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刑吏の刃  作者: 長谷川慶三
第三章 遠ざかる天蓋
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静かなる命令

 十五日午後。霞が関。空は重く曇り、陽もなく、風もない。

 昼の定例会議を終えた内務省政務室の村岡のもとに、一本の内線が届いた。


「午後一時、第四別館、記録不要の打合せ室にて。ご一人でどうぞ」

 発信者の名は伏されていたが、その声に覚えがある。

 外務省――古参の実務官僚、政官の“調整屋”。表舞台には決して立たないが、時に政策より重く働く存在。


(……来たか)


 それは要請でなく、通告だった。

 しかも、記録に残らぬ非公式会談。これはつまり、**「口頭による国家の方針」**を伝える場に他ならなかった。


            *


 霞が関の第四別館。その北側に設けられた応接室は、「一時待機室」の名で庁内の図面に記されているが、そこに「待たれる者」は決していない。

 ここは、訪問簿にも載らない。出入りの記録もつかない。

 それゆえ、何度も“歴史の決断”が静かに積み上げられてきた場所だった。


 午後一時きっかり、村岡が扉を押し開けると、既に一人の男が腰掛けていた。


「ご足労をおかけしました。暑くも寒くもないのが、せめてもの慰めですね」


 にこやかな声。灰色の羽織に眼鏡をかけたその男は、名刺も差し出さず、名も名乗らなかった。

 だが、村岡はよく知っている。外務省欧亜局の局長、対露実務の第一人者。

 彼が動く時、それは「上」が動いたということだった。


「まず、結論から申し上げましょう」


 男は紙一枚も出さず、声だけで告げる。


「報道の調整を。今日から数日、紙面の温度を下げていただきたい」


「……世論が沸点に達しています。鎮火には材料が要ります。たとえば、司法の進展や――」


「それが、間に合わないのです」


 静かだが、その言葉には有無を言わせぬ気迫があった。


 男は微笑のまま、言葉を重ねる。


「ロシア側にて、“第二の報復”が議論されています。退院後、体調は回復傾向にありますが、周囲はますます過敏に動いております。

 皇太子の希望とは無関係に、体面と威信の名のもとに、列強の“事後処理”が始まろうとしている」


 村岡は口を閉ざした。

 退院の電報が届いたのは、まだ昨日のことだった。

 だが、それが世論の“鎮静”につながるどころか――むしろ、次の段階を呼び込んでいる。


「……何が、足りなかったのですか? 情報の伝達か、調整の速度か」


「どちらも、です」


 男は、穏やかに即答した。


「医師団からの報告が、外務本省に届いたのは十三日正午。その時点で“数日内の退院”という表現でした。

 ところが午後になり、現場が判断を変えた。“即日退院”の動きが出たのです。

 現地公使館も慌てて連絡を上げましたが、そこから内務省まで通る前に、既に彼は病院を後にしていた」


 村岡のこめかみに、静かな痛みが走った。


「退院を止める意志は、ロシア側には――?」


「閣下の周囲にいる親衛隊と看護責任者は、反対しました。しかし、本人と側近は動くと決めていた。

 ロシア皇帝の弟たる者が、いつまでも『守られているだけの傷者』であることを忌避したのでしょう」


 しばしの沈黙。時計の秒針が、ひとつ、ふたつと進む。


「……こちらとしては、これ以上“火に油”を注がせたくはありません」


 男の声は静かだったが、その言葉の輪郭は明確だった。


「社説や論調の“意図的な煽動”は、司法や宮内をも危うくします。

 言論封殺ではなく、“空気の誘導”としての調整。

 それが、あなた方“内”の役目ではありませんか」


 ――火消しをしろ。

 それが、この場の「命令」だった。


 しかし。


 村岡はその場で、ゆっくりと息を吸い込んだ。


「……私は、報道を敵だとは思いません。むしろ、ここまで持ち堪えているのは、国民が言葉に寄りかかっているからです」


 男の微笑は崩れない。


「分かっています。ただ、それが臨界を超えようとしている」


「――だからと言って、口を閉じさせるなど、私にはできません」


 声は低かったが、明確な抵抗を含んでいた。


「あなた方“外”が、国際の理屈で押してくるのは理解します。だが、我々は“内”を守らねばならない。

 言葉の制御は、最も危うい火遊びです。指示が一つ間違えば、全てが燃え上がる」


 男のまなざしが、わずかに陰る。


「……それでも、必要なのです。暴風が来てからでは遅い」


 村岡は頷くことも否定することもせず、ただ立ち上がった。


「……我々の役目を、忘れたことはありません」


「それで十分です」


 男は微笑んだまま、扉の方へ目線を移した。


「世の言葉は、刃です。どう研ぐかは、あなた方の選択です。

 ただし――暴発すれば、我ら全員がその刃の下に立つことになる」


 村岡は何も言わず、深く一礼して部屋を後にした。


 霞が関の風が、曇り空の下を無音で流れていった。


(続く)

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