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刑吏の刃  作者: 長谷川慶三
第三章 遠ざかる天蓋
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静寂の綻び

 1891年(明治24年)5月15日 午前六時四十五分 東京・読売新聞社内


 活版の余熱がまだ残る刷り立ての朝刊が、束になって編集局の机に叩きつけられた。

 見出しには、こうあった。


 ――《露皇太子、退院さる》

 ――《経過良好との報 宿舎に戻らる》


「……出しやがったな」


 川辺は、紙面に目を落としたまま息を呑んだ。


 無署名の簡素な記事だった。出所は不明だが、文面から察するに外務筋。

 だが、それ以上に衝撃だったのは、これが公刊されたという事実だった。


「知らされてない……いや、外務省も、内務省も、これは“出すな”という温度だった筈だ」


 誰かが独断で、あるいは、漏らした。

 そして、それを掴んだ記者が、社の決裁を通して記事に仕立てた。

 タイムラグは最短で半日。退院が十四日午後、いまは十五日の朝。


 川辺は、手元のノートを開いた。

 数行のメモを走り書きしながら、頭を巡らせる。


(これは、方針が変わったか、それとも混乱か……?)


 背後では先輩記者たちがざわついていた。


「官邸からの抗議、来るかもしれんな」

「読売が抜け駆けとはね。毎日か時事も次号で後追いだろうよ」


 川辺は黙って新聞を畳んだ。

 この報道は、きっと世間の“空気”を変える。いや、変えさせられる。


 退院した――それはつまり、「危機を脱した」というメッセージだ。

 世論は“怒り”から“安堵”へ、あるいは“忘却”へと傾く兆しがある。

 一方で、事件の根幹は――何も解決していない。


「……こっちは、どう書く」


 独り言のように呟きながら、川辺は筆を取った。

 見えない重圧が、言葉を選ぶ指先にのしかかる。


 だが、このまま“報道”が政府と歩調を合わせるのなら。

 あるいは“空気”だけで国の方向が決まるのなら――


「俺たちは、何を書くためにここにいるんだ」


 視線は、まだ白い紙面の上に落ちたままだった。


           *


 1891年(明治24年)5月15日 午前九時半 読売新聞社・編集部内


 静かな熱が、編集部を包んでいた。


 喧騒ではなく、沈黙に近い緊張感。

 各紙が“退院”を報じはじめたこの朝、新聞社という情報の炉では、報道の在り方そのものが試されていた。


「川辺、君の記事、見せてくれ」


 編集長の声は落ち着いていた。だが、声の裏には、明確な意図があった。

「どこまで切り込むつもりか」、それを確認する目だった。


 川辺は、下書きの原稿を無言で差し出す。

 机の上には、いくつかの証言メモと昨日付けの動静一覧。


 その原稿は、こんな書き出しから始まっていた。


“退院”という言葉の持つ響きは、常に安堵と結びつく。

 だが、その言葉に含まれぬものこそ、本質である。

 皇太子が病院を出たという一報が伝えられたとき、街の空気は、たしかに一瞬緩んだ。

 だが、“なぜ”いま、“どのような意図で”、それがなされたのか――

 その部分に、誰もまだ言葉を与えていない。


 編集長は数行読み、ペン先を止めた。


「感情で煽る文ではないな。だが、“黙ってはいない”という姿勢は見える」


「ええ。“空気”で押し流される前に、ひとつ楔を打ちます」


 川辺は答えた。

 言葉を選び、立場を危うくする覚悟も込めた声だった。


「退院という事実を、私たちが“どう報じるか”で、読者の思考は変わる。今の世論は、まだ考える余地を求めています。そこに沈黙することは、事実上の加担になる」


 編集長はしばらく無言だった。


 窓の外では、街のざわめきが遠く聞こえる。

 すでに号外が出ている。どの紙面も、「快方に向かう皇太子」を強調していた。


 やがて彼は、原稿をそっと閉じた。


「刷ろう。だが、“その部分”は社会面に寄せる。社説には使わない」


「……承知しました」


 痛みの走るような瞬間だった。

 だが、それも覚悟していた。紙面のすべてを支配できるほど、川辺の立場は重くない。


 しかし、刷る。

 この言葉は、この段階で最大限の突破だった。


 川辺は、原稿をもう一度整え、印刷部に手渡す。

 鉛の活字が、言葉に輪郭を与え、明朝体の力で真実を打つ。


“退院”の報せが、安堵だけを運ぶのではないことを――

 その綻びの中に、まだ確かに揺れる火種があることを。


 報道は、事実だけを伝えるのではない。

 その事実が「何であるか」を問う者の手で書かれねばならない。


 **


 午前十時を回り、読売新聞の新しい刷り束が編集部から搬出されていった。


 街へ。

 読者へ。

 そして、まだ「終わってなどいない」事件の最中へ。


 川辺は、夕刊の準備に向けて新たな原稿用紙を手に取った。


(一歩目は、通った。次は、もっと深く)


 手は止まらなかった。

 口を閉ざす者の多いこの街で、あえて書くために――


(続く)

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