紙背の咆哮
5月14日 午後五時過ぎ。読売新聞大阪通信部。
壁掛け時計の音が、静まり返った編集室に小さく響いていた。
記者たちの手は止まり、全員の目が一枚の紙に注がれていた。
「……“皇太子閣下、本日午後、病院より宿舎へ帰還”」
部内で最も若い記者が、掠れた声で読み上げた。
上層から届いた特電――外務筋の情報に基づく速報文である。
「……まさか、今日とはな。退院自体は近いとは聞いていたが……」
そうつぶやいたのは、川辺の先輩格にあたる整理記者だった。
眉間に皺を寄せたまま、机の上のゲラを引き寄せ、ざっと読み返す。
「どうする? 一面、差し替えるか?」
「当然だ。いや、差し替えじゃない。上から塗り替えるんだ」
編集長が口を開いたのは、それから数秒後だった。
「社告に準じる扱いでいい。これは“続報”じゃない。“転機”だ。
皇太子が移った、ということは、我々も紙面の段階を一つ進めねばならん」
「では、“快復”と見出しに……」
「……待て」
そう言ったのは、川辺だった。
彼は、机に置かれた原稿用紙の上に手を乗せたまま、低く言った。
「“快復”と“赦し”は、同義ではありません。
もし紙面に“快復”と打てば、津田に対して“寛容になるべき”という空気が生まれる」
「……逆に、“快復したのだから報いを”という声もあるな」
「いずれにせよ、我々が火を打ち込むことになる」
室内が静まる。
「見出しは、“閣下、病院を出る”にとどめましょう。
紙面では事実のみ伝え、論評は明日の朝刊に回すべきです」
若手が思わず口を挟む。
「でも、それでは他紙に遅れを取ります」
川辺は、その声に目を向けた。
「遅れるのは、追いつける。しかし――誤るのは、償えない」
しばしの沈黙ののち、編集長が椅子を回しながら言った。
「……載せよう。川辺の草稿、第一段でいい。続けて二段目に医師団の談話、三段目に外交筋のコメント。面構成はこっちでやる。だがな」
「はい」
「明日、紙面が国を動かすぞ。その覚悟で、記事を書け」
川辺は、深く頷いた。
そして、自席へ戻ると、もう一度ペンを手に取った。
紙の上に走る黒いインク――
それは、ただの報告ではない。
時代の温度と、記者の覚悟が宿る、ひとつの火種だった。
*
編集部の執務室は、昼下がりの光が差し込む中でも重苦しい空気に包まれていた。
机の上には山積みになった記事原稿、活字にされる前の生々しい声がひしめく。
編集長の大川は眉をひそめ、重たい決断を迫られていた。
「今朝の読売の第一報、反響が凄まじい。抗議の電話、編集部への訪問者も相次いでいる。世論の嵐が吹き荒れていると言っても過言ではないな」
若手記者の川辺は、先日の現場取材の報告書を編集長に差し出す。
その目は、焦りと使命感に燃えていた。
「記事はしっかりと事実に基づいています。ただ、上からの圧力も感じていて、書きたいことの全てを出せるわけではありません」
大川は深く息をつき、手元の資料を見つめた。
「我々は報道機関だ。だが政治との関係も無視できない。事実を伝えるのか、国の体面を守るのか。そこが今、最大のジレンマだ」
副編集長の橋本が口を開く。
「今は情報の出し方を慎重にしないと、国際問題に発展しかねません。外交部門も我々に目を光らせている。表現一つで大騒ぎになるだろう」
編集部員たちの視線が交錯する。
川辺は胸の内を打ち明ける。
「しかし、隠し通せば世論の疑念は深まるばかりです。国民は真実を知る権利がある。私たちがその橋渡しを担わなければ、新聞の意味がありません」
議論は白熱し、結論はまだ見えなかった。だが一つだけ確かなのは、紙の向こうに広がる「声なき声」が、今まさに咆哮となって編集部に届いていることだった。
(続く)




