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刑吏の刃  作者: 長谷川慶三
第三章 遠ざかる天蓋
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声なき声、紙上にて

 1891年(明治24年)5月13日 東京・京橋区/読売新聞本社 編集局


「……これは、出していいのか?」


 束ねられた地方紙の早刷りを手に、編集部の机に向かっていた若手記者・片山が呟いた。


 一面に載っているのは、ある関西紙が掲げた特報だった。


《ロシア皇太子を襲った津田なる者、狂気にあらず、明確なる反露の信念ありきとす。政府がこれを個人の犯罪と断ずるは、まこと姑息の極み。我らが明治の忠義を、なぜ露国へ屈して曲げねばならぬか。“死刑”を以て贖うも、まだ足りぬ。》


「掲載は……止めていません。すでに発行されてますよ。関西一円に回ってるはずです」

 隣でメモ帳をめくる校閲の男が、低く返した。


「滋賀からの通信はどうなった?」


「読者投書が急増中。……激励と怒り、五分五分です。

 ある巡査の親族から、“津田の本意を見極めず、斬り捨てるべからず”と来ています。

 一方で、“皇太子が命を失っていたらどうするつもりだったのか”と。

“切腹して詫びるのが日本人”だ、と書いてきた人もいます」


 片山は黙って、投書の束を見た。どれも達筆だった。墨の香りと、静かな激昂が漂っていた。


「……村岡という人、止められるんですかね。これ」


 誰にともなくつぶやいた言葉に、応じたのは編集局長だった。


「止める、じゃない。飲み込むんだ」


「え?」


「これは火じゃない。波だ。新聞も、役所も、もう呑まれている。

 この“国辱”という言葉が、独り歩きを始めたら――止めようのない事態が来る」


 局長は、ゆっくりと関西紙の紙面に目を落とした。

 その最下段には、こうあった。


《なお、宮内省からの正式な声明は、依然として発されていない。

 国民の不安、いかばかりか。》


 —


 その日、川辺は編集室の片隅にいた。

 まだ若い記者だ。だが、東京から持ち帰った空気は、彼の中で一度も冷えていなかった。


「……これじゃ、“裁判の行方”を追う記事なんて、出す前に世論が追い越す」


 そう言って、紙面設計の試し書きを破り捨てると、ノートの端に、こう書いた。


“言葉が国を曲げるとき、正しさなど役に立たない。”


 それを誰に向けて書いたかは、自分でもわからなかった。


 ⸺波は、すでに寄せていた。


 それが潮なら引く。嵐なら荒れる。

 だが今、世間に満ちつつあるのは――名もなき怒りの、重たい気配だった。


            *


 午後三時。

 内務省政務室の窓からは、日が斜めに差し込んでいた。


 机上には、新聞各紙の朝刊。

 どれもが皇太子負傷事件を一面に掲げ、社の論調を競うように並べている。


 村岡はその束の上に手を置いた。開くでもなく、ただ重ねていく。

 まるで、声を封じるように。


 一紙、二紙と指先を滑らせ、彼は確認する。

 世論の熱――それが、どこへ向いているかを。


「……悪くない流れではあるが」


 独りごちた声が、書類の束に吸い込まれる。

 激情一辺倒ではない。だが、制御できるとも言い切れない。

 一線を越えた言葉は、いずれ外交問題の矛先にもなる。


 部下が入室し、静かに報告した。


「警視庁より、記者対応の要請が増えております。署内でも対応を一本化したいとのことです」


「当然だろうな。……こちらにも、次の連絡が来るはずだ」


 村岡は言って、書棚から一冊の報告書を抜き取った。

「警察年報」。津田巡査の名が確かに載っている。

 今朝、川辺という若い記者が、そのことを気にしていたのを思い出す。


(言葉は伝染する。だが、伝染する速さに、我々が追いつけるか)


 目を伏せ、再び新聞を手に取る。


 そこには、言葉の洪水があった。

 激情、同情、揶揄、憤怒、冷笑――すべてが紙の上に、活字となって躍っている。


 それらすべてを静かに読み、そして、書かない。

 いま村岡が手にしているのは、筆ではない。

 沈黙だった。


(続く)

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