記者の行き先
五月十五日、午前九時十五分。
読売新聞東京本社・編集主幹室。
階上の窓から薄曇りの空が差し込んでいる。
重々しい静けさの中、川辺はドアを一つノックし、無言のまま中へ入った。
主幹の机は奥の窓際にあり、その背に黒い書棚が広がっていた。
彼はペンを置き、椅子の背にもたれたまま、川辺を一瞥した。
「……君か」
「申し訳ありません、会議後すぐにお時間を」
「話は手短に頼むよ。朝刊が出たばかりで、午後から記者会見が控えている」
「……大津に、もう一度行かせてください」
静かに、それでいて抑えた熱を孕んだ声だった。
主幹は、眼鏡越しに川辺を見つめた。口元に表情はない。
「君、前回どう戻ったか覚えてるな? 空振りもいいとこだった」
「はい」
「緘口令が敷かれ、警察も地元も口を閉じている。
現場は今、“取材対象”じゃない。“監視下”だ」
「それでも行きます。今の空気を、東京の中だけで書いていたら、新聞は死にます」
一拍の沈黙。
主幹は椅子に深く腰を落とし、鼻を鳴らした。
「……何を掴むつもりだ? 市井の声か? 津田の行方か? 新証言か?」
「“何が掴めるか”ではなく、“何があるかを知るため”に行くんです」
「詭弁に聞こえるな」
「それでも……私は、現地に触れないと、紙面に書けません。
前回の悔しさが、今も腹に残っています。だから行きます。行かせてください」
主幹はしばらく何も言わなかった。
天井の時計が、わずかに秒針の音を刻んでいた。
「……“手ぶらで戻ったら、二度と外には出さない”。そう言ったら?」
「それでも、行きます」
即答だった。川辺の手は、気づかぬうちに拳を握っていた。
主幹の目がわずかに細くなった。彼は視線を外し、窓の外の空を一瞥する。
「……現地には火種しかない。鎮火してるようで、地下ではまだ燻ってる。
おまけに“風向き”が変わり始めてる」
「だから、今しかないと思うんです」
主幹は静かに立ち上がった。窓のカーテンを少し引き、曇り空を見た。
「……名前は出すな。署名原稿は禁止だ。同行者も付けない。すべては“社の判断”という形にする」
「承知しました」
「それでも、行くのか」
「はい」
しばらくして、主幹は再び机に戻り、ペンを握った。
書類の端に、無言で自筆の許可印を押す。
「いいだろう。行け。ただし――空気だけでも持ち帰れ。記事にならんものでも構わん。
“気配”を読み取ってこい。それが、新聞にとって一番の財産だ」
「……ありがとうございます」
川辺は深く頭を下げた。
その姿に、主幹はふっとため息のように呟いた。
「紙面に火をつけるのは、いつだってお前らみたいな若い記者だ……まったく、厄介なものを育てちまったな」
その言葉に、川辺は何も返さず、静かに部屋を出ていった。
編集部の廊下を歩く足音が、新聞の鼓動を運んでいくようだった――。
*
汽車の車輪が一定のリズムで揺れる。
東京を発った列車は、川辺を再び関西へと運んでいた。
大津まで、およそ十時間。煙と油の匂いに包まれた車内で、川辺は窓の外を見つめていた。
ふと、座席に体を預けたまま、彼は一つの名を思い返した。
――津田三蔵。
この事件の加害者にして、今なお黙したままの男。
彼について、川辺が把握している情報は限られているが、それでも記者として繰り返し反芻してきた。
明治維新のすぐ後、薩摩藩の下級藩士の家に生まれたという。
生年は、1855年。
明治六年、陸軍に入隊し、軍歴を積んだ。
後に近衛砲兵隊に所属し、伍長まで進んだが、軍律違反で免職。
その後、警視庁へ。下級巡査として再起を図る。
現場勤務ではなく、書記や庶務の仕事が多かった――
「軍でも警察でも、“脇役”だった人間……か」
川辺は小さく呟いた。
手柄話や豪胆さではなく、むしろ“居場所のなさ”がこの男の経歴を支配しているように思えた。
最近まで、東京・本所署に勤務。
決して模範的な巡査ではなかったが、かといって問題を起こすような記録も、極端には見当たらない。
(むしろ“霞”のような存在だ)
目立たず、賞も罰もない。
ただ、ある日いきなり、外国皇族を襲った――それが、津田という男の全てだった。
犯行に至った動機は不明。
本人は取り調べにも一言も語らず、黙秘を貫いているという。
一部では、狂気に駆られたとの診断もある。
だが、精神病か、政治的確信か、個人的怨恨か――
いまだ定まらない。
川辺は、窓の向こうに広がる田畑を眺めた。
農夫が鍬を振るい、子供が水路を追いかけている。
日常が続いている。だが、その下に――どんな感情が伏せられているのかは、誰にも分からない。
津田もまた、そうだったのかもしれない。
「普通の顔をして、静かに、ずっと爆ぜる時を待っていたのか……」
そう呟いて、川辺は手帳を開いた。
空白のページの先頭に、鉛筆で一行だけ書き込んだ。
津田三蔵――
“語らないこと”こそ、何よりも雄弁である。
津田三蔵の事を思い返しているだけで、
車窓の外に、山並みが遠くにのぞいた。
まだ、石山を過ぎた辺りだった。
(続く)




