燃える紙の上で
五月十七日、読売新聞東京本社。
編集局内には、いつになく重たい熱気が渦巻いていた。
前日の朝刊、川辺が寄稿した「沈黙の意志」と題された記事は、予想を遥かに超える反響を呼んだ。
読者からの電話、投書、街頭での声――それらは全て、“よくぞ書いた”という賛辞と、“あれは何を意味するのか”という問いに満ちていた。
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「……おい、本当にお前が書いたのか?」
編集会議を終えた直後、社会部のベテラン記者が、川辺に声をかけてきた。
声の調子は穏やかだったが、その目には鋭い光が宿っていた。
「ええ。大津で感じたことを、ありのままに書きました」
「感じたこと、ね……。それを“書ける”のは、勇気か、無鉄砲か。たぶん両方だな」
皮肉とも賞賛ともつかない言葉に、川辺は何も返さなかった。
だが、横にいたデスクが低くうなった。
「……記事の骨は、通ってた。あの空気を文字にしたのは、お前が初めてだ。
ただ、これで“目をつけられる”のもお前だ」
「政府筋からの照会があったそうだよ。社主のところに」
別の記者が小声で囁いた。
川辺の胸に、ひやりとした冷気が走った。だが、怯えるより先に、別の感情が湧いた。
自分の言葉が、誰かの神経に触れた――それは、確かに届いた証でもあった。
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午後、編集主幹・柳原が川辺を呼び出した。
広くもない執務室。机の上には数部の朝刊が積まれていた。
一面に掲げられた記事の見出しを、柳原はじっと見ていた。
「……よく書いたな」
それは、叱責ではなかった。
むしろ、慎重に言葉を選んだ“肯定”だった。
「内容に虚偽はなかった。表現も抑えていた。だが――」
「波紋を呼ぶと、分かっていました」
川辺ははっきりと応じた。
「それでも書かなければ、記者の意味がないと思いました」
柳原は、しばし沈黙したあと、小さくうなずいた。
「……お前の言葉には、“真実”がある。ただ、それは“真実だけ”で成り立つものじゃない。
社の方針、世の空気、政治との緊張――それらの“間”を読むのもまた、新聞人だ」
「では、書くべきでなかったと?」
「いや、書いたことは間違いじゃない。
だがこれからは、“そのあと”も背負って生きるんだ。お前の文章は、誰かを動かす。良くも悪くも」
そう言って、柳原は朝刊の一部を川辺の前に差し出した。
「明日から、紙面構成を一部任せる。
社会面の下段、読者の声や周辺取材をまとめる欄だ。お前の目で、“空気の変化”を追え」
川辺は、わずかに目を見開いた。
昇進ではない。だが、確かな“信頼の形”だった。
「……はい。やります」
言葉に迷いはなかった。
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夕方、編集局の片隅で、若い記者が川辺に声をかけた。
「俺、正直あの記事、泣きそうになりました。ああいう風に“書けるようになりたい”って思った」
川辺は、少しだけ目を伏せて笑った。
「俺も、書きながら泣きそうだったよ。何も出てこないくせに、言いたいことだけが溢れてな」
その夜、川辺は一人で再び原稿に向かった。
“今、何をどう伝えるべきか”――その問いは、もはや職務ではなく、自分自身の問いとなっていた。
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燃えるような世論の熱の中で、
新聞という紙の上に何を刻むか――川辺の闘いは、静かに続いていた。
(続く)




