街の声 紙面の刃
五月十六日早朝。
東京、京橋の新聞舗では、読売新聞の束が飛ぶように売れていた。
「大津の記事は読売が一番詳しい」「あの若手記者の書きっぷりが本気だ」と、噂が走っていた。
──読売朝刊、三面下段、囲み記事。
**『声なき町、筆なき記事』**と題された、川辺の無署名原稿。
文章量は多くない。だが、読んだ者の心には、重い鉛のように沈みこんだ。
「なんだか、泣きそうになったよ。……わしらが言えんことを、書いてくれた」
そうつぶやいたのは、上野の蕎麦屋の主人だった。
記事を店の柱に貼り出した。客の誰もが立ち止まり、黙って目を通した。
江東の職人町。ある家では、戦地帰りの父親が息子に記事を読み聞かせていた。
「“沈黙には形がある”だとよ。あの若い記者、ただもんじゃねえな」
「じゃあ、津田ってのは、なんなんだよ」
「それが分からねえってことを、分からせてるんだろ。……それがこえぇんだよ」
新聞が人々の声を代弁しうるなら、それは事実以上の衝撃を持った。
日本橋では、雑貨店の女店主が言った。
「“語らない町”って、わたしたちのことなんじゃないかって思った。……怖くて言えないことって、あるもんね」
芝の小学校では、教員が職員室で記事を手にしながら言った。
「これは教材になる。言葉にできない状況を、こうやって記す手もあるんだな」
記事に反応したのは、東京だけではなかった。
大宮の郵便局には、早くも読売社宛の手紙が三通届いていた。
差出人は、匿名か、ただ「一読者」とだけ記された封筒ばかり。
内容は、どれも簡潔だった。
「新聞が、真実を怖がるようになったら終わりだ。続けてくれ」
「うちの町も、あんなふうに“何も起きなかったふり”をさせられるのが怖い」
「津田が何者か知らない。でも、知ろうとする人間がいるということに救われた」
夜。下町の小さな活字工房では、植字職人たちが手を止めていた。
一人の年配工が、煙草をふかしながら静かに言った。
「新聞てのはな、刃だ。砥がなきゃ鈍るし、振りかざせば折れる。でも、誰かが手に取らなきゃ意味がねえ」
記事の末尾、最後の一文。
「――我々は、声なき声を拾うために筆を持ったのではなかったか」
それは、活字を読んだ者の心の中で、問いとして残った。
そして、ひとつの空気を生んだ。
誰もが「語れぬ何か」を感じ取った日。
それが、新聞を通じて街に染み渡った瞬間だった。
世論は、煽られてはいなかった。
しかし、揺れていた。
静かに、深く。
新聞の言葉が、刀ではなく鑿のように、街の意識を彫り起こしていた。
*
五月十六日午前、霞が関。
重たい雲が垂れ込め、窓外の光もぼんやりと白かった。
内務省政務室。書類が幾重にも積まれた執務机の上に、朝刊が開かれていた。
それは、読売新聞の一面。昨日、大津を訪れた若手記者・川辺が書いた、異様な“沈黙”に関する報告だった。
「……情報が、ないのではない。“出させぬよう”にしているだけだ。
この沈黙には、意志がある。そこに立ちすくんだ。記者として、人間として。」
記事の一節を指先でなぞり、村岡は目を細めた。
その背後では、複数の役所からの人間が静かに着席していく。
内務、外務、宮内、警視庁――全て公式記録に残らぬ“調整”の場だった。
「……記事は、まっとうです。ただし、まっすぐすぎる」
口を開いたのは宮内庁参与。眉間に皺を寄せながら、静かに語る。
「“意志ある沈黙”などと書かれては、我々の対応が“作為”と捉えられる。それは困る」
「困る、で済めばよろしいですね」
と、外務省の実務官が皮肉めいて応じた。
「皇族に関わる事件。これが再燃すれば、ロシアとの熱も冷めぬまま国際面に飛び火します。
欧州諸国は、むしろこの騒動の“拡大”を歓迎するでしょう。帝政下の我が国がどこまで揺れるかを、好奇の目で見ている」
「だが、火元が記者一人では、止めようもない」
内務省官僚の一人が呻く。
「川辺という名だそうです。若い者だとか。
編集主幹と社主には伝えましたが、“萎縮させるのは逆効果”と跳ね返されました。あの社は、今や――」
「――報道という名の“別動隊”ですな」
誰かが呟いた。
部屋の空気が、さらに冷え込んだ。
――――
村岡は黙って記事を折りたたみ、静かに懐に仕舞った。
「……少し前なら、“左遷”ひとつで済んだ。
だが今は、報道が熱を帯びている。無理に封じれば、世論が“それ”を正義に変える」
沈黙が走る。
「私たちの望みは一つ。国家の動揺を最小限に抑えることです。
しかし、“沈黙でそれが可能な時代”は、終わりつつあるのかもしれません」
「どうするおつもりです?」
「“沈黙の方針”は崩さない。ただし、情報の“緩やかな供出”を始める。
読売のように突っ込まれる前に、我々自身の言葉で、最低限の説明を与える」
「譲歩ですか」
「戦略です」
村岡は即座に返した。
「情報を持つ者が、“選んで”出す。それが次善の道だと、こちらから示すのです。
記者に記事を書かせるのではなく、我々に“語らせて”いると見せる。」
時計の針が十一時を指していた。
午後には記者会見の草案を作り、夕刻には“次の波”に備えねばならない。
村岡は立ち上がった。
その胸中には、言葉が残っていた。
「この沈黙には、意志がある」
意志を持って沈めたのは、自分たちではなかったか。
その刃が、今まさに報道という形で逆流しているのだとすれば――。
「刃の届く距離が、変わったのかもしれませんな」
独りごちるように言い、村岡は扉の向こうへと姿を消した。
霞が関の廊下には、初夏の重たい光が差していた。
(続く)




