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刑吏の刃  作者: 長谷川慶三
第三章 遠ざかる天蓋
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封じられた町

 五月十五日、午後二時。

 川辺は再び、大津の土を踏んでいた。


 前回と同じ駅前の広場。空の色も、街の風も変わらない。

 だが今回は――何かが違っていた。いや、むしろ**「何も起きないことが、異常」**だった。


 表通りは落ち着き払っている。行き交う人々は記者の姿を見ても目を伏せ、足を速める。

 緘口令が敷かれているのは当然だ。

 だが、それはまるで誰かが語ることを止めているのではなく、皆が最初から語る意志を持たないかのような沈黙だった。


 川辺は商店の主に声をかけた。

「読売の者です。津田三蔵について、何か――」

 返ってくるのは、曖昧な笑みと、

「いやあ、うちには関係ありませんので」

 という、常套句ばかり。


 町を歩くうちに、川辺は気づく。

 この町の空気は、**“恐れ”ではなく、“諦め”**に包まれている。

 まるで皆が、既に何かを見て、そしてそれを見なかったことにしている。


 **


 彼が向かったのは、津田三蔵の実家とされる住宅だった。

 郊外の緩やかな坂を越えた先、古びた家並みにその家はあった。


 門の前に立つと、白い暖簾が風に揺れていた。

 戸を叩くと、しばらくして中から年老いた男が出てきた。

 津田の父――三蔵と暮らしていたと記録されている人物に違いない。


「突然の訪問、失礼します。私は東京読売の――」


 男は川辺の言葉を最後まで聞かず、首を振った。


「……わしら、もう何も申すことはありません。官の方からも、話すなと」


「それは、“話してはいけない”のですか? それとも、“話したくない”のですか?」


 川辺は、食い下がるように問うた。だが、男はただ、静かに目を伏せた。


「……親が語っても、子の行いは変わりません。どうか、これで」


 門が、ゆっくりと閉ざされた。


 川辺はしばらく、その場から動けなかった。

 話す者がいないのではない。“語るという行為自体”が、この町から消されているのだ。


 **


 夕暮れ近く、川辺は取材メモを一枚も取らぬまま、駅へと戻った。

 道すがら、若い巡査とすれ違ったが、彼もまた無言だった。

 帽子の鍔を深く被り、目を合わせることすら避けた。


 川辺の頭の中に、ふいに一言が去来する。


「深く入ると、戻れんぞ」


 先日、別の町で出会った年配者の言葉だった。

 今、その意味が少しだけ分かる気がした。


 **


 列車の汽笛が遠く響いた。

 川辺は、空になったメモ帳を膝に、車窓に目を向けた。


(ここには、事件の“前後”がない。あの日の“当日”しか、存在していない)


 記者としては、何も得ていない。

 だが、「何も語られない」ことが、この事件の最も深い“痕”なのではないか――

 そんな予感だけが、胸に残った。


 山並みの影が遠ざかる頃、川辺の列車はようやく琵琶湖沿いを抜け出した。

 大津という町は、かくも静かに、すべてを飲み込んでいた。


            *


 これだけ一日中歩き回っても、何ひとつ情報が出てこない――

 それ自体が異常だった。


 偶然や沈黙の積み重ねではない。

 誰かが、どこかで、意図的に口を閉ざさせている。

 言葉の流れが、恣意的にせき止められている。


 川辺は、大津の町を歩きながら、何度もその感覚に立ち返っていた。


 家々の門は閉ざされている。

 取材を申し込んでも、返ってくるのは決まって同じ言葉。


「知らんのですわ」

「うちは何も……よう知りません」

「そういうのは、お上に聞いてください」


 まるで誰かに、言い回しまで指示されたかのような統一感。

 町の空気に、「言ってはならぬこと」が、目に見えぬ札でも掲げられているかのようだった。


 記者は、事実を拾いに来る。

 ところが今、拾える事実など、どこにも落ちていなかった。


 ――いや、ちがう。

 **「落ちていない」のではなく、「隠されている」**のだ。

 拾われぬよう、片端から誰かが蹴散らしている。

 それが誰かは言わずとも、察せられる。


 そしてもうひとつ、川辺の中に芽生えていた感情があった。


 怒りだった。


 この沈黙は、誰のためのものだ。

 町が、国が、声を失ってまで、守ろうとしているものは――なんだ。


 津田三蔵という、ひとりの人間が剣を抜いた。

 それだけの事件ではない。

 あの一閃によって、何が動き、何が止められようとしているのか。

 それを、川辺は書かなければならないと思った。


 沈黙に値段をつけるのは、国家の仕事かもしれない。

 だが、それを破るか否かを決めるのは、記者だ。


 この空気を、風として書き残す。

 それが今、自分にできる唯一の抵抗なのだ。


 夕暮れの大津駅へ戻る道すがら、川辺は胸の内で原稿の書き出しを反芻していた。


「言葉が町から消えていた。

 声をかけても、返ってくるのは空白ばかりだった。

 まるで“語るな”という命令だけが、生き物のように歩き回っているようだった――」


 それを書かなければ、記者としての自分がいなくなる気がした。


 遠くで汽笛が鳴った。

 空は、灰色のまま、何も語らずに沈んでいった。


(続く)


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