声なき町 筆なき記事
大津から戻った川辺は、東京駅に降り立つや否や、馬車も使わず、編集局へ駆け戻った。
時刻はすでに午後十時。新聞社は夜の鼓動に包まれていた。
疲労はあった。だが、それ以上に、自分の中に渦巻く熱を、冷やしてしまうことの方が恐ろしかった。
川辺はすぐに席に着き、原稿用紙に筆を走らせた。
この文章だけは、誰にも添削させたくなかった。
書くことが、報いることだと信じた。
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記事本文(川辺の原稿)
「町に言葉がない」
大津の町を歩いた。
誰もが「知らぬ」「語れぬ」「関わらぬ」を繰り返した。
まるで口許に鍵でもかけたかのように。
だが、沈黙には形がある。
整いすぎた無関心は、訓練されたものだ。
民草の恐れか。あるいは、命じられた隠蔽か。
私は津田三蔵を追った。
だがその姿は影も見えず、経歴も、心情も、町には何ひとつ残っていなかった。
いや、残させてもらえなかったのだ。
彼の家族に取材を申し入れたが、門前払いされた。
頷いた直後に誰かの目を見て、言葉を飲み込んだ母親の顔を、私は忘れない。
恐れているのは津田の行為ではない。
語ることで何かを失う、もっと深い“何か”だった。
この国は、刃を振るった者に言葉を与えない。
そして、その沈黙こそが、次なる刃を生む土壌になる。
私は、取材を通じて「情報」を得られなかった。
だが、私は今、それを「異常」と呼ぶ勇気を持ちたい。
この国で、誰かが口を閉ざしたとき、
その声なき声を拾うのが、我々の仕事ではなかったか――
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編集主幹室にて
深夜、編集主幹・中村義蔵は原稿を読み終え、眼鏡を外した。
無言で数秒、宙を見つめる。
「……これは、記事じゃないな」
川辺が黙ったまま立っていた。原稿の再提出命令か、それとも叱責か――。
だが中村は続けた。
「これは、記者の魂の記録だ」
彼はそう言って、静かに原稿を机に置いた。
「読ませる文章だ。だが、ぎりぎりの綱を渡っている。名指しも、証言もない。匂いと温度で書いてるだけだ。……そういう記事は、紙面の“色”を変える。いや、“覚悟”がいる」
中村は立ち上がり、窓の外に視線を送った。
まだ夜は更けきらず、街のどこかに灯が残っていた。
「だが、これが今の空気だろう。内務省の“声明”が出る前に、一本、こいつを差し込もう」
「……いいんですか」
「責任は私が取る。明日、お上が何を言ってきてもな」
中村は原稿を掲げ、ぽんとそれを川辺に手渡した。
「こういう記事を書ける記者が、社にいること。それだけで、読売はまだ“新聞”だと胸を張れる」
川辺は、胸の内で何かがほどけるのを感じた。
正しく伝えられなくとも、伝える努力をしたということだけが、自分の灯だった。
編集局に戻ると、朝刊の最終校正が始まっていた。
誰もが眠く、そして鋭かった。
そんな空気の中で、川辺の原稿が一枚、静かに活字へと変わっていった。
新聞が、また少しだけ火を灯した。
(続く)




