民の怒りは、いまや事実以上のものになりつつあります。政府が動かねば、言論が代わりに火を点ける。川辺のような若造が、その導火線を手にしている」


 一瞬、室内にざわめきが起こる。

 川辺という名に、何人かが反応した。


「読売のあれは、少々やりすぎでは?」

「いいや、あれで“社会の声”が実在していることが証明されたのだ」


 村岡は、胸の内にふたつの重りを抱えていた。

 ひとつは、言論が国家を凌駕する恐れ。

 もうひとつは、国家が言論を踏みにじる危険。


 ――この秤を、どちらに傾けるか。


「津田の処遇は?」

「二日以内に予審が再開される予定です。大審院からも静かな督促が来ています」

「政務次官は?」

「黙しています。ただし、“内務省が責任を持って火消しを”という暗黙の示唆はありました」


 会議が続くなか、村岡はゆっくりと立ち上がった。


「……私は、諸氏の意見とは異なる立場に立ちます」


 一同が、彼を見た。


「津田に対する司法手続きは、法に則って粛々と行うべきです。しかし、同時に――政府は“今の言葉”を持たねばならない。

 黙して済む時代は、もう終わった。民は、新聞に目を凝らし、耳を傾け、街頭で声を上げ始めています。

 沈黙は、判断とみなされるのです」


「……つまり、声明を出せと?」


「はい。大臣か、せめて政務次官が“司法の独立”と“国の威信”を共に語るべきです。

 そしてその上で、“報道の節度”にも触れておく。言葉が必要なのです。今、政府にも」


 沈黙が落ちた。


「君は……言葉で火を消せると思っているのか?」


「火を消すのではありません。方向を変えるのです。さもなくば、風に煽られたこの火は、誰の手にも負えなくなります」


 言葉は、静かだった。しかしその響きは、満場を支配していた。


 会議の終わりに、大臣秘書官が村岡に歩み寄り、耳打ちした。


「……政務次官が、君の言葉を引用したいそうだ」


 村岡は、無言で頷いた。

 霞の奥で、ひとつの天秤が、わずかに傾いた。


(続く)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ