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刑吏の刃  作者: 長谷川慶三
第三章 遠ざかる天蓋
18/58

早暁、退院す

 午前七時過ぎ。

 内務省政務室の扉が、報せとともに静かに開かれた。


「……来ました。今朝六時三十三分付、外務省経由の電報です」


 手渡された用紙は、折り目の皺もまだ固い。

 村岡は無言で受け取り、そこに記された数行の電文を目で追う。


「皇太子閣下、退院。経過良好。十三日午後、宿舎へご帰還。ロシア大使館、これを確認済」


 文字数は少ない。

 だが、意味するものはあまりにも大きかった。


(……退院、したか)


 病院にいたあの「負傷した皇太子」は、もはや“保護されている被害者”ではなくなる。

 その身を移すということは、外交的にも“次の段階”に進んだことを意味していた。


 しかし同時に、村岡の胸には思わぬ違和感が重くのしかかった。


(こんなに早く……本当に大丈夫なのか?)


 皇太子が退院するには、あまりにも速すぎる。

 負傷の重さを考えれば、回復にはなお時間を要するはずではなかったか。

 情報の向こう側に、何か計り知れぬ圧力が働いているのではないか。


 目の前の電報を、村岡は再びじっと見つめた。

 呆気に取られたとはまさにこのことだった。


「この情報、いまどこまで?」


「外務省内で第一次展開。大臣、次官筋には報告済です。新聞各社は、まだ知らぬ筈です」


 村岡は頷いた。

 対応の順序を組み立てながら、書棚から前夜の報告文案を引き抜く。


「今日中に、世論がまた一段階、動く。問題は――どちらに向けて、動かすか、だ」


 そしてつぶやいた。


「……これで、“津田”の処遇が、いよいよ待ったなしになる」


 **


 扉の外では、次々と報告を携えた職員が待機していた。

 報道、司法、宮内、そして大使館筋――

 各線が結ばれ、圧が一点に集まってくる。


 村岡は、指でこめかみを押さえる。


 退院。それは「快復」ではあっても、「赦し」ではない。


 そのことを、どこまで国民が理解してくれるのか。

 あるいは、どこまで、政治が制御できるのか――


 日が昇る。

 情報が広がる。

 そのすべてを、受け止める用意はできているか――


 今日という日が、静かに、始まっていた。


           *


 村岡はすぐに内線電話の受話器を手に取った。


「外務省、担当の者か。今朝の電報を受けたが、皇太子閣下の退院に関して、そちらで詳細な状況の把握はできているか?」


 受話器の向こうから、落ち着いた声が返ってきた。


「はい。先ほど大使館から正式に確認を取りました。経過は良好との報告でございます。ただ、迅速な退院については現地事情により不自然さも否めず、我々も注視しております」


「その点はこちらも同様だ。何か異変や追加の情報が入り次第、即座に連絡を頼む」


「承知いたしました。こちらも本件を最重要課題として扱っています」


 村岡は受話器を置きながら、ふと窓の外を見る。

 曇り空の向こうで、太陽がゆっくりと昇り始めていた。


(事態は確実に次の段階へ動いている――だが、果たして誰が、この先を制御できるのか)


 重苦しい覚悟を胸に、村岡は次の指示書をまとめ始めた。


(続く)


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