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刑吏の刃  作者: 長谷川慶三
第三章 遠ざかる天蓋
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断絶の午後

 1891年(明治24年)5月14日 午後四時三十分

 外務省庁舎・政務室


 窓の外に、夕日が差していた。

 赤く、低く、じわりと庁舎の壁を焼くように沈んでいく。


「……やはり、午後には移っていたか」


 石井次官が静かに呟いた。

 机の上には、カール代理公使から渡された通達が置かれている。午後三時過ぎ、ようやく外務省に伝わった「退院の正式報告」であった。


「十三日午後、ロシア大使館への帰館。病状安定。閣下の希望により――とあるが……」


 村岡は報告文に目を落とした。


「“希望”が通るだけの判断が、すでにあったということでしょうか。……問題は、そこに我々が関与していないことです」


 石井は黙って書類を返す。

 その手はわずかに汗ばんでいた。


「外務の下にも、“本日中には退院する可能性がある”とは伝えられていたらしいが、それが正式な“通告”として我々に回ってきたのは、今になってからだ」


「医療上の判断ですか? それとも……政治的な?」


「――両方だろうな」

 石井は小さく息を吐いた。


「先方からすれば、我が国が“守りきれる”かどうかを、これ以上見極める必要がなかった。退院とは、“信任”ではない。“相応の距離を置く”という外交上の意志表示でもある」


 村岡はわずかに目を伏せた。


「……では、我々が、この“事後報告”を受け入れねばならない理由は?」


「もう一つ、文面に気になる文言があっただろう」


 石井は手元の紙を指さした。


「“今後の静養において、閣下の御身辺は、ロシア大使館側が責任を持って保全する”。……つまり、日本側の手は、今後一切入れられない」


“排除”という語が、暗に通底していた。

 その意味を、二人はよく理解していた。


「以後、退院後の動静には我々は関与できない。医師の出入り一つ、報道の反応一つ、すべて“大使館の外”から眺めるだけ、ということです」


「……この意味、新聞各社がどう受け取るか」


「問題はそこです」


 村岡はすぐに応じた。


「退院=快癒、と受け取れば、世論は“外交的赦免”を連想します。そして“なぜ赦されたのか”が、次の焦点になる」


「つまり、“誰が裁かれるか”だ」


「はい。……津田、そして制度です。我が国の裁きが、“赦し”に見えぬようにせねばならない」


 石井は椅子の背にもたれた。


「言葉が、先走るな」


「ええ。“赦したのではなく、保ったのだ”。それを、我々の口からではなく――新聞の紙面から、言わせなければならない」


 **


 政務室の空気は、ゆっくりと重くなる。

 誰かが咳払いをし、廊下では時計の針を巻く音が聞こえた。


 この部屋で発せられる言葉は、

 もはや報告でも通告でもない。

 それは“誘導”だった。


 事実をどう見せるか。

 怒りをどこに誘うか。

 そして、どの矛盾を、静かに見えなくするか――


 村岡は立ち上がった。


「明朝の各紙に、“退院”の文字がどう並ぶか。見極めましょう」


「我々の役目は……」


「“誰も掬えなかった”と、思わせないことです」


 ふたりは、同時に頷いた。

 日が傾き、また一つ、長い一日が終わりに近づいていた。


(続く)

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