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刑吏の刃  作者: 長谷川慶三
第一章 大津より、急報。
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報道統制線

 午後三時をわずかに回った内務省政務課。

 京の陽はわずかに傾き始め、窓の格子に斜めの光がかかっていたが、庁舎の空気は張り詰めていた。


 「――各紙に対し、皇太子襲撃に関する記事の一切を差し止めとする」


 村岡理一は口調を抑えながら、手元の書類を改めた。

 政務課の机上には、急ごしらえの「報道遮断通達案」が数通、毛筆と謄写版の二種で準備されている。


 「差し止め理由は、“外国賓客に関する不正確な報道が、外交上の重大支障を生じる恐れがあるため”。

  そのまま記せ。語尾は『命ず』ではなく『指導を要する』程度でよい」


 「かしこまりました」


 若い記録係がうなずき、筆記に戻る。


 外では、すでに新聞社の使者たちが内務省前に集まりはじめていた。

 東京日日、郵便報知、読売、二六新報――。

 玄関前に列をなし、何が起きたのか、どこまで報じてよいのかを探っている。


 「――内報線を越えて来ている記者がいる。警衛に伝えて、応接室に一名ずつ通させろ」


 村岡の声に、課の書記官が一瞬たじろいだ。


 「通されますか? 全面拒絶の方針では?」


 「黙らせるには、理由が要る」


 村岡は低く答えた。


 記者を完全に遮断すれば、彼らは“嗅ぎまわる”。

 半歩だけ入れ、半歩だけ見せ、あとは煙に巻く――それが政務課の仕事だった。


 やがて、読売新聞の記者・川辺と名乗る男が応接に通された。


 「お伺いします。大津方面で、何か……ロシアの、ニコライ皇太子が――」


 「それ以上はお控えください」


 村岡が静かに遮った。


 「確認を申し上げます。現時点において、各紙は本件に関する報道を見合わせていただきたい。内務省からの正式通達が、まもなく貴社へ送達されます。

 この件に関する不正確な報道は、重大な外交問題を――」


 「“外交問題”というのは、“事実”なのですね?」


 記者の口調ににじむ怒りと興奮。

 若い。目が赤い。きっと前夜から泊まり込みで動いているのだろう。


 「言葉尻を捉えないでいただきたい。国家間の信義と秩序のため、報道各社の節度あるご対応を、内務省としても……」


 扉がノックされた。政務課の記録係が、別室から急ぎ戻ってきた。


 「村岡様、滋賀県庁より続報――急報文、届きました」


 村岡は、川辺を一瞥し、無言で立ち上がる。


 「この件は、貴紙の論説主幹を通じ、改めてお伝えします。……今日は、これ以上は申し上げられません」


 記者が何か言いかけたが、すでに村岡は書記官に目配せし、応接室から立ち去っていた。


 政務課の控室に戻ると、急報電文が机上に置かれていた。

 紙は湿り気を含み、文字はかすれていたが、確かにこう記されていた:



【至急電】

滋賀県大津署供述報告抜粋

被疑者 津田三蔵 巡査(富山県出身)

本日午後一時二〇分頃、大津市京町付近にて皇太子殿下の巡覧中、背後より接近し抜刀、

殿下の顔面左側部に斬撃を加う。

護衛近衛兵、随行のアレクセーエフ提督、及び随員により即時制圧。

現在、大津署にて拘束中。供述内容未確定。

皇太子殿下、頭蓋骨に損傷疑いあり。現地にて応急手当後、京都へ移送の見込み。

加害者動機未詳。

外国随員激昂、現地駐留官憲に対し強く抗議。

滋賀県知事、軍医及び通訳同席にて対応継続中。

―― 滋賀県警察部



 村岡は静かに読み下ろし、最後に大きく息を吐いた。

 “アレクセーエフ”――あの男が随行していたとなると、話はさらに重い。

 ロシア艦隊の軍政中枢、東洋艦隊の次期司令官格。彼が現地で怒声を上げているというのなら、もはやこれは“個人の暴走”では収まらない。


 「……大臣には、私から改めて上げます」


 村岡は振り向き、机の上の草案を指差した。


 「報道遮断文書に、添えよ。“滋賀県知事により、事実関係は確認中”――

 そう記せ。報道機関への不快な印象は避けたい。だが、

 “事実の確認前に筆を走らせれば、それは国を壊す刃になる”。そのことを、彼らに伝えよ」


 誰も答えなかったが、課内の空気に、一つの芯が通った。

 国家が守るものは、いまや“皇太子の命”だけではない。

 内務省が持つその自覚が、今この小さな政務課に凝縮していた。


(続く)

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