表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
刑吏の刃  作者: 長谷川慶三
第三章 遠ざかる天蓋
29/58

街の声 紙面の刃

 五月十六日早朝。

 東京、京橋の新聞舗しんぶんやでは、読売新聞の束が飛ぶように売れていた。

「大津の記事は読売が一番詳しい」「あの若手記者の書きっぷりが本気だ」と、噂が走っていた。


 ──読売朝刊、三面下段、囲み記事。

 **『声なき町、筆なき記事』**と題された、川辺の無署名原稿。

 文章量は多くない。だが、読んだ者の心には、重い鉛のように沈みこんだ。


「なんだか、泣きそうになったよ。……わしらが言えんことを、書いてくれた」


 そうつぶやいたのは、上野の蕎麦屋の主人だった。

 記事を店の柱に貼り出した。客の誰もが立ち止まり、黙って目を通した。


 江東の職人町。ある家では、戦地帰りの父親が息子に記事を読み聞かせていた。


「“沈黙には形がある”だとよ。あの若い記者、ただもんじゃねえな」


「じゃあ、津田ってのは、なんなんだよ」


「それが分からねえってことを、分からせてるんだろ。……それがこえぇんだよ」


 新聞が人々の声を代弁しうるなら、それは事実以上の衝撃を持った。


 日本橋では、雑貨店の女店主が言った。


「“語らない町”って、わたしたちのことなんじゃないかって思った。……怖くて言えないことって、あるもんね」


 芝の小学校では、教員が職員室で記事を手にしながら言った。


「これは教材になる。言葉にできない状況を、こうやって記す手もあるんだな」


 記事に反応したのは、東京だけではなかった。


 大宮の郵便局には、早くも読売社宛の手紙が三通届いていた。

 差出人は、匿名か、ただ「一読者」とだけ記された封筒ばかり。

 内容は、どれも簡潔だった。


「新聞が、真実を怖がるようになったら終わりだ。続けてくれ」


「うちの町も、あんなふうに“何も起きなかったふり”をさせられるのが怖い」


「津田が何者か知らない。でも、知ろうとする人間がいるということに救われた」


 夜。下町の小さな活字工房では、植字職人たちが手を止めていた。

 一人の年配工が、煙草をふかしながら静かに言った。


「新聞てのはな、刃だ。砥がなきゃ鈍るし、振りかざせば折れる。でも、誰かが手に取らなきゃ意味がねえ」


 記事の末尾、最後の一文。


「――我々は、声なき声を拾うために筆を持ったのではなかったか」


 それは、活字を読んだ者の心の中で、問いとして残った。

 そして、ひとつの空気を生んだ。

 誰もが「語れぬ何か」を感じ取った日。

 それが、新聞を通じて街に染み渡った瞬間だった。


 世論は、煽られてはいなかった。

 しかし、揺れていた。


 静かに、深く。

 新聞の言葉が、刀ではなくのみのように、街の意識を彫り起こしていた。


            *


 五月十六日午前、霞が関。

 重たい雲が垂れ込め、窓外の光もぼんやりと白かった。


 内務省政務室。書類が幾重にも積まれた執務机の上に、朝刊が開かれていた。

 それは、読売新聞の一面。昨日、大津を訪れた若手記者・川辺が書いた、異様な“沈黙”に関する報告だった。


「……情報が、ないのではない。“出させぬよう”にしているだけだ。

 この沈黙には、意志がある。そこに立ちすくんだ。記者として、人間として。」


 記事の一節を指先でなぞり、村岡は目を細めた。

 その背後では、複数の役所からの人間が静かに着席していく。


 内務、外務、宮内、警視庁――全て公式記録に残らぬ“調整”の場だった。


「……記事は、まっとうです。ただし、まっすぐすぎる」


 口を開いたのは宮内庁参与。眉間に皺を寄せながら、静かに語る。


「“意志ある沈黙”などと書かれては、我々の対応が“作為”と捉えられる。それは困る」


「困る、で済めばよろしいですね」

 と、外務省の実務官が皮肉めいて応じた。


「皇族に関わる事件。これが再燃すれば、ロシアとの熱も冷めぬまま国際面に飛び火します。

 欧州諸国は、むしろこの騒動の“拡大”を歓迎するでしょう。帝政下の我が国がどこまで揺れるかを、好奇の目で見ている」


「だが、火元が記者一人では、止めようもない」

 内務省官僚の一人が呻く。


「川辺という名だそうです。若い者だとか。

 編集主幹と社主には伝えましたが、“萎縮させるのは逆効果”と跳ね返されました。あの社は、今や――」


「――報道という名の“別動隊”ですな」


 誰かが呟いた。


 部屋の空気が、さらに冷え込んだ。


 ――――


 村岡は黙って記事を折りたたみ、静かに懐に仕舞った。


「……少し前なら、“左遷”ひとつで済んだ。

 だが今は、報道が熱を帯びている。無理に封じれば、世論が“それ”を正義に変える」


 沈黙が走る。


「私たちの望みは一つ。国家の動揺を最小限に抑えることです。

 しかし、“沈黙でそれが可能な時代”は、終わりつつあるのかもしれません」


「どうするおつもりです?」


「“沈黙の方針”は崩さない。ただし、情報の“緩やかな供出”を始める。

 読売のように突っ込まれる前に、我々自身の言葉で、最低限の説明を与える」


「譲歩ですか」


「戦略です」

 村岡は即座に返した。


「情報を持つ者が、“選んで”出す。それが次善の道だと、こちらから示すのです。

 記者に記事を書かせるのではなく、我々に“語らせて”いると見せる。」


 時計の針が十一時を指していた。

 午後には記者会見の草案を作り、夕刻には“次の波”に備えねばならない。


 村岡は立ち上がった。


 その胸中には、言葉が残っていた。


「この沈黙には、意志がある」


 意志を持って沈めたのは、自分たちではなかったか。

 その刃が、今まさに報道という形で逆流しているのだとすれば――。


「刃の届く距離が、変わったのかもしれませんな」


 独りごちるように言い、村岡は扉の向こうへと姿を消した。


 霞が関の廊下には、初夏の重たい光が差していた。


(続く)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ