紙面の呼吸
五月十五日、午前八時。
読売新聞東京本社、編集局。
社会部記者・川辺は、朝刊が刷り上がった直後の局内にいた。
数時間前に新聞が市場に流れたばかりだというのに、既に次の号の準備が始まっていた。
早朝の空気は、重く、熱を含んでいた。
「……今日から、紙面の調子を変えろと?」
デスクに届いた一枚の電報に、川辺は視線を落とす。
それは“外”からの通知ではない。社内上層部、社主・子爵正力家からのものだった。
「世論、過熱の気配。紙面、加減あれ。」
たった十数文字の一文に、全てが込められていた。
「……“加減”だとさ」
言葉にした川辺は、薄く笑った。
報道が、どれだけ命を懸けて掴んだ事実を、世に伝えてきたと思っている。
それを、今になって「熱を抑えよ」とは。
傍らでは、社会部の若手記者たちが朝刊の紙面を切り抜いては、次号の特集案を検討している。
その誰もが、勢いに満ちていた。
「昨日の反響、すごいです。警察庁の対応を疑う投書が今朝だけで三十件を超えてます」
「下町の豆腐屋の親父まで、『津田を逃すな』って怒鳴り込んできたよ」
彼らの報道は、世論の鼓動と共鳴していた。
声なき怒りを紙上に載せ、街の声をかき立てた。
だが今、社の上層は――そして政治の空気は、それを抑えにかかっている。
「……では、我々は何のために書いている?」
川辺は独りごちるように言った。
すると、資料を抱えた若い男性記者が、小走りに寄ってきた。社会部の末席、まだ入社三年目の青年だった。
「“報道の自由”って、言葉だけなら耳にタコができました。でも、ほんとにそれをやる人って、いないんですね」
川辺はその目を見た。まだ若い。だが、まっすぐなまなざしだった。
「……紙面の“呼吸”を変える。それは、肺の片側を塞げと言ってるのと同じだ。死ぬよ、新聞が」
その時、社会部長が早足で駆け寄ってきた。
「村岡が、午後に発言するらしい。『過熱する言論』についての声明文を用意してるとさ」
「内務省が表に出るか……なるほど。つまり、“警告”だ」
川辺は、ふっと眉をひそめた。
「一線を引かされるぞ。“ここから先は書くな”ってやつだ」
「どうしますか。社としても、政府との摩擦は……」
「構うもんか」
川辺は立ち上がった。
窓の外、街はまだ曇りの中にある。だが、音のない焦燥が、空気の底に漂っていた。
「報道は、天気予報じゃない。空気を読むんじゃなく、空気を変えるんだ」
静かに、だが確かな声音でそう言い残し、彼は編集会議室へと歩き出した。
新聞がまた、ひとつの岐路に立たされていた。
*
昼過ぎの編集局――熱気も怒声もない、ただ妙な静けさがあった。
川辺は、机に向かっていた。資料は積み上がり、ペンは止まっている。
何かが書けそうで、書けない。言葉にした瞬間、どこかで誰かが傷つくような気がした。
「……おい、川辺」
隣席の先輩記者が声をかける。
「明日の紙面、もう出るぞ。一面、検察の“津田送致方針”。社説は、“冷静な司法の執行を”だとさ」
川辺は返事をしなかった。
「空気、変わったな。何か、見えない蓋が降りてきた感じがする」
その言葉が胸に刺さった。
昨夜までの紙面は、まだ怒っていた。
殺意の背景、津田の素性、警備体制の緩慢――紙背から熱が立ち昇るような記事を、書いていた。
だが今日は違う。
誰かが、どこかで、スイッチを切ったように――編集局の呼吸が、浅く、細くなっている。
川辺は席を立った。
編集局の端にある資料室。誰もいないその一角で、彼は壁にもたれて深く息を吐いた。
(俺たち、なんで書いてたんだっけ)
怒りに乗じて煽っていたのか?
それとも、国の安全や未来のため?
読者の気持ちに寄り添いたかっただけか?――それすら、わからなくなりかけていた。
その時、背後で声がした。
「川辺くん。書く気があるなら、今しかないぞ」
振り向けば、デスクの山村が立っていた。眼鏡を外し、疲れた目をしている。
「今夜、社説の差し替えがあるかもしれない。上は“柔らかめに”って言ってるが、社説の一本で空気は変わる」
川辺は口を開きかけたが、言葉が詰まった。
「君は若い。でも、“迷ってる”ってのは、記者の一番いい時期だ。
自分の言葉で、紙面に何ができるか考えるってのは、先輩面してる俺らよりよっぽどまっとうだよ」
そして、山村は笑って言った。
「ただな――“いつか書こう”は、永遠に書けん。迷ってる今、書け。じゃないと、空気に呑まれる」
川辺は静かに頷き、ゆっくり資料室を後にした。
**
夜、川辺の席には一枚の原稿用紙があった。
まだ推敲の余地がある、それでも形にはなっている。
「傷ついたのは、皇太子だけではない。
町の誰かも、兵士の家族も、言葉の届かない庶民も――
見えない傷を負ったまま、今を生きている。
ならば、報道とは何か。癒すものか。照らすものか。あるいは、ただ在ることに意味があるのか――」
その問いには、まだ答えがなかった。
だが、川辺の中で何かが静かに“動き始めた”。
紙面はまだ白い。
だが、その余白こそが、若い記者にとっての「戦場」だった。
*
読売新聞編集局・第五会議室。
午前九時半、日直の号令とともに、定例の編集会議が始まった。
テーブルを囲むのは、各部の部長、デスク、編集次長に外報主幹まで。
その末席に、社会部記者・川辺も資料持参で控えていた。
出席はあくまで「補佐」扱い。発言の機会はないに等しい。
「まず、昨日の反響を確認したい。社会部、どうだ」
編集次長の合図で、社会部長が立ち上がる。
「朝刊第一面と社会面の扱いについて、読者からの反響が急増しております。
中でも、“警察は本当に追っているのか”という意見が最多。
これに応じ、次号では津田の追跡状況と、警察庁の内部動向をさらに深掘りする予定です」
「……しかし、警察発表は昨日から口を閉ざし始めている。新情報はあるのか?」
「裏取り中ですが、少なくとも監察側で“誤認逮捕”を警戒する動きが出ています。
動きの遅さが表沙汰になるのを嫌っている可能性があるかと」
周囲の空気が、ほんのわずか揺れた。
この問題は既に、ただの犯人追跡ではない。
「捜査の遅れ」そのものが、警察行政への不信を呼び込んでいる。
「外信は?」
「ロシア・ウラジオストク発。複数の外交記者が“皇弟の即日退院”を巡る政変説を報じています。
退院の決断が早すぎたとの見解もあり、“日本側の配慮不足”を指摘する声も」
外報主幹が淡々と補足する。
「政府は、この件に口を出してきているのか」
その問いに、編集局長がふと間を置いた。
会議室に、わずかな緊張が走る。
「……正力家から、“加減せよ”との文言が届いている。
報道そのものを止めろとは言わんが、社説や表現の熱量を調整しろと」
誰もが、喉に引っかかったような息を飲んだ。
その瞬間、川辺の脳裏に、あの若手記者の言葉が蘇る。
「報道の自由って、ほんとにやる人っていないんですね」――。
黙っていることが、正しいのか。
川辺は、意を決して手を挙げた。
数秒の沈黙ののち、編集次長が気づく。
「……川辺くん。何か?」
「はい。僭越ながら、申し上げます」
会議室の視線が、一斉に若手記者に注がれる。
だが川辺の声は、揺れなかった。
「今朝届いた投書に、こんな文言がありました。
“津田を討てとは思わない。けれど、真実を知らせてもらえないのは、もっと恐ろしい”と。
これは、ただの過熱ではありません。“知ろうとする声”が、各地で起きているんです」
編集局長が、目を細めた。静かに言葉を継ぐ。
「……なるほど。つまり、“火を弱める”ことが、煙を晴らすとは限らん、ということか」
「はい」
短く、はっきりと川辺はうなずいた。
数人の記者が小さく頷き合う。
会議室の空気は、目に見えぬまま、わずかに動いていた。
その後の議論では、表現のトーン調整は必要としつつも、
社会部と外報部においては「検閲に近い自己規制」は避ける方針が、暫定的に確認された。
会議後、川辺は部屋を出たところで、社会部長に呼び止められた。
「言いたいことは、分かってる。だが、言い過ぎるな。今はまだ、あんたが守られる立場じゃない」
「……分かってます」
川辺はそう答えながらも、心の中で、もう一つの言葉を握っていた。
(でも誰かが言わなきゃ、新聞は窒息する)
空の色はまだ変わらない。
だが、誰かの肺には確かに、次の息が満ち始めていた。
(続く)




