封じられた町
五月十五日、午後二時。
川辺は再び、大津の土を踏んでいた。
前回と同じ駅前の広場。空の色も、街の風も変わらない。
だが今回は――何かが違っていた。いや、むしろ**「何も起きないことが、異常」**だった。
表通りは落ち着き払っている。行き交う人々は記者の姿を見ても目を伏せ、足を速める。
緘口令が敷かれているのは当然だ。
だが、それはまるで誰かが語ることを止めているのではなく、皆が最初から語る意志を持たないかのような沈黙だった。
川辺は商店の主に声をかけた。
「読売の者です。津田三蔵について、何か――」
返ってくるのは、曖昧な笑みと、
「いやあ、うちには関係ありませんので」
という、常套句ばかり。
町を歩くうちに、川辺は気づく。
この町の空気は、**“恐れ”ではなく、“諦め”**に包まれている。
まるで皆が、既に何かを見て、そしてそれを見なかったことにしている。
**
彼が向かったのは、津田三蔵の実家とされる住宅だった。
郊外の緩やかな坂を越えた先、古びた家並みにその家はあった。
門の前に立つと、白い暖簾が風に揺れていた。
戸を叩くと、しばらくして中から年老いた男が出てきた。
津田の父――三蔵と暮らしていたと記録されている人物に違いない。
「突然の訪問、失礼します。私は東京読売の――」
男は川辺の言葉を最後まで聞かず、首を振った。
「……わしら、もう何も申すことはありません。官の方からも、話すなと」
「それは、“話してはいけない”のですか? それとも、“話したくない”のですか?」
川辺は、食い下がるように問うた。だが、男はただ、静かに目を伏せた。
「……親が語っても、子の行いは変わりません。どうか、これで」
門が、ゆっくりと閉ざされた。
川辺はしばらく、その場から動けなかった。
話す者がいないのではない。“語るという行為自体”が、この町から消されているのだ。
**
夕暮れ近く、川辺は取材メモを一枚も取らぬまま、駅へと戻った。
道すがら、若い巡査とすれ違ったが、彼もまた無言だった。
帽子の鍔を深く被り、目を合わせることすら避けた。
川辺の頭の中に、ふいに一言が去来する。
「深く入ると、戻れんぞ」
先日、別の町で出会った年配者の言葉だった。
今、その意味が少しだけ分かる気がした。
**
列車の汽笛が遠く響いた。
川辺は、空になったメモ帳を膝に、車窓に目を向けた。
(ここには、事件の“前後”がない。あの日の“当日”しか、存在していない)
記者としては、何も得ていない。
だが、「何も語られない」ことが、この事件の最も深い“痕”なのではないか――
そんな予感だけが、胸に残った。
山並みの影が遠ざかる頃、川辺の列車はようやく琵琶湖沿いを抜け出した。
大津という町は、かくも静かに、すべてを飲み込んでいた。
*
これだけ一日中歩き回っても、何ひとつ情報が出てこない――
それ自体が異常だった。
偶然や沈黙の積み重ねではない。
誰かが、どこかで、意図的に口を閉ざさせている。
言葉の流れが、恣意的にせき止められている。
川辺は、大津の町を歩きながら、何度もその感覚に立ち返っていた。
家々の門は閉ざされている。
取材を申し込んでも、返ってくるのは決まって同じ言葉。
「知らんのですわ」
「うちは何も……よう知りません」
「そういうのは、お上に聞いてください」
まるで誰かに、言い回しまで指示されたかのような統一感。
町の空気に、「言ってはならぬこと」が、目に見えぬ札でも掲げられているかのようだった。
記者は、事実を拾いに来る。
ところが今、拾える事実など、どこにも落ちていなかった。
――いや、ちがう。
**「落ちていない」のではなく、「隠されている」**のだ。
拾われぬよう、片端から誰かが蹴散らしている。
それが誰かは言わずとも、察せられる。
そしてもうひとつ、川辺の中に芽生えていた感情があった。
怒りだった。
この沈黙は、誰のためのものだ。
町が、国が、声を失ってまで、守ろうとしているものは――なんだ。
津田三蔵という、ひとりの人間が剣を抜いた。
それだけの事件ではない。
あの一閃によって、何が動き、何が止められようとしているのか。
それを、川辺は書かなければならないと思った。
沈黙に値段をつけるのは、国家の仕事かもしれない。
だが、それを破るか否かを決めるのは、記者だ。
この空気を、風として書き残す。
それが今、自分にできる唯一の抵抗なのだ。
夕暮れの大津駅へ戻る道すがら、川辺は胸の内で原稿の書き出しを反芻していた。
「言葉が町から消えていた。
声をかけても、返ってくるのは空白ばかりだった。
まるで“語るな”という命令だけが、生き物のように歩き回っているようだった――」
それを書かなければ、記者としての自分がいなくなる気がした。
遠くで汽笛が鳴った。
空は、灰色のまま、何も語らずに沈んでいった。
(続く)




