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刑吏の刃  作者: 長谷川慶三
第三章 遠ざかる天蓋
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蒼白の間

 1891年(明治24年)5月14日 午後八時すぎ

 帝国ホテル・特別応接室


 白漆喰の壁に、深紅の緞帳が重たく垂れていた。

 ガス灯の明かりが静かにゆらめくなか、部屋の空気は濃密な沈黙に包まれている。


 村岡は、袖口をきつく整えながら、視線を正面の椅子に向けた。


 そこに腰を下ろしていたのは、司法省の井田次官。

 背筋を正し、指先で膝をなぞるその所作には、やはり“司法の顔”としての風格があった。


 部屋の奥、窓の前に立っているのは、外務省政務局の有馬参事官。

 石井次官の懐刀とも呼ばれる人物で、普段は表に出ないが、今日の“報せ”を受けて、わざわざこの場に姿を現した。


 村岡は、場違いなほど丁寧に一礼した。


「……お招き、痛み入ります」


「気にするな。火急のことだ」

 井田が手をひとつ挙げ、空気をほどくように言った。


 有馬は、ゆっくりと振り向いた。


「読売が退院を報じた。午後の号外で」


「承知しております。内務としては、情報の起点がどこだったか追っておりますが、発信源は未だ不明です。病院筋の可能性も」


「だろうな」

 井田は短く答え、椅子の肘掛けを指で叩いた。


「問題は、その報せが“読者にどう響くか”だ。新聞は今、政治よりも速い。……その後を我々が“どう回収するか”を、考えねばならん」


 村岡は頷いた。


「外交・内政の隔たりが、あの日を境に顕在化しました。今日はそれが、明確に形となって表れた。――読売の報道、そしてその読者の反応は、その証左です」


「そう。まさにそれだ」

 有馬がゆっくり歩み寄ってきた。


「こちらは、退院の日時すら“後付け”で知った。大使館筋と閣下の判断とやらに、我々の国は口を挟めぬ。だが、“報道”はそうではない。あれは、民意を直撃する」


 村岡の手元にある小さな手帳が、薄く開かれていた。

 そこには、読売が用いた見出しと、抜粋された本文がびっしりと記されている。


「皇太子閣下、御全快近しと――退院にて本日午前、ご静養の地へ」

「国難の傷未だ癒えず、外交、なおも予断許さず」


「このまま、世論の波が“お咎めなし”の空気に流れれば……」

 村岡は、はっきり言った。


「――津田の刑は、世論裁判により決されます」


 井田の眉が僅かに動いた。


「……忌々しい話だが、否定できん。司法が“公正”を守るには、“納得”を先に確保せねばならぬ時代になっている。特に今回は、“相手が相手”だからな」


 有馬が重ねた。


「ロシアは“赦した”とは言っていない。退院とは、“儀礼の終了”であって、“融和の兆し”ではない。勘違いするなと、我々自身が、まず心せねばならん」


 三人の間に、重たい静寂が戻る。


 やがて村岡が静かに尋ねた。


「……では、どうなさるおつもりで?」


「内閣に上げる」

 有馬が即答した。


「明朝、閣議を臨時招集させる。内務・外務・司法――三省の調整案として、“退院の経緯と報道対応”を一括報告として持ち込む」


 井田も頷く。


「前例はない。だが、前例を待っていたら国が後れる。……今回は、“密室の会話”が、そのまま国の進路になる」


 村岡は、もう一度深く頭を下げた。


「誠に、畏れながら――我々下吏も、責を以て尽力いたします」


 誰も返事はしなかった。


 ただ、灯の揺れる部屋に、それぞれの胸の内だけが静かに燃えていた。


             *


 帝国ホテル、午後六時。


 帳の降りる時刻が近づくと、街のざわめきも音を低めてゆく。

 だが、五階の特別応接室――通称“蒼白の間”は、なおその熱を帯び続けていた。


「……退院の報。読売は、夕刊で確定的に報じましたな」


 最初に口を開いたのは、貴族院所属の大物議員、伯爵・相馬貞胤だった。

 品のある白髪と低い声。だが、その目は鋭く、政治の荒波を熟知している。


「政府の公式発表がないまま、こうして報道が先行する。国民の“怒り”も“安堵”も、制御不能になるやもしれぬぞ」


「遅れたのではなく、知らせを“掬えなかった”のです」


 村岡は静かに応じた。

 その声に、居合わせた者たちの視線が集まる。


「この退院は、政治の決裁ではなく、大使館と皇太子ご本人の判断に基づくものであり――外務省も、事後の通達しか受けておりませんでした」


「事実か、それは」


「はい。外務省とは本日午後、直接すり合わせました。いくつかの過程で、連絡が断絶していたのは確かです。しかしそれは“無視”ではなく、“許容された隠密”だった」


 短い沈黙。


「……つまり、外交判断の範疇だったということか」


「はい。医師団、宮内、そしてロシア大使館。三者での折衝が先行したため、内務への正式連絡は“行き違った”。ただ、ここから先は、統一した発信が必要です」


 相馬は口を引き結び、ひとつ頷いた。


「統一した“発信”というのは、つまり……津田の処遇だな?」


「……いずれ、それを報じざるを得ません」


 応接室の空気が、わずかに揺れた。

 居合わせた政府高官の一人が、重たく声を上げる。


「死刑か否か――ではない。“審理に値するのか”すら、今なお揺れている。だが我々には、急いで『筋』を通したかのように見せかける知恵が要る」


「そう。日本の法が機能している、という外形です」


 村岡の言葉に、またひとつ頷きが生まれた。


「誤魔化してはならない。しかし、混乱も許されない。……“精密な擬装”が必要だ」


「では、それを進めるとすれば……“明朝”には、なにかしら“筋道”が見える文案が必要だな」


「はい」


 村岡は、すでに内ポケットに収めていた封筒を差し出した。

 今朝の時点で草案された、非常時想定の声明原案。

 まだ未定稿ではあるが、それは政府の中枢を繋ぐ、“目配せの一歩”だった。


 伯爵が封を切り、黙して数ページを読み下ろす。


「……悪くない。これは、外務にも同時に提示しておけ」


「承知いたしました」


 話は、静かにまとまりつつあった。


 外の空は、もう群青に近い。


 部屋に明かりが灯されると、額の汗と疲労が、徐々に人々の表情を照らしていった。

 見栄も威厳も、今この場ではただの仮面だった。


「……次は、報道だな」


「はい。報道にどう伝え、どう抑えるか。そこが鍵となります」


 村岡の目は、もう次の行動を見据えていた。


 ――夜は、まだ長い。

 だが、その先に待つ朝の紙面が、国をどう揺らすかは、

 今ここにいる者たちの手にかかっている。


(続く)


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